【創作大賞2024|ファンタジー小説部門】『メニー・クラシック・モーメンツ ~ Many Classic Moments ~』
プロローグ
僕は、あっけなく死んでしまった。
まだ20代後半だったし、やりたいことだってそれなりにあった。やらなければいけないことだって残されていたはずだ。
グラフィックデザイナーとしての仕事も、少しずつ、ひとりで任せてもらえるようになっていたし、いつか有季とパリにも行ってみたかった。
もっと料理の腕を磨いてレパートリーを100にするのが当面の目標だったし、彼の好きな茶わん蒸しも、これからだって作り続けるつもりでいた。
有季ともっとたくさんキスをしたかったし、その先のことだってもちろんしたかった。
他愛ない話をして、些細なことで笑ったり、怒ったり。冗談を言ってみたり。ケンカして、喧嘩して、大ゲンカして。
そして、最後にはきちんと仲直りをして…。
そんなふたりの人生を、ごく普通に送りたかった ―。
有季というのは、僕の同性のパートナーのことだ。彼はフリーランスのライターを生業としている。
以前は、新聞、商業誌、ウェブ・ライティングなど、誰彼構わず寄稿して食いつないでいたようだが、僕と知り合う数年前、日本を代表する劇団「劇団鐘楼」の会報誌『エスメラルダ』のコラムを担当するようになってからは、自らの肩書きを「コラムニスト」とすることに、ようやく落ち着いたようだ。
彼の年齢は42歳。僕は再来月、28歳になる。そう、彼とは ” 年の差カップル ” なのだ。
有季とはオンラインで知り合った。平凡だけど、マッチングサイトに頼って出会うのが関の山だ。ドラマティックな展開なんてどこにもない。ゲイの世界なんてそんなものだ。
でも、” ストレート ” の世界だって、もしかしたら僕らとそんなに変わらないはず…、なんじゃないかな。
マッチングサイトに登録した翌日には、いくつかのメッセージが僕のメールボックスに届いた。カッチカチに凍った氷山のような文章もあれば、焼きたてのパンみたいにふんわり柔らかなレスポンスもあった。
尖がったもの。こんがらがったもの。空っぽのものもあった。
文章には個性がある。その人の人生がそこにある。
いくらでも加工し放題のプロフィール写真なんかよりも、丁寧に綴った文字の方が、余程、真実だ。
そして、長い歳月をかけて形成された地層の中から、ひょっこり顔を出した石炭紀の琥珀のように、ひと際、輝いて見えたのが、有季から届いたメッセージだったのだ。
僕と有季は文字の塊の往来を、毎日せっせと行った。
そんな作業を数ヶ月続けた結果、ふたりが健やかに撒いたその小さな種は、ついに「一度、会ってみようか?」という芽が生える段階にまで成長していた。
*****
初めて有季と出会った日のことは、今でも忘れない。
あれは晩秋の土曜日の昼下がり。ふたりはJR恵比寿駅の東口で待ち合わせをすることになった。
こういったカタチで人と会うのは、一体、いつぶりのことだろう。
約束の時間より、だいぶ早めに待ち合わせ場所に着いてしまった僕の心臓は、トクトクトク…と、小刻みにビートを打っている。
目の前をたくさんの人が通り過ぎていく。それにもかかわらず、僕の存在に気付く人間なんて、誰一人としていない。
都会は、荒野なのだ。
乾いた風に吹かれて転がるタンブルウィードのような喧騒をBGMに、僕は「彼」の到着を待った。
「あっ、もしかしてシュンくん?」
ダークブラウンの細身のジャケットにコットンのスラックスを着こなした、黒縁メガネの男性に声を掛けられた。
それが「有季」であることは、揺るぎない確信で以って、判断することができた。
「そうです。有季さんですよね。こんにちは」
「こんにちは。今日はよろしくね」
彼は僕より10センチほど背が高く、30代後半の割には、均整の取れた体型の持ち主だった。
そして、熟成された果実酒のような、穏やかで品のある話し方。ひとめで僕のタイプの男性であることが分かった。
とりあえず「どこかでお茶でもする?」ということになり、待ち合わせの場所からほんの少し歩いた閑静な住宅街でひっそりと営業している ” 喫茶店 ” へ連れて行ってくれた。
そこはかとなく懐古を漂わせた趣深いその喫茶店の扉を開けると、ドアベルが「カランコロン」と切なく、淋しげに鳴った。
店の中へ入ると、見目好いサイフォンをセットしていたちょびヒゲのマスターが柔和な表情を浮かべて「いらっしゃい」と迎えてくれた。
挽きたてコーヒーの艶やかな香りが、ふわっと鼻をかすめる。
有季が「あ、どうも」と言うと、「あの席、空いてるよ」と、マスターは言った。
二人の会話のやり取りから、ここは彼の行きつけのお店なのだということを、即座に理解した。
軽く会釈をしながら、僕は有季の背中についていった。彼が猫背であることを、この日初めて知った。その背中を眺めながら「きっとこの喫茶店にはこれから何度も訪れることになるのだろう…」という甘い未来を、なんとなく悟った。
有季はこのお店の一番奥にあるテーブルを案内してくれた。窓辺には小さなサボテンがひとつ、透きとおった高い秋の空を見つめていた。
彼は「こちらへどうぞ」と紳士的に着席を促した。軽く毛羽立ったワインレッドの重厚感のある椅子へ、僕は優雅に腰を掛けた。
雨音のようなオールディーズがしっとりと流れる店内。淡いオレンジをそっと灯す、アール・ヌーヴォーの照明。壁には『糸杉』と『薔薇』の絵画がふたつ、孤独に飾られていた。
有季は「ここが俺のお気に入りの場所なんだ」と、照れくさそうに言った。
この喫茶店の名は「クロノス(Chronos)」という。なんでも ” 時間 ” の概念を擬人化したものが、その由来になっているのだそうだ。
確かにこの喫茶店は、外の世界とまったく異なる時間が流れているような気がしないでもない。
趣も ” 昭和レトロな雰囲気 ”、とかそんな生易しいものではなく、大正や明治時代をゆうに越え、18世紀のヴェネツィアに誕生したイタリア最古のカフェ「フローリアン」を彷彿させた。
「ところで、飲み物は何にする?俺はラプサン・スーチョンにするけど…」
初めて耳にする単語に、軽く、パニックに陥った。ラプさん?スーちゃん?なんだよ、それ?
有季が説明するところによると、それは中国原産の「紅茶」の一種らしく、ロンドンの老舗百貨店「フォートナム&メイソン」で、その味と出会って以来、彼のお気に入りの一杯となっているのだそうだ。
小豆色の表紙のメニューを手渡され、ゆっくり開いてみると、そこには凄まじい数のコーヒーや紅茶の銘柄が手書きの英字で隙間なく並んでいた。
うんうん唸りながら、散々迷った挙句、「じゃあ、有季さんと同じもので…」と伝えた。
すると、有季は何かを企んでいるかのような不敵な笑みを浮かべ、胸のポケットから取り出したチェック柄のクロスで眼鏡のレンズを拭き始めた。
紅茶を待っている間、まるで「言葉遊び」を嗜む平安貴族の如く、互いに素性のすべてを明かすことのない、暗号めいた会話のやりとりを楽しんだ。
長らく ” 文通 ” していたこともあり、昔からの友人であるかのような親しみを感じてはいたが、実際、彼に会うのはこの日が初めてということもあって、慎重になるのはきわめて当然のことだった。
相手の「出方」や「思惑」を注意深く観察し、検証し合うプロセス。
その作業は実にまどろっこしく、はがゆさの感じられる工程だったけれども、数年ぶりに訪れた本気の「恋」の予感に、ふたりともそんな駆け引きですら、純粋に楽しんでいた(のだと思う)。
「お待たせしました。ラプサン・スーチョン、ふたつね」
軽くしゃがれたマスターの声と共に、華奢な取っ手のティーカップと桔梗の模様が描かれたソーサーがテーブルに運ばれた。
カップをのぞくと、それはもう見事なマルーンだった。
その美しい紅色に見惚れていると、苦みを感じる奇妙な香りが僕の鼻腔を野蛮に貫いた。
「茶葉を松の葉の煙で燻すと、こんな濃厚で深い香りが生まれるんだよ。癒されるし、なんだか頭も冴えてくる。そんな魔法の飲み物」
と、彼は説明していたけれども、僕はとっさに自分の身を案じた。この魔性な紅茶は、本当に…、本当に飲んでも大丈夫なやつなのだろうか、と。
だが、恐る恐る、この ” ラプサン・スーチョン ” とやらを味わってみることにした。
口にした瞬間、つい「あちっ」という声が漏れてしまった。有季はそんな僕を見て、フフッと笑いながら、
「シュンくんは猫舌なの?」
と、たずねた。
「はい。ちょっと猫舌気味です…」
と、ぎこちなく答えた。すると「さては、シュン、君はまだ猫を被っているな」とからかうように聞いてきたので「はい、被っています」と言った。
そんな僕を見て、有季はクロノスじゅうに響き渡るような豪快な声でアハハと笑った。
周囲の目が僕らのテーブルに集まった。
その瞬間、今すぐこの場から逃げ出したくなってしまった。だが、こらえきれずに、ついに僕も彼と一緒にアハハと笑ってしまった。
彼と付き合うようになってからもその紅茶の香りはずっと好きにはなれなかったけれども、彼と初めて会ったあの日、一生忘れられない思い出を残す立役者になってくれたという意味において、今ではあの ” ミステリアスなフレーバーティー ” には、とても感謝をしている。
*****
その日は、早朝から雨が降っていた。有季と大喧嘩をした数時間後のことだった。
異常なレベルで感情の立ち直りが遅い僕は、不機嫌な顔を浮かべながら、顔を洗い、歯を磨いて、髪を整えていた。
「シュン、おはよう…」
背中に有季の声が染み込んだ。
多少、笑顔を装っている気配はしたけれども、声に力がない。
今にもふっと消えそうな、儚げな彼の尊厳が、亡霊のように立ち尽くしていた。
僕は、そんな有季との最後の言葉ですら、まともに交わすことができなかった。
玄関まで見送ってくれたようだったが、僕は後ろを振り向くこともなく、彼と同棲中の品川のマンションの部屋を出て、勤務先へと急いだ。
彼と付き合って、すでに4年の歳月が流れていた。
うまくやっていたと思うが、もちろん、そのすべてが「いいこと」ばかりだったわけじゃない。今回のように大地を揺るがすようなケンカだっていっぱいしたし、心無いひと言の応酬で、別れの足音が聞こえたこともあった。
世代間のギャップを感じる局面は多々あったし、育った環境の違いで、双方の解釈の差に悩まされたこともあった。
けれども、僕たちはどんなことがあっても、別れなかった。
彼との生活は純粋に楽しかったし、居心地も良かった。幾多のトラブルは織り込み済みの覚悟で、この平凡で何の変哲もないかけがえのない毎日が「永遠に続けばいい」なんて、そんな馬鹿なことを本気で考えたりもしていた。
けれども、あっけなく僕の人生は終わりを迎えた。
すれ違いとは、どうしてこうも不意に訪れるのだろう。
誰よりも大切にしたい相手を、世界で一番愛しいものを、氷柱のような尖った凶器で一撃する術を一体、いつ、どこで身につけてしまったのだというのだろう。
どうしてあんな些細なことで喧嘩をしてしまったのだろうか。今なら、素直に、正しく後悔することができる。
メールを受信したスマートフォンが左の胸ポケットでぶるぶると震えている。画面を覗くと送信相手は「皆藤有季」と表示されていた。
僕は内容を確かめることもせず、無言のまま、ポケットに戻した。
すると突然、僕の行く手に、一匹の「猫」が ―。
<プロローグ・了>
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第1話:忌まわしきもの
第2話:吊り橋
第3話:真っ暗
第4話:電話
第5話:もぬけの殻
第6話:若い頃のはなし
第7話:スターリーナイト
第8話:霊園にて
第9話:夏の雨
第10話:いのち
第11話:邂逅
第12話:ラ・エスメラルダ
最終話:エピローグ
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