【創作大賞2024】第12話:メニー・クラシック・モーメンツ ~ Many Classic Moments ~(#ファンタジー小説部門)
第12話:邂逅
「…、ここは、いったい…?」
茫然たる空間にたったひとり、仰向けになって俺は寝ていた。
真っ白な霧のような膜に包まれ、暑くも寒くもなく、マリアナ海溝の底で揺蕩うプランクトンみたいに、心許なく、孤独に存在していた。
手を伸ばせば、何もかも、つかめる。まぶたを閉じれば、光が射し込む。耳を塞げば、すべての声が聴こえる。
そんな宇宙の果てのようでもあった。
「結局、俺は死んでしまったんだろうな…」
ぼんやりとした意識の中で、ふと、そんなことを考えた。実感こそなかったけれども、きっとそうなのだと、びっくりするほどすとんと自分の死を受け入れることができた。
あの強烈な胸の痛みも、いつの間にかすっかり消えていた。ずっとそばにいてくれていたはずのハルは、もうどこにもいない。
死ぬこと自体は怖くなかった。むしろ、俺はいつからかずっと死にたいと思いながら、これまで生きていたんじゃないか…、とさえ思っている。
怖くはなかったけれども、遺してきた「ハル」のことだけは気がかりだった。俺亡き後の、彼の悲劇的な結末は容易に想像できたからだ。
そんな未来を不憫に思い、寒気がするほど、胸が締めつけられた。
いや、待てよ?
俺は昔、こんな話を聞いたことがある。猫を飼っている独り身が孤独死すると、その猫が飼い主の肉を喰ってしまう、という都市伝説だ。
もし、その話が真実であるならば、空腹に耐えきれなくなったハルは目の前の男の亡骸を自らの養分とするだろう。そうすれば、その遺体が誰かに発見されるまで、彼はなんとか生きながらえることができるかもしれない。
天寿を全うできるかもしれない。
ハルには是が非でも「生」に執着してもらいたいのだ。与えられたいのちを最後の最後までアグレッシブに使い切って欲しい。
…、でも、第一発見者は、死ぬほどびっくりするだろうな。
食肉目の小型哺乳類に客体をめちゃくちゃに破壊させされ、骨や内臓はむき出しに、部屋中、鼻をつんざく腐敗臭が立ち込め、肉塊のあらゆるでこぼこから、何だかわけの分からないどろどろとした体液が滴る、無残でグロテスクな屍体と対面するわけだから…。
そんなことを考えていると、何とも言えないおかしさがこみ上げてきて、つい「ふふふ」と、笑ってしまった。
唐突な死とは、やはり、喜劇なのだ。
ひとしきり笑ったあと、再び、真っ白で生命力の感じられない、乾燥した空を見上げた。
秋のように崇高で、美しい空だった。春の甘い風の香りが鼻をかすめた。夏の雨のようにつやつやとやさしくて、冬の星空とよく似た、厳かな灯火に包まれていた。
もはや俺の脳味噌は、完全に機能を失っている。
断片的な記憶ですら、この得体の知れない静寂なキャンバスの中へ、すっかり溶け込んでしまっている。
境界線がひかれていた頃は、幸せだった。
いつまでも色褪せない寂しさや悲しみが、常に付きまとっていたとしても、きっとその感覚自体は、幸せなことだったのだと思う。
尊さも、過ちも、愁いも、敬いも、煩いも…、すべてがきれいさっぱり、なくなってしまうことのほうが、結局、虚しい。
…、俺もこのまま、何もなかったことになってしまうのだろう。
そんな抽象性について茫漠と考えていると、どこからともなく聞き覚えのある声が耳に届いた。
「おはよう、有季」
むくりと体を直角に起こし、その声のする方角に顔を向けた。だが、そこには誰もいなかった。
あたりを何度も何度も見回してみたけれども、結局のところ、誰もいない。
「こっちだよ、有季」
もう一度、後ろを振り向いてみる。すると、その声の持ち主が鮮やかに目の中に飛び込んできた。
そう、あの頃と何も変わらない、27歳の ” あの青年 ” が、俺の目の前に現れたのだ。
「もしかして、シュン…、なのか?」
「うん」
「本当に、シュン、なのか?」
「そうだよ。久しぶりだね、有季」
底抜けに懐かしい声で「有季」と呼ばれた。
ひび割れたアフリカの大地のような俺の乾いたこころに、恵みの雨がざあざあと降り注いだ。
少し幼さの残るそのいとしい旋律は、記憶の底から引っ張り出してきた、手つかずの何かだった。
ふたりを包み込んだ世界に、ぽつぽつと色がつき始める。
それはまるで朝焼けに刻々と霧が晴れてゆく、ミケランジェロ広場から眺めたフィレンツェの街並みのようだった。
俺とシュンのあいだに、あたたかな血液が流れ出した。ゆっくりと体内をめぐり、心臓がとくとくと動き始める。
バラフォンみたいに鼓動が野生に鳴り響く。頬の色はふたりとも撫子だったし、瞳には黄玉の輝きが宿っていた。
掌は焼きたてのクロワッサンみたいに柔らかく、唇もいい色をしていた。
そして、永らく、氷の箱の中にしまい込んでいた宝石が、俺の口から自然に零れた。
「…、俺はずっと、シュンに会いたかった ―」、と。
その言葉を聞いたシュンは照れくさそうにしていたけれども「僕も、有季にずっとずっと…、会いたかったよ」と言って、俺の胸に顔を埋めた。
そうそう、この飛び込んでくる感じ。悪くない。
髪の匂いもあの頃のままだ。スリムなのに、案外、筋肉質なところや骨太でゴツゴツした感触なんかも覚えている。
「シュンは、あの頃のまんまだな」
と、感慨深げに言うと「有季はずいぶんと老けたね」と、可愛くないことを言う。だから、彼の頭を軽くコツンとしてやろうかと思った。
それは、冗談だけれども。
でも、そんなユーモアにあふれた正直なところが、本当に「シュン」だと思った。
「あの夜、食べてないって言ったけど、本当は ” 背脂たっぷり!バリカタ豚骨ラーメン ” を食べてしまったんだ。シュンとの約束を破ってしまって、本当にごめん…」
と、しおらしく俺は懺悔した。それにもかかわらず、
「そんなのもうバレバレだったよ。あの部屋、ニンニク臭かったし…。健康診断の結果があんなに悪かったのに、僕に隠れて脂っこいものなんか食べているから、こんなに早く死んでしまったんじゃん」
と、彼はしっかり怒った。
いつだってシュンは本気で怒る。それも愛情の一形態なのだ。
彼は俺の「健康」もとい「寿命」を、いつも気にかけてくれていたということなのだろう。なんとも殊勝な心がけではないか。
そんな彼に「でも、俺が不摂生だったおかげで、予定よりも早くシュンと出会えた」と、言ってみた。
するとシュンは、透明なエメラルドを瞳の中にきらっと滲ませながら「有季のお馬鹿さん」と、言った。
素直になれないシュンも、やっぱり、めんごい。
彼の笑顔は相変わらず、たれ目がちだったし、八重歯もしっかりとのぞかせていた。後頭部のアホ毛はゼンマイみたいにくるんと跳ねていたし、照れるとすぐに鼻の頭を触る癖も直っていなかった。
そうだった、そうだった、と思える、懐かしい匂いがそこらじゅうに転がっていた。セピアになりかけていた想い出たちは、俺のこころの海原へ、明朗に戻ってきた。
この十数年で人生のすべてが変わってしまったような気がしていたけれども、変わっていないモノの方が遥かにたくさん残っていたことを、このいとしく奇妙な世界が、そっと肩を叩いて教えてくれた。
*****
「…、ということは、ここは死後の世界、ってことなんだなぁ…」
そう呟くと、「厳密に言うと、どうもそうじゃないらしい」と、シュンは答えた。それはどういうことなのか、とたずねると、
「どうやらここは、” ネコ ” の体の中らしいよ。この世とあの世の狭間のような世界で、天国でも地獄でもないみたいなんだ」
と、彼は言った。
…、ん?猫のカラダの中にいる、だって?この世でもないし、あの世でもない?
それはいわば「煉獄」のようなものなのだろうか…。
シュンは「この状況のすべてを把握しているわけではない」と、前置きした上で、こんなことを言った。
「ネコは、人間の ” 魂 ” を運ぶ生き物なんだって」、と。
「…、猫は人間の死の匂いを嗅ぎ分けることができるらしいよ。彼らは死期が近い人間のもとにやってきて、亡くなると同時にその人の魂を ” 自分の体内 ” に回収するらしい。毎回、そのタイミングでうまく回収できるわけではないようだから、回収しきれなかった魂を求めて、墓地や霊園、火葬場なんかにわざわざ ” ハンティング ” しに行くこともあるんだって」
彼があまりにもちんぷんかんぷんなことばかり言うものだから、俺の理解が追いつかなかった。
「それは、誰かに教えてもらったの?」
と、たずねると、
「天が教えてくれた」
と、シュンは言った。
「天、というのは、神様とか、仏様とか…、そういう存在?」
「わからない。けれども、人智を超えた何か大きな存在なんだとは思う。自然とか万物とか宇宙とか、かもしれないし、この世の秩序やアルゴリズムみたいなものなのかもしれない…」
「これから先、俺たちは一体、どうなるの?」
と、たずねたら、
「まだ、” そのとき ” が来たわけではないから、わからないよ」
と、至極、真っ当な答えが返ってきた。
彼が言う「そのとき」とは、どうやら ” 宿主 ” であるネコの命が尽きた瞬間のことを指すらしい。
宿主が寿命を迎えると「彼」または「彼女」の魂も、このすこし不思議な世界にやってくるのだそうだ。
そして、回収した魂を残らず、天上界へと連れていく…。
これが、シュンが話していたことのすべてだ。
しばらくのあいだ、別々の世界を生きてきたふたりは、その空白を埋めるかのように、呆れるほど永遠に話し続けた。
シュンの話す内容はいちいち奇妙奇天烈摩訶不思議なことばかりだったけれども、その一つ、ひとつには ” ことわり ” があった。
神話のようなロマンも感じたし、聖書の一節、はたまた、舎利礼文に説かれる礼敬のようでもあった。
むずかしいことをたくさん教えてもらったお返しに、俺は「ハル」のことをシュンに話した。
彼はうんうんうん、と頷きながら、あの風変わりなキジトラ猫の物語を真剣な眼差しで熱心に聴いていた。
「(ハルと)一緒に暮らしてみたかったなぁ…」
と、残念そうな顔も浮かべていた。
猫好きであるにもかかわらず、猫アレルギーのために飼うことが叶わなかったシュンらしい素直で素朴な感想だと、俺は思った。
*****
この ” 世界 ” にやってきて、一体、どれほどの時間が経過しただろうか…。
無論、” ネコ ” の体内に回収されてしまった「魂」には、時の流れという概念は存在しない。
けれども、きりがなく、ケリもつけずに話し続けたせいで、さすがにふたりとも疲れ果ててしまった。
シュンは目をこすりながら「なんだか、眠くなってきちゃった…」と、言った。
俺もどういうわけか強烈な睡魔に襲われた。
「そろそろ、寝よっか?」
と言うと、
「うん…」
と言いながら、半分眠りかけている赤ちゃんみたいなシュンが目の前にいた。
「シュン、おやすみ」
「おやすみ、有季。また、あした」
それからふたりは、同じ夢を見た。
あのソファに座りながら、上映から半世紀以上も経つ ” 不朽の名作 ” を一緒に観ているという夢だった。
「こんな古い映画も、たまにはいいだろう?」
「うん。モノクローム・フィルムって何とも言えない情緒があるよね。主演のオードリー・ヘップバーンも、最高に可愛かった。なんだか、ローマに行ってみたくなったよ」
窓の外は長雨が降っていた。肌寒い、6月の夜だった。
けれども、一緒に飲んだラプサン・スーチョンがふたりの身体をほんのりと温めてくれた。
映画を鑑賞し終えると、どこからともなくふたりの目の前に縞々模様の「キジトラ」が、ぺたぺたと足音を鳴らしながらやってきた。
尻尾は長く、毛並みも立派。ぴんと天に向いた耳の片側は、桜の花びらの形をしている。
「ハルだ!」
俺は、興奮してその猫の名前を呼んだ。
「そっか。君が ” ハルくん ” なんだね。はじめまして。僕は ” シュン ” っていいます。よろしくね」
このすこし不思議なネコチャンと初対面を果たしたシュンは嬉しそうだった。とてもいい表情を浮かべていた。
ハルは舌をぺろぺろさせながら、そんな彼の胸に飛び乗った。
なんだ、俺じゃないのかよ…と、目の前のキジトラが、長らく共に暮らした自分ではなく、” シュン ” を選んだことに、軽く嫉妬を覚えてしまった。
けれども「ハル、可愛いなぁ、可愛いなぁ」と、屈託なく笑うシュンの顔を見てしまったら、そんな気持ちはどこか遠くの空の彼方へ、飛んで行ってしまった。
そうだ、俺は、このふたりが並んだ笑顔を、ずっと、ずっと見たかったのだ。
*****
ハルはとても眠そうな目をしていた。大役を無事に果たし、ほっとしているのだろう。
陽だまりのような彼の体温りは、時間が経つにつれ、冷たくなっていった。
そして彼は、大きなエメラルドの瞳をそっと閉じた。
そんな天使のようなハルの身体を包むように抱き抱えたふたりは、手を繋ぎながら、甘く切ない、平和な眠りについた。
<第12話:邂逅・了>
もし、万が一、間違って(!?)梶のサポートをしてしまった場合、いただいたサポートは、なにかウチの「ネコチャン」のために使わせていただきたいと思います。 いつもよりも美味しい「おやつ」を買ってあげる、とか…^^にゃおにゃお!