「役者は一日にしてならず」田村亮編
春日太一さんの著書「役者は一日にしてならず」の読書感想文を書いています。
田村亮について想像していたこと。
父が坂東妻三郎、兄が田村高廣、田村正和という、錚々たる親族のいる芸能界に入り俳優をやってゆくだなんて、鉄の心臓すぎると思っていた。
家が名門とか、環境が整ってるとかに関係なく、御本人が、いかに確固たる自分というものを持ち続けている人物なのか.…そうでなければ続けてこれなかっただろうと思えた。
読み進めて明らかになってきたのは、全く本人にその気はなく、母も四男である彼が俳優になることに賛成してはおらず、映画会社からの強烈な要請に応えて、大学の間だけという話だったこと。演技の勉強は全くしたことがなかったこと。
…ある意味、映画会社の[話題作り]のために引き受けたような状況だったのかもしれない。
父の代表作『無法松の一生』を撮った、稲垣浩監督が1966年に三船敏郎主演で作った作品『暴れ豪右衛門』が田村亮のデビュー作だった。
稲垣先生が何度もテストしてくださって、優しく優しく指導いただけてなんとかなりました。
大学を出たあと一般企業に勤めながら、芸能界に残ったのは、その世界に大きな魅力があるからだろう。
稲垣監督の優しさで、これならやってゆけるという自信が持てたのかもしれない。しかし、彼は
俳優座から分裂した劇団俳小の養成所に入り、ゼロから演技を勉強し直す。
『阪妻の息子』ではなくて、みんなと同じスタートラインに立てた。周りから盛り立てられない環境にいる人たちがどういうことをしてきているのかを知ったことが大きい経験になりました。
実際空想してみると、7歳の時点で阪妻は亡くなられてしまい、演技の指導はしてもらえていないというのに世間からは出来て当然と思われる。兄二人と否応なく比べられてしまう。
父から、もっと教えて欲しいこともあったろうに、悔しい想いもあったのではないだろうか。
しかし、インタビューを読みながら、父から直接習えないからこそ、田村亮は昔の写真や映像からより多くを求め、学んでいたように見受けられた。
それに、こんな風に世紀の大スター、阪妻の話が出来るのも、もう田村亮だけしかいなくなってしまった。
インタビュー記事冒頭、太秦映画村(東映京都撮影所)を作ったのは阪妻だということが書かれている。
なんて素晴らしい功績だろう!
おかげで数々の作品が生まれたわけで、阪妻始め、他の撮影所を作ってくださった方々にも感謝したい気持ちが湧いてくる。俳優や監督は評価しやすいけれど、普段あまり評価されにくい、その作品を撮影できた撮影所などの施設を建てた人、セットを作った方々、照明や衣装やメイクなどのスタッフなどにも感謝を忘れないでいたい気がした。
阪妻の演技、立ち居振る舞いを詳細に観察し、学ぶ田村亮に、少しずつ仕事が入ってきた。
難しい撮影のエピソードを読んで、これもなかなか興味深かった。
ご兄弟と、プライベートで会うときに仕事の話や演劇論を一切しないというのもなるほどと思った。
それはとても大切な事だと思う。
兄達についての話を語ってくれたり、いま時代劇を撮影している監督さんの話なども、実際演劇に携わっている人にはきっと役に立つ言葉が記録されている。
共演させていただいた中で特に見事だと感じたのは、山田五十鈴さんです。
僕は花道の向こうからその姿を見ていましたが、この姿がとても美しい。その時の目線の落とし方、座り方...…おそらく計算だと思います。このほうが絵面もいいだろう、という。
日舞や三味線の技術を習い、身につけ、芝居観を深める手助けにしたり。古い名作を観て学ぶ。
一緒にお芝居をしたかった俳優さんの名前も挙げてくださっており、感慨深かった。
出自の七光が有るのに無いような。むしろそのせいでより多くを求められる環境のなかで、逃げも隠れもせず、そして道を外さない努力でもって、堂々と輝き続けているのは凄いことだ。
今回も、読ませていただけて感謝で心がいっぱいになった。
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