【再編|絶望三部作】第2話:Evermore(第1章:猫のいる風景)
第1章:猫のいる風景
◆ 第2話:ミネストローネ
5日間の入院生活と二人の獣医師による献身的な治療の結果、ハルは一命を取りとめ、無事、退院の日を迎えた。
とはいえ、完全に自由の身になった、というわけではない。定期的に皮下点滴を投与する必要があるため、しばらくの間は通院することになった。
まだ大手を振るわけにはいかないけれども、” 最悪の事態 ” を回避できたことは、本当にめでたいことだった。
二人の名医には、心の底から感謝をしている。
「ハル君、とってもいいこにしてましたよ」
凛とした清い微笑を浮かべたケイコさんは、赤ちゃんみたいに抱っこしていたハルを俺に渡した。
彼女の背後で妖怪の「ぬりかべ」のように、ぼうっと立っていた長身の酒井先生は、
「早期発見と早期治療ができて、本当に良かったです。ネコチャンにとって腎障害はやっぱり怖い病気のひとつですから…」
と、相変わらずの渋い声で ” ネコチャン ” と言った。
「ハルがお世話になりました。元気な彼の姿をまた見ることができてほっとしました。本当にありがとうございます」
酒井先生とケイコさんはクリニックの外にまで出て見送ってくれた。
そんな二人に会釈し、俺はハルの右手を横にゆらゆらさせて、バイバイした。
*****
自宅に着くや否や、ハルは早速「にゃーにゃー」と鳴いて、ご飯を催促した。
そうそう君のために、とっときのキャットフードを用意して待っていたんだよ。
けれどもそれは腎臓を患った猫の健康維持を目的としたご飯だからあんまり美味しくないかもしれない。ごめんな。しばらくは食事の管理にも慎重にならないといけないんだ。
でも、少しの辛抱だと思う。だから、ふたりで一緒に乗り越えていこう。
ハルがお気に入りのソファで昼寝をし始めたそのタイミングで、俺は夕飯の支度にとりかかる。
エプロンをつけ、念入りに手を洗い、御影石のワークトップに冷蔵庫から取り出した食材や調理器具たちを並べ、コンロには鍋を置き…。
ほとんど料理をしたことのない俺にとって、こういった行動は、極めて珍しい ” 現象 ” なのだ。
執筆活動で忙しい…。
…、を大義名分として、俺はなかなか料理をつくらない。普段は水で洗ったり、レンジでチンしたり、お湯を注ぐだけの時短な食物ばかりをセレクトして胃袋に押し込んでいる。
つまりは偏食なのだ。栄養価など、一切加味されていない。
ミスター不摂生と言われても、はい、そのとおりです、と開き直れるほど、俺の食生活は酷すぎた。
それはもう、生前、バランスの良い食事、偏りのない料理を心がけて作っていた ” 誰かさん ” に叱咤されてしまいそうなほどに。
だが、そんな俺にも誇れる ” 料理 ” がたったひとつだけあった。
それは「ミネストローネ」だった。
昔、「今日のご飯は俺が作るよ」なんて言って、気まぐれに料理に挑戦したことがあった。レシピ本を適当に開いてそのページに載っていたのが、このイタリアの家庭料理だった。
できた料理をその ” 誰かさん ” に食べてもらうと、思いの外、喜んでもらえた。
「いつも自分でご飯を作っているから誰かに作ってもらえるっていうだけでめちゃくちゃ嬉しい。料理の味も見た目も星3つ!」と、未熟な俺の手料理を猫舌の ” リトル・シェフ ” は絶賛してくれたのだった。
そして「世界が終わる最後の夜に食べたい料理は、有季の作ってくれたミネストローネだ」とも、言ってくれた。
残念ながら、彼のその夢が叶うことはなかったけれども…。
*****
さて、早速、調理にとりかかろう。
まずは水洗いした野菜を切っていくところから始めていこうか。
玉ねぎにじゃがいも、キャベツ、にんじんをそれぞれ1センチ角に切っていく。
定番のセロリは入れない。
その代わり、ウチでは「ズッキーニ」を使うことにしている。それは、あの ” リトル・シェフ ” が大のセロリ嫌いだったことの名残でもある。
トマトと一緒に煮込むとラタトゥイユみたいでおいしい。しかも、全体的にマイルドなテイストに仕上げてくれる。
今や俺のミネストローネに、その野菜の存在は欠かせない。
次に登場するのは、ベーコンだ。
芳醇な燻製肉を使うのがちょっとした俺のこだわりだ。これもまたダイスのように、1センチ角に切っておく。
野菜とベーコンを切り終えたら、薄皮を剥いたガーリックをみじん切りにし、鍋に投入する。
それをオリーブオイルで、軽くさっと炒める。
ふわっと鼻を突き抜けるクリミナルな香りに、腹がぐうと鳴る。何故、ガーリックの匂いと本能は、これほどまでに相性が良すぎるのだろう。
ちなみに今、ガーリックを炒めているホーロー鍋(ル・クルーゼ)は、俺が昔、我が家の ” リトル・シェフ ” のためにプレゼントしたものだった。
この鍋を使って、彼が作ってくれた料理は数知れない。
使用頻度はヘビロテだったはずなのに、10年以上経った今も、汚れはほとんど残っていなかった。
毎回、丁寧に洗って、しっかり乾かして、戸棚に収納していた彼の細い背中が、この鍋のオレンジ色に重なる。
片時も忘れることのなかった彼のその健気な習慣を、俺は尊く思う。
これからも ” この鍋 ” は、大切に使っていきたい。
ガーリックがほんのりキツネの毛色になったら、ばらばらとほぐしながらベーコンを投入し、焼き色がつくまでしっかり炒めていく。
そして、切った玉ねぎも鍋にざらざらと入れる。
玉ねぎが軽く透きとおってきたタイミングで、にんじん、じゃがいも、ズッキーニ、キャベツの順に入れ、中火で手早く炒める。
ここまでの工程を終えたら、カットされたトマトの缶詰を丸ごと鍋に投入するのだ。
缶と同量の水を加え、粉末のコンソメと鶏がらスープの素を小さじ一杯ずつ、煮汁全体にぱらぱらとふりかける。
それから、白ワインを15cc、ローリエを1枚、鍋に入れ、沸騰するまで蓋をとじる。
あ、そうそう、ぐつぐつとしてきたら、火を弱めるんだった。
うっすら朱色に染まった灰汁を丁寧にすくって、野菜や肉がつやつやとしてくるまで、じっくり煮込んでいく。
煮込む時間の目安としては、15〜20分くらいだろうか。
最後に塩やコショウで味を調えて、完成だ。
鍋蓋を開けると、真っ白な湯気の河に乗ってトマトの酸味やローリエの爽やかな香りがやってくる。
あぁ、なんていい匂いなんだ。
「バゲットも焼けたし、さあ、夕食にしよう」
唇が厚い不気味な魚の絵が描かれた大皿に盛られたミネストローネがダイニングテーブルに運ばれると、その艶やかな香りに誘われたハルがむくりと起きた。
「ハル、ご飯だよ」
お気に入りの黄金色のお皿に、規定量のキャットフードを用意すると、彼はぺたぺたと足音を鳴らしながら、こっちの部屋にやってきた。
ハルはしばらくそのお皿を怪訝そうに見つめていたけれども、カリカリカリ…と、木を削ったような長閑な音を奏でながら、ゆっくりと食べ始めた。
早速、俺も " お手製 " の料理を口にした。「そうそう、この味、この味。ご無沙汰していた割には上出来ではないか…」と、自画自賛してみた。
― ミネストローネを作ったのは、実に、3年ぶりのことだった。
食事を終えたハルは、お皿をぺろぺろと舐めまわしていた。
そのままソファへ直行するかと思いきや、唐突に俺の下腹部の上に飛び乗り「お前さんが料理を作るなんて珍しいこともあるもんだ」とでも言いたげな表情を浮かべながら、俺の目をまっすぐ見つめた。
そうだよ。この日はどうしても ” この料理 ” を作って、君の退院を祝いたかったんだ。
*****
調子に乗ってワインも開けた。久しぶりに飲んだせいか、すぐに顔が赤らんだ。身体もぐでっと、火照ってしまった。
ぽっこり膨れた腹をさすりながら、「料理をするのもたまにはいいな」と、優雅に悟った。
できることならば、大好物の ” 茶碗蒸し ” を「食べたい」と思った時に、手際よく作れるような人間になりたいと、俺は秘かに思っている。
秘かに思っているだけで、そう簡単には成就しそうもない " 代物 " だということも、幾ばくのトライアルの結果、理解はしている。
料理はよく「化学」に喩えられることがある。
水や火加減、食材同士の組み合わせや時間の配分など、精緻なプロセスを重ねた結果、生み出されるひと皿というのは、ある種の化学反応である、と言えるのかもしれない。
それ故、俺はかの ” リトル・シェフ ” のことを化学者?ケミスト?いや、「魔法使い」なのではないかと、本気で信じていた。
彼がこのキッチンで起こした数々の ” 奇跡 ” を再現することは、決して容易なことではない…。
地球で暮らす俺にとって、それは月の裏側を見ることに、等しい。
その愛しきレシピたちは、あのリトル・シェフの頭の中にしか存在し得ないミステリアスな ” ポップ・アート ” なのだ。
もう二度と逢えない ” あの味 ” が、今はひたすら、懐かしい。
<第1章:猫のいる風景|第2話:ミネストローネ・了>
もし、万が一、間違って(!?)梶のサポートをしてしまった場合、いただいたサポートは、なにかウチの「ネコチャン」のために使わせていただきたいと思います。 いつもよりも美味しい「おやつ」を買ってあげる、とか…^^にゃおにゃお!