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「反政府新聞」は正しいか

以下のようなネット記事が目に止まった。

「日比谷焼き打ち事件」は従来、民衆世論の力、つまり民主主義の高まりと捉えられてきたが、実は商業主義に走ったマスコミに煽られた結果だったのでは、という主旨だ。

<ダイヤモンドjp>河合敦 大正デモクラシーは「日比谷焼き討ち事件から」は誤り

日比谷焼き打ち事件は、民衆によって新聞社社屋が焼き払われた事件だ。折しも、65歳以上ワクチン接種予約システム報道をめぐり、朝日・毎日といった新聞のモラルが問われている。

産経新聞はこの件で朝日・毎日を批判している。一方、朝日・毎日という「反政府」系こそジャーナリズムの王道と考える人たち(立憲民主党含めた野党など)にとっては、逆に、産経、そして読売のような「政府寄り」新聞こそ邪道ということになる。

私は戦前の「御用新聞」(東京日日新聞、国民新聞、毎日新聞など)の研究を老後の手遊びにしている。

日比谷焼き打ち事件では、「政府系」とされた新聞が攻撃された。ワクチンシステム報道で問題になっているのは「反政府系」だ。その違いはあれ、新聞とは何かを改めて考えさせられる。

例えば、反政府系新聞は常に正しいのか。「御用新聞」は常に正しくないのか。「日比谷焼き打ち事件」再考は、それらを考えるいい材料になるのではないか。

ここでは、その予備作業として、このダイヤモンド記事の「新聞」をめぐる部分を数字(新聞部数)で検証したい。

焼き打ち事件の意味

まず「日比谷焼き打ち事件」の基礎知識。

多大の犠牲を払って日露戦争(1904ー05)で勝ったのに、ポーツマス講和会議の結果、日本は賠償を得られなかった。

これに怒った民衆が日比谷公園に集まり、講和を支持した「政府寄り」の國民新聞社屋などを焼き払った。これが1905年(明治38)9月5日に起こった日比谷焼き討ち事件である。

この事件の意味について、河合敦氏は別のネット記事で次のように答えている。https://honsuki.jp/pickup/11109.html

<引用>

Q1)なぜ日露戦争の講和条約に反対する集会が、日比谷焼打ち事件という大暴動に発展したのか?
→それは、国民が全面的に協力した日露戦争なのに、1円も賠償金を獲得できなかったからです。なおこの日比谷焼打ち事件によって民衆は自分たちの政治力に目覚めることになり、研究者の多くは、この事件を大正デモクラシーの始まりとしています。

<引用終わり>

今回のダイヤモンド記事では、河合氏は、この通説を誤りだとしているわけだ。

「戦争は儲かる」と新聞は学んだ

まず、日露戦争で新聞部数が大幅に伸びた、という部分をダイヤモンド記事から引用する。

<引用>

この時期の新聞は、国民の識字率の上昇にくわえ、戦争のお陰で各紙とも急激に部数を伸ばしており、国民に大きな影響を持つようになった。しかも戦勝の誇大ニュースを載せると部数が増えるものだから、毎回ロシア軍に大勝しているように書きたてたのだ。まだメディアリテラシーが育っていなかったため、庶民は記事を真に受け有頂天になっていた。

<引用終わり>

この日露戦争での部数増加を、資料で確認しておこう。以下は、有山照雄「徳富蘇峰と国民新聞」からの当時の東京発行新聞部数の数字だ。ただし、数字は概数化している。

日露戦争前(1903年)、日露戦争の講和期(1905)、日露戦争後(1907)で比較する。なお、東京日日は毎日新聞の前身。

1903年 報知新聞  8万 國民新聞 2万  東京朝日  7万 東京日日  1万 

1905年 報知新聞 35万 國民新聞 7万  東京朝日  不明 東京日日  6万

1907年 報知新聞 18万 國民新聞 3万  東京朝日  8万 東京日日  3万

このように、各紙、日露戦争で大幅に部数を伸ばし、戦争が終わると、焼き払われた国民新聞だけでなく、各紙部数は半減してしまったことがわかる。

この経験は、新聞社に「戦争は儲かる」という教訓を植え付けた。

売れれば何でもいい

さて、新聞各紙は、この日露戦後の部数減を何でカバーしたか、というと「オカルト」である。

小説・映画「リング」でネタにもなった「御船千鶴子」の千里眼ブームは、まさにこのころである。

以下は、関根進「大正霊戦記」からの引用。

<引用>

日露戦争という一大ニュース事件の収束後は新聞雑誌の売れ行きが著しく落ち、勢いマスメディアは部数拡大のために心霊現象とメスメリズム催眠術が交錯する「千里眼オカルト事件」に飛びついた。

とうとう全国各地に「千里眼」を自称する女性が数十人も現れて新聞の一面を連日のように妖しく賑わした。・・・まさに集団メスメリズムの狂気の時代に突入していった

<引用終わり>

「千里眼」御船千鶴子は1911年(明治44)に自殺する。同時期に大逆事件(幸徳事件)が起こり、言論統制が強まっていく。

しかし、マスコミは心配することはなかった。また戦争がーーしかもでっかい世界戦争が続けて起こるからである。

以下は、1914年の第一次世界大戦前後の新聞部数を前述の資料から抜き出したもの。

1912年 報知新聞 24万 国民新聞 20万 東京朝日 17万 東京日日 4万

1914年 報知新聞 24万 國民新聞 19万 東京朝日 12万 東京日日 11万

1920年 報知新聞 28万 国民新聞 22万 東京朝日 19万 東京日日 29万

ここで東京日日(毎日)が部数を飛躍的に伸ばしたのがわかる。

世界大戦となると、取材も大変で、資金力のある新聞社しか特派員などを送れない。その後の日中戦争、第二次世界大戦となれば、なおさらである。

こうした状況下で、明治に生まれた個人経営的で個性的な新聞社は姿を消していき、資金力にものを言わせた朝・毎の時代になっていく。

なお、朝日は明治時代から革新的論調だったが、この時期の毎日は保守的論調だった。ただし、毎日の方が、映画やレジャー施設など娯楽の提供で読者を増やすなど、のちの読売のような積極的営業姿勢をとっていた。だから、「朝日は紙面は革新的だが組織は保守的、毎日は紙面は保守的だが組織は革新的」と言われた。

今でも「反政府」は朝日の方が板につき、堂に入っている。毎日はいつも、かつての朝毎時代を忘れられず、朝日の真似をしている感じだ。

とりあえずの結論

それはともかくーー主題の「反政府新聞」は正しいか、というところまでたどり着けなかったが、新聞については、どのような論調であれ、「それが売れるから」そうしている、と考えるのが基本だ。売れなくなれば、市場に淘汰されるだけだからである。

日比谷焼き打ち事件で焼き払われた「国民新聞」は、確かに当時の桂太郎首相にべったりの「御用新聞」であったが、それは売れるからそうしたのではなく、社主の徳富蘇峰が、それが日本にとって正しいと考えたからだった。損得で言えば損なのは蘇峰もわかっていた。

そういう独立系の新聞は、結局消え去る運命にあった。そして今残っているのは、読者を煽ることで生き残ってきた新聞だけなのである。


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