読書感想文⑨『こころ』(夏目漱石)

4月27日、夏目漱石の『こころ』を読了したので、雑多に思ったことを記したいと思います。

ざっとストーリーを攫うと、実家から出て今の東京大学に通う「私」は、彼が「先生」と呼ぶ人物と交際していました。「先生」は仕事をせず妻と質素な生活を営んでおり書物を読むことを生業としていました。「先生」は月に一度、雑司が谷の墓にお参りに行く習慣がありましたが、その理由を「私」は知らずにいました。ある時その理由を聞いた「私」に「先生」は「あなたは私の過去を受け止めるほど純粋であるか」と聞きました。それに首肯いた「私」に、「先生」はいずれ自分の過去を打ち明けることになるだろうと告げました。しかし、「私」の父の容体が悪くなったことをきっかけに実家に戻った「私」は、父の容体の悪化に伴い予想以上に実家での長い滞在をしいられます。実家滞在中に「私」は母からのプレッシャーもあり「先生」に対して「何か仕事を紹介してもらえないか」という旨の手紙を送ります。その返答として「先生」は「今すぐ帰ってきて話しましょう」という返答をしたが、父の容体もあり東京に戻れない「私」はそれを告げます。すると「先生」から分厚い書簡が「私」の元に届きます。その書簡には、「先生」が自殺した旨と共に「先生」の過去が語られていました。(記憶を掘り起こして書いているので間違えていたらすみません。)

この本の内容としてはほぼ半分が「先生」からの書簡(遺書といってもいいでしょう)で占められています。前半は「先生」の少しミステリアスで厭世的な生き様が描かれており、後半の書簡で暴かれる「先生」の過去への伏線となっています。

ただこの話とても構成が単純な反面、人間の醜い部分、誰でも持っている醜い部分との葛藤がとても細かく描かれているなと思いました。

「先生」が厭世的で人を信じられない体質になってしまった理由としては大きく二つあり、叔父の自分に対する裏切りと自分の「K」に対する裏切りです。さらに後者の裏切りは自身にとって大切な友人である「K」の自殺という結末に終わります。「先生」は「K」に対して贖罪の念もあったことでしょうが、それ以上に自責の念が強かったと推察します。

叔父に対しては父からも「この人は信頼できる人だ」ということを聞いており「先生」自身も慕っていたのにも関わらず、父の死後財産を横領した叔父に対して「先生」は激しい怒りの念を持っていました。

そんな実家には戻れなくなった「先生」が身を寄せた家で「先生」は「御嬢さん」と出会い恋に落ちます。そんな中、実家から見捨てられた友人「K」を「先生」は匿って自身と同じ下宿に頼み込み一緒に住むことを奥様に了承させます。

しかしその同居生活の中で、「K」も「御嬢様」に好意を寄せるようになってしまったのです。それ以降、「先生」は「K」をいかにだしぬくかという戦略に試行錯誤し、奥様を味方につけることで「御嬢様」を実質勝ち取ることに成功します。

それを知った「K」は淡々と「お目出度うございます」と言いすぐに自殺してしまったのでした。

この本では最初から僕は「先生」と「私」を重ねて読んでいる部分が多くありました。特に、人は性善でも性悪でもなく、どっちにも転びうるんだと先生が発言したところに共感しました。

そしてその「人の怖さ」こそが先ほど述べた「裏切り」に通ずるものと捉えています。

まず第一に、叔父は父の生前は慕わしい存在であったのに父の死後がめつく遺産を横領したこと。ここはそこまで本旨ではないので割愛します。

そして重要なのが、「先生」自身の心の移り変わりです。

「先生」と「K」はかなり親しい間柄にありました。親しいというのにも質は様々ですが、ここでは切磋琢磨できお互いをリスペクトできる学友としての意味合いです。「K」は仏門出身で質実剛健で飾り気のない性格で真面目を地で行くような性格でしたが、「先生」に対しては心を許している節がありました。またKは実家からの希望を無視してまでも自分の希望を曲げないほど意志の強い人間でありました。このように、真面目で成績優秀でまっすぐな「K」に対して、「先生」はそこまで優秀ではないものの機転が利き柔軟な思考ができるような描かれ方をしています。

最初、「先生」が「K」を下宿に頼み込んでまで匿おうとしたのは果てしなく純粋な善意からでした。ここにはある種の同族意識というか、自分と同じように実家を追われて戻るところのないものとしての共鳴があったことと推察できます。

ですが、「K」が「御嬢様」に好意を抱き始めたとき、はっきりとは「K」が「先生」に対して「自分が御嬢様を好きである」と告げた時から、「先生」と二人の関係は変化していきます。

「先生」自身は、何かにとってつけても「K」に対する疑ぐりや打算的・戦略的な思考フィルターを通して「K」と付き合うようになります。ここで注意したいのは、「K」はあいも変わらず「先生」への信頼を揺らがせることなく交際していたことにあります。

そうした状態を続けて行く中で、「先生」は御嬢様の母親(「奥様」)に「御嬢様」との結婚を申し出ることによって事態を全て掌握しコントロールできる権利を得ました。しかしここで注意したいのは、これは明らかに恋愛感情からではなく「K」に先んじることを念頭に置いた行動であったということです。本当に純粋な恋愛感情からくる行動であれば、まず何よりも「御嬢様」に好意を伝えるはずでしょうから。

こうしてある種の優越感と罪悪感という二種の感情が混交した「先生」が誕生します。これはなんの成れの果てと言うべきなのか、表現が見当たりませんが、感情の暴走とでも言えばいいでしょうか。人の体に入った寄生虫が知らぬ間に肥大化していくかのように、「K」に対する友情が消え失せひたすら「K」の純粋な感情に漬け込んで打ち負かすことしか考えられなくなったのです。そうなろうとしてなったわけではなかったのに結果的にそうなってしまったのです。

友情を踏みにじったことへの贖罪の感情以上に自分の中に潜む狂気を眼前に感じてしまった「先生」は、それが人間に普遍的に一般化できる概念としてその狂気を捉えました。そうすれば、人間不信になり厭世的になるのも当然です。

人って裏切るんだ、っていうことを最近感じた人ならわかると思うんですけど、その裏切りが近い人であればあるほどその裏切りの対象を一般化してしまいますよね。最近よく聴く曲でKing Gnuの「Prayer X」という曲もそんな感じのこといってた気がします。

何を信じればいいかわからなくなるとしまいに感情がなくなるというか、人に裏切られる怖さを二度と味わうことのないように人に合わせた人生を送ろうとするか人との関わりを避けて隠遁するかのどちらかになってきて、前者になると本当の自分が何がしたいのかとかわからなくなってきます。

最後にわからないことは、この遺書を通じて「先生」は「私」に何を伝えたかったのかということと、「私」は東京に帰った後に何をしたのだろうかということです。

そこは何か面白い考察があればコメントでもくれると嬉しいです。



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