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「素直」に別れられますか?
人それぞれが、自分なりの「正しさ」を持っている。
もっと簡単にいえば、みんなが思っている「正しい」は、ときとして異なる場合がある。
価値観の違いというやつ。
この価値観の違いがあるということはわかっているはずなのだが、価値観の違いがぶつかったとき、その差異を受け入れられないという人もいる。
つまるところ、人の本当の部分というかみたくない部分というのは、別れ際に見えやすいのだと思う。
***
人それぞれに人生があり、やりたいことがあり、ベクトルがある。
みんな同じ方向を向いているはずはなく、どこを向こうが勝手なのである。もしかしたら途中までは同じ方向を向いているかもしれない。だが、そのベクトルがいつまでもみんな一緒とは限らない。
そのお互いのベクトルが「それ」始めると、別れの足音が聞こえてくる。出会いがあれば別れがあるのは当然で、誰しもが通る道であろう。恋愛に仕事に、友達関係。どの人間関係をとっても、別れは必然だ。いろいろな別れ方があるだろうが、その「ベクトルの違い」というのも大きな要因の一つである。
問題は、お互いがお互いのベクトルの違いを認識したときの態度である。
私はこっちに行きたい。
あなたはあっちに行きたい。
となったとき、あなたであればどのような態度を示すだろうか。
私のこっち側に相手を引き込む?
あなたのあっち側に私がついていく?
もしくは「またどこかで会おう」といって、相手にエールを送るだろうか。
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他人を変えるのは難しい。
すでにある価値観は木材のようで、形が変わるのに時間も熱も必要だったりする。ちょうど、曲げわっぱを作る工程のようなものである。
相手の価値観を変えようとすれば、ぽきっと折れてしまう。人間も木材も、急激なストレスには弱い。だから、相手のベクトルが違ったとして、その別方向を向いているベクトルをこちら側に曲げようとするのは、無理がある。
反対に、自分の価値観は容易に変えられる。
自分の考え方を変えればいいだけの話だ。
だが、自分自身の価値観だって、長い年月を経て形成されたもののはずだ。こちらも、最初のうちは「我慢」というかたちでストレスに耐えられたとしても、どこかで限界が来る。どこまでも我慢ができて相手の価値観に合わせられるのならそれはそれでいいけども、誰もがそうできるとは限らない。とはいえ、自分のベクトルを変えて相手に合わせるのは、一つの方法だろう。
対して、「『またどこかで会おう』と相手にエールを送る」のは、ある意味では自然の対処法だ。無理にストレスをかけあわない。お互いのベクトルの違いを認めて、手をふる。ただそれだけだ。悲しいかもわからないが、現実を受け入れて「別れる」という決断がベストな選択になることも多い。
***
「正しさ」のベクトルが異なるとき、あなたはどんな態度をとるだろうか。
もしくは、相手はどんな態度をとるだろうか。
きっとその態度に、そん人の人間性がみてとれる。いくら素晴らしい経歴の人でも、いくら容姿が素敵な人でも、いくら尊敬してやまない人でも、その別れ方を見れば、本当の意味での「人間性」というのが滲み出る。
いずれにせよ、もし僕の目の前にどうしようもない別れというものが訪れたとしたら、僕は笑顔でエールを贈れるような人間でありたい。
それはいわゆる、「素直さ」というものであろう。
す‐なお〔‐なほ〕【素直】
読み方:すなお
[形動][文][ナリ]
1 ありのままで、飾り気のないさま。素朴。
「—なる山家(やまが)育ちのたのもしき所見えて」〈露伴・風流仏〉
2 性質・態度などが、穏やかでひねくれていないさま。従順。「—な性格」「—に答える」
3 物の形などが、まっすぐで、ねじ曲がっていないさま。「—な髪の毛」
4 技芸などにくせのないさま。「—な字を書く」
5 物事が支障なく、すんなり進行するさま。
つまり、「まっすぐでしなやかな人間」ということである。
2024.01.14
書きかけの手帖
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