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集団と孤独〜東京という街

東京には色々な人が集う。東京で生まれ育だちずっと都会で暮らして来た人、地方から東京へ古びたスーツケースと数千円片手に夢を求めてやって来た人、海外から出稼ぎや進学のために来た労働者や学生、さらにはただ旅行の為に東京を訪れた観光客。

言語、文化、肌の色、性別、年齢、仕事、思想の何から何まで、違う人たちがこの大きくて小さい街「東京」に暮らす。

東京には色んな仕事がある、色んな文化があり、色んな世界がある。渋谷、新宿、池袋、六本木、新大久保、浅草から秋葉原まで、どれをとっても異なるカルチャーと雰囲気に包まれている。

多様な街における多様な人々。そんな人達がこの大きくて複雑なコミュニティーの一部として全体を回す。コンビニやレストランの店員、大学の教員とその授業を受ける学生、密集する巨大なビル群の中でせかせかと働くサラリーマン、電車を動かす車掌やタクシーの運転手、ウーバーの配達員や夜職につく人達。

この複雑なコミュニティーの隅から隅までが誰かの手によって回されている。それはまた同時に、誰かが何かを止めれば、その社会は回らなくなるということでもある。東京は、まるで拡大コピーした「村」、誰かが何かの役割を演じ、引き受けるからそこに存在として現れる。

しかし、「村」と違い、そこに存在する人の多くは換えが効く。ほとんどの仕事や役割なんて誰がやっても同じだし、その多くはどっかから借りたり、引っ張って来たりしたものばかりだ。地方から来たかもしれないし、海外から来たかもしれない。一人がその大きな「カラクリ」構造から離脱すればその歯車にもう一人を当てはめる。

東京はまるで、モザイクアート。全体としては美しく調和的に見える。でも結局のところは個々の単色ピースがはめられる場所にはめられているだけ。赤の隣には赤かもしれないし、緑かもしれない、その一つ隣には青や紫。

そういう意味では、東京とは作られた集合体と本質的な孤独で満ち溢れる。歯車として繋がるが、本当の意味での人間的つながりなど殆どない。

マルクス的に言えば生産手段が集まる場所が東京。その生産手段に群がり、繋がれる人々の集まりが東京というコミュニティー。新宿駅で歩く人々は同じ街に住むもの同士でありながら、他人である。店員と客のように、多分相手の服装、身分や仕事である程度の関係性は保てるが、それがなくなれその間に存在する繋がりは瞬く間に消える。

いつも行くお店のマスターはマスターという身分で、客としての自分と繋がり、同じゼミの同期は同じ大学生として自分と繋がる。学生という身分を無く卒業式と共に無くせば、その間にどんな繋がりがあるのだろうか。多分なくなる。身分に基づく何かの仮面があるから繋がりがあり、それを巧みに取り替えて生きるのがこの東京という街。

集団的状態における孤独状態。それが田舎者が「東京は冷たい」というような一言に込められた本質であると思う。

道端に倒されて放置された自電車や転んだ老人を前にして、同情や不安を感じるが、誰もが助けてあげようか戸惑う。その戸惑いこそが孤独的状態が生むわだかまり。人間としての同情は感じるが、結局は他人。

集団と孤独が無境界に共存する異様なコミュニティー。孤独な一人一人が異様な形で混ざり、繋がり、作り上げられた一枚のモザイクアートとコンクリートジャングル。それが東京という街。


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