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性欲がなくなる薬 ~ケンジャチン~

 オフィスの中央に浮かぶホログラフ時計が21:00を表示しているのに、半分ほどのデスクにはまだ社員が残ったままだ。
 ヒロトは両手を組んだまま腕を大きく上げて伸びをし、頭を左右にひねってあたりを見渡した。
 リースの観葉植物のわきに座っていた渡辺が、そんなヒロトに気づいて声をかけてきた。
「今日もおそくなっちゃったなあ。奥さんも待ちくたびれてんじゃないの、新婚さんっ」
 ちょっと休憩するか。ヒロトは立ち上がり、渡辺のもとに近づいた。
「いや、もう、ぜんぜん新婚じゃないっすよ。結婚して3年目に突入ですからね」
 渡辺も、デスクの上に3つも広げていたバーチャルスクリーンを手のひらで押さえるようにして縮小した。しばらくヒロトとむだ話をして気分転換しようと決めたのであろう。
「なに言ってんのよ、ヒロちゃん。3年目なんて、正真正銘の新婚さんだよ、シ・ン・コ・ン」
 たしか渡辺はヒロトよりも5つ年上。結婚するのも早かったから、もう結婚生活も10年近くになるんじゃないだろうか。
「どうなんですかね。まあ、ヨメも最近は仕事が忙しいみたいで、帰ってくるのは同じくらいのときも多いですけど」
「ヨメって言うなよ、まったく。平成時代じゃないんだからさ。ダイバーシティ委員会に怒られちゃうよん」
「ただの慣用句じゃないですか、そんなの。まさかおんなじ苗字を名のっているわけじゃないですし」
「夫婦同姓はさすがにないよなあ、ははは」
 二人の談笑で生まれる二酸化炭素濃度の変化に反応して、渡辺の横の遺伝子編集パキラがゆっくりと左右に揺れた。
「はあ、それにしても、いよいよ山場だよな。このプロジェクトも」
「そうですねえ。もう自分がこの会社に入ってから2年。ようやくですよ」
「そうか、ヒロちゃん、結婚と同時に転職してきたんだっけ。湘南新宿オートシャトルのプロジェクトが始まるからってヘッドハンティングされたんだもんね」
 パキラの葉っぱが踊るように動き始めた。
「まあ、ヘッドハンティングってほどじゃないんですけどね。前職の京浜オートドライブのコネっすね」
「そのプロジェクトの大一番だよな、来月のプレゼンは」
「そうですね」
 ヒロトが手に持っていたドリンクを一口飲もうとしたのを見て、渡辺が笑い出した。
「なに! そのすごいの」
 ヒロトは『マカすっぽん・ギガエネジー』と書かれたポリ乳酸ボトルをヒラヒラと振りながら答えた。
「けっこう疲れがたまってるんすよ。まだ今日ももうひと踏ん張りしないといけないし。気合い入れようと思って」
「だめだめ、そんなの、砂糖とカフェインがこってり入っているだけで、ぜんぜん効かないよ」
 ヒロトはまたひと口飲んだ。
「まあ、そうなんでしょうけど。ちょっとでも元気をつけないと」
「そういえば、ちょっとやつれてきてる?」
 渡辺が近寄って顔をのぞきこんだ。
「あっ目の周りにちょっとクマもあるじゃない」
「ええ、まあ、やつれもしますよ。最近は土日もずっと仕事だし。睡眠時間も足りないままで。マカとかすっぽんとか、ちょっとは効かないのかな」
 渡辺がパチンと手をたたいた。
「そうだそうだ。ちょっと前にヤホーニュースで見たんだ。あれ、なんて言ったっけな、すごいいい薬が出たんだって言ってたよ」
「クスリ……ですかあ?」
「そうそう。なんだかさ、飲むとすっごい意識がはっきりして、ギンギンになるんだって」
「ちょっと、それ、ヤバいやつじゃないですかあ」
 鼻で笑うようにヒロトが返した。
「いやいや、それが違うんだよ。なんか、もともとはぜんぜん違う病気の治療薬として開発されたものらしいんだけどね。それを使うと、すごく頭がすっきりして、疲れも吹き飛んで、そんで精神的に活発になるのがわかって話題になってるらしいのよ」
「へえ、本当ですかねえ」
「うん、まあ、わかんないけど。ニュースではそんな感じで言ってたよ」
 ヒロトはちょっと興味をそそられた。
「だからその薬を使う人が急増しているって話だった」
「へえ、でも、へんな副作用とかないのかなあ」
「いや、だから、ぜんぜん……あっ、そうだそうだ、副作用がまったくないわけじゃなかったよ。変な作用があるって言ってたんだ」
「ほら、やっぱりじゃないですか」
 ヒロトは残っていたエナジードリンクを飲みほした。やっぱり、こいつに頼らなければならないか。
「いやいや違った。副作用じゃないんだよ。それが本来のその薬の作用なんだって」
「はあ、どういうことですか?」
「思い出したよ。その作用がおもしろいってのが、ニュースのトピックだったんだ」
「だから、なんなんですか、それって?」
「あのね、なんと、性欲がなくなっちゃうらしいんだよ」
 ヒロトは少しせき込みながら答えた。
「なんですって? え、性欲? あの、それが、なくなっちゃうんですか?」
「そうそう、きれいさっぱり。まったくなくなっちゃうらしいよ。なんでも、実はそれがその薬の本来の作用なんだって」
「どういうことですか、それ」
「いや、わかんないけどさ。でも、なんかおもしろいよね」
 ヒロトはがっかりした。ちょっと期待しはじめていたのに、結局はうさん臭い話のようだ。
「さあ、仕事に戻ろ。早くしないと、深夜シャトル料金になっちゃうし」
「なんだったけな、その薬の名前。なんか変わった名前だった気がしたんだけど」
「渡辺さん、仕事、仕事。広告のデザイン、まだけっこう残ってるんでしょ」
「うん、そうなんだけどさ。ああ、でも、なんだっけな」
 自席に戻りはじめたヒロトを見ながらしばらく考えていた渡辺だったが、ぱっと顔を輝かした。
「そうだ! 思いだしたよ。ケンジャチン! その薬、ケンジャチンって名前だった」

 マイドクターbotは、スマートグラスの画面の中で、ヒロトの顔をじっと見つめていた。
 CGで作られたアニメ顔のbotは、やがて低い落ち着いた声で話しはじめた。
「個人認識できました。佐々木ヒロトさん。今日はどうされましたか?」
 画面の下にヒロトのマイナンバー、住所、生年月日などの個人情報が表示される。
「いえ、あの、ちょっと処方してもらいたい薬があるんですけど……」
 アニメ顔のまま表情を変えず、マイドクターbotは答えた。
「佐々木さんの最近のメディカルチェックの結果、およびウエアブルデバイスのデータからは、特に健康課題は見当たりませんが?」
 画面の下に3か月前に受けたばかりの定期健康診断の数字が流れていく。
「もっとも、疲労、ストレス値は高いようですが。こちらにつきましては十分な休養と睡眠をおとりになることをお勧めします」
 それができれば苦労はないよ、と内心で思いながら、ヒロトは続けた。
「いや、でも、疲れているのは数字にでてるでしょ。それに、睡眠不足で頭の働きがにぶってるんですよね。これも一種の健康課題、というか、病気とは言えないでしょうか?」
 相変わらず表情を変えずに、また口調もまったく変えずにbotは答えた。
「ですからその症状に対しては休養と睡眠を十分にとることをおすす……」
「あの、ケンジャチンという薬を処方してもらいたいんですけど」
 AIと言い争っていても仕方がないと判断し、ヒロトは本題を切り出した。
 ほんの少しの時間をあけて、マイドクターは相変わらずの口調で答えた。
「現時点で把握できているバイオデータではケンジャチンの処方対象と診断されません。ケンジャチンの保険適応の疾患は、異常性欲亢進症のみです。性行動に特化したメディカルチェックを実施しますか?」
「いや、いいです、いいです、そんなメディカルチェックは」
 ヒロトはあわてて言った。
 自分は単に仕事の激務で疲れているだけなのだ。実のところ、マイドクターが言うように、十分な休養と睡眠をとれば回復するだろう。
 しかし、それができないのだ。
 プロジェクトの申請があとひと月と迫り、やるべきことはそれこそ山のようにふくれあがり、やってもやっても減っていく様子はない。睡眠も削りに削ってぎりぎりのところでやっているのに、このままでは、間に合わなくなるのではないかという危惧さえも生まれてきた。
 とにかく、もっとがんばるしかない。でも、体力的にはもう限界だ。
 追い詰められた中で、半月ほど前に渡辺から聞いたその『薬』のことを思い出した。わらにでもすがる思いで、仕事の切れ間をようやく見つけて、マイドクターbotにアクセスしたわけだ。
「でも、あれでしょ、保険適応でなかったら処方してもらえるんでしょ。ケンジャチン」
 また少し間をあけてからマイドクターは答えた。
「はい。それであれば、処方可能です。全額が個人負担になってしまいますが、それでよろしいですか?」
「うん、それでオッケー。処方をお願いします」

 ケンジャチンの薬剤費の全額負担はかなり痛かったが、もしこれで少しでも仕事がはかどるならと納得した。とにかく非常事態なのだ。
 マイドクターが発行した処方箋は、個人登録してあるドラッグストアに送られ、その日の夕方にはアマゾソ特急便によりオフィスにいるヒロトにその薬が届けられた。
 なんの変哲もない白い錠剤。ケンジャチンという名前と、製造販売元のサンテラス製薬のロゴが印刷されている。
その錠剤を一つ、おそるおそる水で流し込んだ。
それからおよそ30分、オフィスのホログラム時計が18:00を表示するころ、その変化が急に体に押し寄せてきた。
 急にすうーっと頭が澄み渡っていくのが感じられる。そして知力がみなぎっていく。まるで、なにもかも超越したような、すべてを見通しているようなその感覚。
 ヒロトは、その新鮮な経験におどろきながらも、いつかどこかで、味わったことがあるような、そんな気も同時にしていた。
 処方箋を発行する際、マイドクターがしていた説明を思い出す。
「本薬剤はプロラブリンの作用を模倣するスーパーアゴニストという種類の薬になります」
 法令に従って行われる説明を、一通り聞かなければならない。それが処方される側の義務だ。
「プロラブリンは性行為における絶頂時の直後に脳内に分泌されるサイトカインとして発見されたものです。その作用を強めることにより、脳神経細胞の活性化を促します」
 仕事で疲れたもうろうとした頭で聞いていたので、内容はまったく理解していない。とにかく、ちょっとでも助けになってくれたら。それだけを考えていた。

 結局その日はオフィスで徹夜をしてしまった。
 途中、まったく眠くもならず、疲れもせず、トイレに行く以外はノンストップで朝まで働いた。おかげで、たまっていた仕事がだいぶ片付いた。
 きりのよいところで、近くの吉田屋に朝食を食べに出かけた。いつものベジニク丼を半分くらい食べたあたりで、急に眠気が襲ってきた。
 あわてて残りをかき込むと、オフィスに急いでもどり、すぐにケンジャチンを飲んだ。
 なんとか仕事をしなければと、デスクにつき、バーチャルモニターに映るグラフや表と格闘をはじめた。
 しかし、どうしても眠くてたまらない。なんどもかくっと眠りに落ちてはそれに気づいて起きる、ということを繰り返していた。
 が、突然、ウソのように意識がすみわたってきた。そして、気力が湧き上がってくる。
「おお。またクスリが効いてきたのか」
 ケンジャチンのパワーに感動しながら、その日も猛スピードで仕事を片付けていった。

 妻のユナにケンジャチンを飲むのを勧めたのは、それから一週間もたたないうちだった。
 ユナも新しい部署にグループマネージャーとして異動したばかりで、忙しい日々を過ごしていた。
 覚えないといけないことがたくさんあるのに時間がまったくない、というユナの愚痴を何度も聞いていた。ケンジャチンの作用にすっかり魅了されていたヒロトは、ユナにもこの薬が有効なのではないかと思いついたのだ。
 スーパーマンのごとく連日の激務を軽々とこなしているヒロトを間近で見ているユナは、その薬のすさまじい効果をよくわかっていた。
 ヒロトと同じようにマイドクターbotの診察を受けると、全額自己負担でのケンジャチンの処方を依頼した。
「プロラブリンの作用を増強しているため、性欲が完全になくなります。性行為の絶頂後の状態が薬剤により作り出されるわけです」
 と、マイドクターはユナにも同じ説明をしたが、ユナはなにも気にしなかった。

 そして、夫婦二人でケンジャチンを服用する日々が始まった。
 その素晴らしい作用を自分で体感し、ユナは感動するばかりだった。どれだけ残業を続けても、まったく疲れるということがなかった。頭は常にすみ渡り、最高速で回転し、新しい業務のために覚えなければならない山のような規定も、楽々と頭に入ってくるのだった。
 二人とも忙しく仕事に追われ、オフィスにいる時間が長くなり、家で二人が過ごす時間はどんどんと減っていった。
 そして、マイドクターが繰り返し警告していたとおり、性欲を感じることはまったくなくなっていた。
 しかし、そもそも、なにも感じないので、性欲というものについてユナは思いだすことさえもなかった。それがどういう感情であったのかでさえも忘れつつあった。
 そして、それはヒロトも同じだった。

 半年がたった。
 
 ヒロトがリーダーとして進めていた「湘南新宿オートシャトル」は、めでたくローンチに至った。平塚から新宿までを自動運転で結ぶシャトルは、1分おきに発着するという便利さで、たくさんの人の移動手段として役立っていた。
 ヒロトはこのプロジェクトの成功を認められ、関東オートシャトル部門の副部門長に若くして抜擢されることになった。
 ユナは、新しい部署での仕事にもすっかり慣れてきた。商品流通グループのマネージャーとして、責任のある仕事にやりがいを持って臨んでいた。

 二人とも、半年前の目の回るような忙しさからは解放され、落ち着いた日々を過ごせるようになってきていた。
 しかし、二人とも、ケンジャチンの服用をやめようとはしなかった。
 当時ほどではないにしろ、仕事が忙しいことは変わりはないということはあった。しかし、なにより、ケンジャチンを飲んだときの冴えわたる感覚と仕事の効率のよさ、そして深い満足に満たされるその感覚に、心底、ほれ込んでいたということが大きい。
 ちょうどいい忙しさのやりがいのある仕事。充実した毎日を二人は過ごしていた。

 そんなある土曜日。
 マイドクターの指示通りにクリックセンターに行ってきたユナは、玄関で待ち受けるヒロトに笑顔で伝えた。
「今回も問題なかったよ。順調に成長中だって」
「そうか、そうか、よかった」
 リビングにもどってバックをソファーに置くユナに、後ろからじもじとついてくるヒロトに、ユナはおかしくなった。
「はいはい、ちょっと待ってね。大丈夫、データはもらってあるから」
「ちゃんとデータは出ていたんだね」
「うん、だってもう着床操作から65日だもん。十分に細胞もとれるし、ゲノムイメージングなんて一瞬でできるらしいよ」
 手に持っていたスマートグラスをいそいそとかけようとするヒロトを、ユナは愛おしい目でみつめた。
「わたしもまだちゃんと見ていないんだよ。一緒に見ようと思って」
 ソファーの右側に腰かけながらユナは言った。
「そうそう、まちがいなく女の子だからね。ちゃんと住民課に出した申請書に書いたとおり。まあ、あたりまえだけど」

 スマートグラスをつけたユナの横にヒロトはすわり、二人で並んでおなじ立体ホログラムをそれぞれの画面から眺めた。
 法律で規制されているために、顔はすこしぼやけた画像になっている。それでも、かわいらしい顔立ちであることはよくわかった。
「ユナに似てるね。特にミドルスクールくらいに成長すると」
 成長軸のカーソルを少しずつ動かしながらヒロトがうれしそうに言った。
「そうだね。たしかに。でも口のあたりはヒロトにも似てるんじゃない」

 スマートグラスの画面に浮かぶバーチャルの世界の中、流行りのデザインのワンピースを身に着けた二人の娘は、にこにこと両親に笑いかけていた。
 穏やかな日差しが差し込む土曜の午後、二人は肩を寄せ合い、いつまでも飽きずにその画面を眺めていたのだった。


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