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名前のない戦争 「日本はアメリカに負けてよかった」のか

77年前に終わった戦争には、いまだに正式な名前がない。細谷雄一氏(国際政治学、慶応大教授)の文章で、そのことに改めて気づかされた。

そもそもこの戦争の呼称さえも定まっていない。「大東亜戦争」から、「太平洋戦争」へ、そして「日米戦争」や「アジア太平洋戦争」と、さまざまな呼称が存在する。
いずれの呼称を用いても、日本国民の間でコンセンサスを得られるようなものはない。したがって日本の首相や明仁天皇(現在の上皇)は、「先の戦争」や「先の大戦」という呼称を用いて、歴史を語っている。(細谷雄一「戦後77年、「大東亜戦争」を経て日本が失ったものとは」『Voice』2022年9月号)


いまだに名前すらないのは、この論文が言うとおり、日本人が主体的に戦争を総括する機会が与えられなかったからだ。

戦争が終わって、慌ただしく日本人に与えられたのは、「先の戦争はこうであった」という、アメリカを中心とした戦勝国の総括だった。

そこで重要なのは、日本は単に負けたのではなく、その邪悪な世界観のゆえに負けたとされたことだ。

人々は最初、疑心暗鬼であったが、次第にその総括を受け入れるようになる。

戦前には与えられなかった自由や豊かさが与えられるにつれ、国民は、そのアメリカの総括の正しさをますます信じるようになった。

それを「戦後民主主義」と言い、現在も日本の標準的思想となっている。

この過程に、日本人がどれほど主体的にかかわったかが1つの論点だろう。

ほとんどの日本人にとって、アメリカの総括を受け入れるしかなかった。その正しさに納得することが多くなったとしても、それが「戦争の主体的な総括」と同じだとは言えない。それが細谷論文の主旨だと思うし、私もそれに同意する。

もし、この過程を、「日本人の主体的な総括」として言い直すなら、次のようにしか言えない。

「日本はアメリカに負けてよかった」

それが、アメリカにとって最もありがたい総括であることは間違いない。

戦後の総括において、右と左で分裂しているように見えるが、この「日本はアメリカに負けてよかった」という総括の前提は共有しているように見える。

その前提からの思考の方向が違うだけだ。

左派

「日本はアメリカに負けてよかった」 →  「負けてよかった。負けるのが正しく、それが繁栄と平和の道だった。だからこれからも負け続けよう。非武装非暴力無抵抗主義で行こう」

右派

「日本はアメリカに負けてよかった」 →  「アメリカに負けたからよかった。中国やロシアに占領されたらひどいことになっていた。中国やロシアにだけは負けないよう、アメリカを信じてついて行こう。親米嫌韓嫌中嫌露で行こう」

だが、「日本はアメリカに負けてよかった」という(隠れた)前提を疑わない限り、あるべき日本の価値観に到達できないように思う。

戦後、アメリカが主導したリベラリズム、自由と民主主義の思想の力は、圧倒的だった。それに圧倒されたのは日本だけではない。

そして、それを疑うことが、戦前のファシズムへの回帰ではあり得ないことも自明に思える。

しかし、「日本はアメリカに負けてよかった」と、右も左も暗黙に前提するような思想空間では、日本の独立も、愛国心も、生まれないであろうことも自明に思われる。

このジレンマを、我々戦後世代は解決できなかった。だから偉そうなことは言えない。

細谷雄一氏などは私から見れば若い世代に属する。若い世代が、このようなことをやっと主体的に考え始めてくれたことが嬉しい。

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