# もう一人の”しげま”と生きている話
僕はものすごく見栄っ張りで,周囲の視線をものすごく気にするタイプである.
だからいつでも周りからは自分のことを良い風に見てもらいたくて,周囲の視線には常に気を配って生きてきた.
中学生の途中までは,それこそ”THE 優等生”と呼べるような学生を本気で心掛けていたし,実際そうだったと思う.自分で言うのも変だけど.
だから役職や委員を軒並みかっさらい引き受け,周囲からの評判を欲しいがままに生きてきた.
だけど本当の”しげま”はサボるの大好き.可能なら何もしないで生きていけるのであればそれが一番幸せかもしれない,と最近ガチで考えることが何回かあった.
生きていく上で,”崇高な目的を達成する”ことや,”偉大な存在となり生きた証を残す”ことは素晴らしいことだと思うし,誰しも自分の中でそんな目標を抱えて生きているはず.例えそれが他人から評価されないことだとしても,自分の中で納得できているなら素晴らしいことだと僕は思う.
だけど僕はそんな中でも誰かに評価されるようなことを成し遂げたいと本気で思っている.だけどそれは”建前の”自分.
建前の自分がこんなことを夢見ている一方で,”本音の”自分は何もしないで生きていきたい,と思っているわけである.
タイトルを振った理由は,この”建前の”自分と,”本音の”自分が面白いくらいはっきり分かれているからである.具体的に言うなら,家に入った瞬間,いつでも”本音の”自分が顔を出すことになる.
僕は基本的に家ではほとんどどんな作業も手につかない.つまり,何もしたくない”本音の”自分がいつだってそこにいる.
どんなに追い詰められているときでも,家では基本的にパフォーマンスを発揮できることはほとんどない.
だけど家でも何か作業をしなければならないことも多々ある.そもそも家で作業しないで済むように全ての作業を外で済ますように努力しているんだけど,そんなにうまくいくことばかりでもない.
そんなときは,”外での自分が明日困るよね...”とまさにもう一人の自分のことを思いやるようにして行動に起こすようにしている.
まぁ,この思いやりが上手く働くか否かは,結局その時の追い込まれ次第.本音の自分が,”いや,明日お前(=建前の自分)が頑張ればええやん”と結論付ければ,行動を起こすことはまずない.
もっと上手くもう一人の自分と付き合って生きていきたいと思う.
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