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誰も「本」を読まなくなる5つの理由


1、「本」は「器」に過ぎない、ことに人々が気づいた

 「本」はアイデアを入れる「器」に過ぎない。しかし、歴史的に「器」(紙や墨などの資材)があまりに貴重であったため、中身よりも「器」を有り難がる倒錯が生じた。これを物神化(フェティシズム)と言う。

 今でも、「本」を瑣末に扱えない、ゴミ置き場に捨ててあるとつい拾ってしまう、という旧世代がいるのは、そういう幻想が生きていたからである。

 「本」を読む、「本」を書く、ということに価値を置く文化は、こうした「器」信仰と切り離せない。「本」に書かれていることだから信用できる、「本」を読むことはとりわけ文化的な時間の使い方だ、という考えには、長いルーツがある。

 しかし、「器」の工業的価値が下がると共に、どんなクズな中身の「本」も出るようなった。それに気づいた人々にはもうこの幻想はない。


2、「本」と「高い文化価値」が結びつかなくなった

 前項で述べたように、「器」の工業的価値の下落と共に、中身の堕落が始まった。

 かつては、どんなに偉い学者でも、「本」を出せる機会は生涯に何度もなかった。だからこそ、その「本」には高い文化価値があった。

 出版物の価値を担保する「出版文化」は、おそらく100年前にはまだ生きていた。かつての書店は無学者には敷居の高い場所であった。書籍広告が新聞の一面に掲載される慣習は、その頃の名残である。

 だが、その後、「出版文化」は段階的に滑落し、出版人のモラルや編集技術は頽廃していった。

 いま、最高の人材は、出版界に集まらない。一流出版社でも、優秀な人は漫画編集やライツ管理の部門には来るが、他の部署は凡庸な者ばかりである。2流以下の出版社は推して知るべし。

 今や書店の前面に並ぶのは、もっぱら、漫画と、安っぽい新書と、いかがわしい宗教本、三文小説であり、行くのが恥ずかしい場所になっている。


3、「本」は「時代遅れの知識」の入れ物になった

 いま、何か調べものをするために、1970年代に出版された「大百科事典」に当たる人はいない。

 かつて、どんな図書館でも前面に置かれていたこうした「百科事典」は、今やそれを開く人はなく、書庫の奥で紙魚のえじきになっている。

 百科事典に限らず、「本」は、出版されると情報の更新ができない。それゆえ、すべての「本」は、出版されればすぐに時代遅れになる運命にある。これは今日、致命的な欠点である。

 人類史の多くの時代では、いにしえの英知をどのようにして忘れないでいられるか、が文化的な課題であった。そのような時代では、「本」はむしろ古ければ古いほど価値があった。

 いまも歴史学者や考古学者には「本」は興味深い史料かもしれない。でも、多くの人にとって、情報を得るには、ウィキペディアのほうが実際的で価値がある。


4、そもそも「本」を書くのも読むのも苦痛である

 認知心理学が明らかにしたように、言語を話すのは人類の本能である。特に訓練しなくても、子供は自然に言葉を覚え、話しはじめる。

 しかし、「読み書き」の能力は、本能の中に入らない。それはどんな文化でも、長く厳しい訓練で習得されるものであり、いまだに「読み書き」のない民族もある。

 われわれには、「読み書き」は、本当は苦痛なのである。これは、「読書文化」に洗脳された人々が見逃していることだ。「いつまでに書いてくれ」「これを読んでおいてくれ」という命令に、人々は心の奥では、恐怖を感じている。

 「漫画」がここまで繁栄した理由の一つは、この「読み書き」の恐怖から、人々を部分的に解放することにある。絵によって説明されるため、「読み書き」の負担は大幅に軽減される。

 50年ほど前は、漫画大国の日本でも、大人が「漫画」を読むことは、大威張りの行為ではなかった。大人になると、活字の「本」を読むことが期待された。しかし、今や大人も「漫画」を読み、出版業界はその売れ行きに依存している。

 それならば、「本屋」ではなく「漫画屋」だけあればいい、「出版業界」ではなく「漫画業界」だけあればいい、と業界内部でも気づきはじめているが、まだ口に出す勇気がない。


5、「本」はデジタル化になじまない

 紙の「本」はダメでも、「電子書籍」なら生き延びられるのではないか、という考えがあるだろう。

「電子書籍」なら情報も更新でき、書店での販売に依存しない。コストも安くできる。

 だが、そうなってもそれが「本」である必要があるのか、という問題がある。代替物としてブログでもいいし、こういうnoteのようなSNSでもいいだろう。

 「本」はデジタル化によって、マルチメディアとして新しい媒体価値を生み出すと信じられた時期もあった。たとえば、かつて販売されていた「マイクロソフト エンカルタ」のような方向だ。

 しかし、それは発展しなかった。「本」という「器」、「本」を書く能力、「本」を作る編集・製作技術は、「出版文化」の権威主義的体質ともども、デジタル化の時代にはなじまない。

 「読み書き」能力の高い作家や編集者が、人気の出るYoutubeのコンテンツを作れる訳ではない。逆に「読み書き」の能力がなくても、人気Youtuberになれる。

 そして、人気Youtuberの配信内容が「本」になったりする。そういう「本」がすごく売れたという話は聞かない。誰もが思うからだろう。Youtubeを見ればいいじゃん、と。「本」は不要なのである。


(とりえあえず終わり)



 

 

 

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