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「ネクラ」と「陰キャ」

似ているようで、実は違う


「ネクラ」「ネアカ」と、「陰キャ」「陽キャ」は、どう違うのか。

「ネクラ」「ネアカ」が、「陰キャ」「陽キャ」に変化した、という説もある。


2010年代にはネットスラングや若者言葉として「陰キャ・陽キャ」という言葉が使用されている。これについて陰キャは「ネクラ」、陽キャは「ネアカ」が転じたものともいう見方もあれば、用法的には似ているが「性格の明暗」を表すというよりも、「コミュニケーション能力の有無」を表すものといった見方もある。(Wikipedia「ネクラ」)


でも、たぶん「陰キャ」「陽キャ」は、「ネクラ」「ネアカ」と関係なく生まれた。

「ネクラ」「ネアカ」は1970年代後半から流行した言葉。

「陰キャ」「陽キャ」は2010年代から流行した言葉。

約30年、ひと世代の時間の経過がある。

(「ネクラ」「ネアカ」のような概念が、それ以前にあったとすれば、「内向性」「外向性」というユングに由来する心理学用語がそれに当たるだろう。)

70年代後半に「ネクラ」「ネアカ」を生んだ世代と、2010年代に「陰キャ」「陽キャ」を生んだ世代とのあいだには、断層がある。

そして、「ネクラ」「ネアカ」と、「陰キャ」「陽キャ」は、意味が重なるようで、実は違う、ということを言いたいのが本記事である。


同時代に聞いた「ネクラ」攻撃


私自身はズバリ「ネクラ」「ネアカ」世代である。

1970年代後半、タモリが「ネクラ」「ネアカ」という言葉を流行らせていくのを、受験勉強なんぞをしながら、深夜ラジオで同時代に聞いていた。

タモリが言う「ネクラ」とは、「フォーク(ニューミュージック)」や「卓球」などをやっている連中であった。

タモリの言葉に共感しつつ、「ネクラ」と呼ばれないように生きて行こう、と思ったものだ。


タモリ主義と「ネクラ」


タモリの世界観、タモリ主義の核心は、「反ニューファミリー」であったことが、今では伝わりにくいと思う。

タモリの主たる攻撃目標は「ニューファミリー」であり、「ネクラ」攻撃はその一環だった。

「ニューファミリー」とは何か。

それは、タモリ(1945年生まれ)の世代、つまり団塊世代が結婚してできる家庭のことだった。

どこが「ニュー」かと言えば、彼らは旧世代のようなイエ意識や、男尊女卑や儒教秩序ではなく、「友達感覚」で夫婦になり、子供が生まれても「友達感覚」で親子になる、と言われたからだ。


1970年代の「ニューファミリー」観を示す「ケンとメリーのスカイライン」CM

(余談だが、ケンとメリーって、いま考えると「メリケン」で、星条旗柄の帽子をかぶっている。当時は気づかなかった)


「ニューファミリー」は、タモリ主義で見るならば、四畳半フォーク的世界で同棲していた「ネクラ」なカップルの、ずるずるべったりのなれの果て、なのであった。

彼らは、子供ができると「マイホーム」を持ち、「マイカー」を持ち、自足的な消費生活に内向し、自閉していくだろう。

全共闘運動を闘った、過激なベビーブーマーたちの人生の結末として、それは退屈すぎるだろう。そういう生き方は目指すに値しない、というのがタモリの価値観なのであった。

そういうタモリのラディカリズムーー自閉的なものに解放的なものを、退屈なものにハプニング的なものを、家庭的なものにキャバレー的なものを対置して、その方向に人々を誘おうとする彼の芸風は、その後も一貫しているはずである。

その根っこにあるのが「反ネクラ」「反ニューファミリー」なのだ。


「陽キャ」と「ニューファミリー」の近さ


1970年代は、価値の転換の時期であり、人々が「ものの豊かさ」から「心の豊かさ」を志向し始めた時代と言われる。

「ニューファミリー」という言葉も、当時のマーケティング用語であり、彼らが何を買い、何を消費するか、という「もの」で測られた概念だった。

今は、コミュニケーション能力やメンタリティで測られる。その今の言葉に翻訳するなら、「ニューファミリー」は「陽キャ」のイメージに近い。

1970年代当時、「リア充」や「パリピー」に当たる言葉はなかったと思う。近い言葉があったとすれば、この「ニューファミリー」だろう。

若いころから将来の結婚相手と友達のようにつきあい、結婚すれば「マイホーム」に友達をよんでバーベキューパーティーをしそうなのが「ニューファミリー」である。

それに対して、タモリがどのような共同体を志向していたか。その実践例として、「ソバヤ」を挙げることができるだろう。

ソバヤ(タモリ)


「陰キャ」と「ネアカ」の近さ


現在であれば「陽キャ」に分類される「ニューファミリー」が、タモリ主義では「ネクラ」の方だった、というのが、わかりにくいと思う。


天上 ネアカ     (アナーキーな友達関係)

地上 ネクラ=陽キャ (堅実な友達関係)

地下 陰キャ     (友達なし)


ーーみたいな序列になるのだが、実は「ネアカ」と「陰キャ」の距離はそれほど離れていない。


ネクラ=陽キャ(世間、社会内、常識的世界、カースト、堅実だが退屈)

ネアカ=陰キャ(異界、社会外、非常識世界、アナーキー、刺激的)


と考えるなら、陰キャはネアカに転生できる。

実際、陰キャが、異界に(地下から天上に)転生し、冒険的生を生きる、というのは、ありそうなライトノベルの筋立てではなかろうか。


「陰キャ」の二面性


「ネアカ」「ネクラ」の政治的な含意は、今から振り返れば明らかだと思うし、当時も薄々感づかれていた。

それは、全共闘世代であるタモリからの「仕切り直し」のメッセージであり、10年後の浅田彰の「ルサンチマンよ、さようなら」に通じるものがある。

「ネクラ」という言葉はイジメにつながる、という批判は当時からあったし、実際、トゲのある概念だった。

しかし、同時に、「ネアカ」を励ましのメッセージとして我々は受け取っていたと思う。

1970年代、オイルショックで高度成長が終わったと言われ、「不確実性」なんて言葉が流行っていた中で、「ここから、歴史を、新しく仕切り直して、明るく生きて行こう」みたいな。


今の「陰キャ」という言葉にも、同じような二重性があるのではないか。

イジメにつながるような、悪意のある、否定的な面と。

暗さを相対化して、明るい方向に向かわせるような面と。


否定的な面で言うなら、ニューファミリー的な凡庸さへの反発は、スピリチュアル、オカルトにも向かった。

1970年代は、ちょうど「ものの豊かさ」から「心の豊かさ」へ、人々の価値観が変化した時代だったと言ったが、「心の豊かさ」の具体例は乏しかった。

だから、「心の豊かさ」を求めて、1980年代にかけて、「ムー」とかオウム真理教とかにも向かっちゃう時代だった。

今だったら、すすきののラブホテルでクビチョンパしちゃったりするかも。

それに比べると、「ニューファミリー」、「パリピー」や「リア充」の方が、よほど健全だと思う。


だが、いつの時代でも、そういう「世間一般」に入り込めない人、それに飽き足らない人がいる。

それもたくさんいる。

そうした「陰キャ」たちを、社会の中に包含していくのは、社会の務めである。

私も「陰キャ」だし、なんとか「ネアカ」に転生したいとあがいてきた人生を振り返って、そう思う。


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