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「商売」を低く見る文化

「近代日本左翼史」のために、明治の自由民権活動家や社会主義者の出身階層を調べていると、やはり「旧士族」が多い。福沢諭吉や徳富蘇峰みたいな思想家、ジャーナリストも同じですね。

「士農工商」というのは、最近の教科書に載ってないらしい。インドのカースト制みたいな、厳格な身分制が日本になかったのは確かですが、だからといって、それを言い過ぎると、身分制そのものがなかったように誤解されかねない。

幕末期では、だいたい「士族」「町民」「農民」に分かれて、お互い棲み分けていた。「士族」がいちばんエラいのは間違いないですが、「町民(工商)」「農民」に差はなかった、とされるけれど、「士族」からの心理的距離で見ると、「農民」のほうが近く、「町民」のほうが遠かった、と思う。

それがわかるのが、明治になって、「士族」は政府から「退職金」に当たる公債を受け取り、それを元手に自活しなければならなくなったのですが、「町民」のように商売ができる者が少なかった。いわゆる「士族の商法」で、商売に失敗し、資本を失って自殺する者も続出した。

しかし、そもそも、「町民」のような真似をしたくない、と思った士族が多かった。だから彼らは、「士族の乱」を起こした者は別として、官吏になったり、新聞記者になったり、自由民権活動家になったりした。

基本的に、旧士族の価値観が、体制側でも、反体制側でも、生き延びていくことになる。彼らが受けた教育に中で、抜きがたかったのは、「経済」よりも「政治」を上に見る価値観、「商売」を低く見る価値観ですね。

「商売」を低く見る価値観は、支配階級の儒教的思想にあると同時に、実は西洋の社会主義思想の根っこにあったりする。「町民」たちの自生的なマーケットが嫌いで、国で管理しようとする思想ですね。

まあ、こういうことはもちろん、これまで何百万回も言われてきたことでしょうが。

コロナによる緊急事態宣言で、飲食店の営業が制限された時、一部の法哲学者から「営業の自由を、精神の自由より、低く見る価値観」が指摘されましたが、その根っこも、こういうところにある気がします。

新聞社なんかでも、経済部より政治部が力を持つところが多い(日経は別として)。経済部でも、経済政策とか、財界の政治力とか、アカデミックな経済学とかに興味が向きがちで、純粋なマーケットの情報は(株の市況は別として)乏しい。

何がどれだけ売れているか、という情報が、商売でいちばん大事なわけですが、企業がそれを発表するまで、調査しないことが多い。あまりそういう方に興味がないんですね。

新聞社だけでなく、私がいた出版界にも、昔はそういう傾向があった。「自分たちは売り上げに興味がない。出したいものを出す」みたいな。そういうところはたいがい潰れたけど、そりゃそうでしょう。

ただ最近の若い人たちは、「商売」に差別観がないし、むしろ自由に生きるための条件のように考えていると思う。そこには大きな価値観の変化があるはずです。

一部の知識人の「新自由主義批判」の中には、正当なものもあるでしょうが、昔ながらの「商売嫌い」から出てくるものもある。そちらの方が、昔から知識人の好みですから、気をつけたほうがいいと思うんですね。

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