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近代日本「左翼」史 1

<ある考え>

1)この世は少数の強者と多数の弱者に分かれている。

2)強者の利益のために、多数の弱者が虐げられている。

3)弱者(少なくともその一部)は団結して強者を倒し、より幸福な世界を実現しなければならない。

こうした考え方は、現代では一般に左翼のものだと思われるかもしれない。

しかし、右翼の考え方でもありうる。日本では大正から昭和の初めにかけて、右翼も左翼もこうした同じ考え方をしていた。よく言われるように、右翼は陸軍士官学校、左翼は帝国大学に依拠し、それぞれが日本の「革命」を狙っていた。

そして、こうした考え方は、フランス革命期由来の右翼・左翼という概念以前からあった。「革命」という概念が古代中国からあったように、である。

1)のような考えは、1つの認識であり、おそらく人類文明の誕生と同時にあっただろう。その場合には、少数の強者は、多民族の攻撃や自然の脅威から多数の弱者を守ってくれる、ありがたい存在だったかもしれない。

2)のような考え方が生まれるには、「人生の選択(自由)」や「社会正義」といった価値観がなければならないだろう。自分たちの幸不幸を、社会全体との関連で考えることができて、初めて芽生える。

しかし、それが直ちに 3)につながるとは限らない。

たとえばキリスト教は、「貧しきものは幸いなるかな」「カエサルのものはカエサルへ」というわけで、天国で神の正義が果たされることを信じ、現世での「革命」を志向しなかった。中国の道教も、不幸は「文明」という人為から発するので、社会を離れて自然の中に独居する生き方を勧めた。

そして、1)2)3)がそろったとしても、それが必ずしも左翼とも、近代的革命思想とも限らないことは、上に述べたとおりだ。

それでは、左翼とは何だろう?

20世紀の現実では、「左翼」とは「マルクス主義的な社会主義」であることが多かった。それは実際上は、マルクス主義が理想とした「共産主義」と言っても、ほぼ同じ意味を持った。

それは、上の1)2)3)をそろえた考えを、人類史上おそらく最も洗練された形で提示していた(と少なくとも思われた)。

それは、1917年にロシア革命を実現し、人類史に画期をもたらした(と考えられた)思想だった。

「社会主義」もまたやっかいな言葉であり、それが「左翼」のすべてではなく(無政府主義のような有力な対抗思想があった)、「右翼」でもありえた(国家社会主義など)。

しかし、定義の問題にこれ以上拘泥しないとすれば、20世紀の左翼とは「マルクス主義的な社会主義」を指したと言って、大まかな理解としては正しいはずだ。

そして、20世紀とは、一言で言えば、そのような意味での「左翼」の世紀だった。

それは、左翼が勝利したという意味ではない。大きくは、むしろ左翼が敗北した。

しかし、20世紀の間中、この意味での左翼をめぐって、世界が動いた。それをめぐって革命が起き、戦争が起き、冷戦が続いた。

この世紀の知識人たちは、ほとんど例外なく、左翼の提起する問題と対決させられ、その始末に多くの時間を費やすことを強いられた。

それは大多数の庶民、大衆も巻き込んで、ほとんど全ての人の人生に影響を与えた。

20世紀の文化・芸術・風俗にその影響が残っている。

日本でも例外ではなかった。

しかし、21世紀に入って20年たち、そうしたことは急速に忘れ去られている。

私自身の中でも、半生を生きた20世紀の記憶は、日々遠くなっていることを感じる。

「左翼」「社会主義」は、いまも存在する。ソ連崩壊後のいまも、数は減ったが「社会主義国」はある。

しかし、それは20世紀の多くの時期に持ったのと同じ意味の「左翼」「社会主義」ではない。そうしたこともわからなくなりつつあるーーいまはたまたま国政選挙の時期なので、このことを強く実感せざるをえない。

たとえば「渋沢栄一」が大河ドラマの主役になり、お札の顔になることが、20世紀の日本でありえたか。同じことだが、そんな偉人なら、なぜ20世紀にそれができなかったのか。

そういう微妙なところが、わからなくなりつつある。

少し前から、明治維新以来、日本での「左翼」の歴史を、老後の自由時間の一部を使って調べている。

今さらマルクス主義思想を復活させようといった意図はない。

むしろ、左翼が20世紀の世界に及ぼした災禍については、もっと広く認識されるべきだと思っている。

しかし一方では、左翼思想が多くの人の希望となり、その良心と正義感の拠り所となったのは事実だ。多くの人が、その思想に人生時間を捧げ、その犠牲になった人も多い。それがすべて誤りだった、無駄だった、とはどうしても思えない、ということはある。

それを思う時、左翼思想にかかわった多くの友人・知人の顔が思い浮かぶ(その一部はすでにこの世にない)。

何より、自分の人生を振り返る時、前半生に強い「重力」のように作用した、あの思想はなんだったのか、それをつきとめたい、という思いが強い。

マルクス主義なり左翼思想なりを全体的に理解する仕事は、当然ながら私の脳みそでは不可能なことである。アカデミックな方法論には最初から無縁だ。

私が意図しているのは、「あれは何だったのか」という問いに、私なりの納得を見つける作業にすぎない。

その個人的な研究ノートの一端をここに記していく。




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