ラスベガスパパから学ぶ最強の人生訓 プロローグ
🔶プロローグ ラスベガスパパ・フランクさんとの出会い
飛行機の外を見ると広大な砂漠と木のない山々が広がっていた。
東京から8900km。ロサンゼルス国際空港を経由して約14時間のフライトを終え、アメリカ合衆国ネバダ州の最南端に位置するハリー・リード空港に着いたのは、朝9時だった。
世界中からの観光客で年中賑わう観光都市として有名なラスベガスは、空港に着いた瞬間から圧巻だった。
手荷物受取場、到着ロビーにまでカジノマシーンが大々的に設置されている。
カジノマシンで遊んでいる人たち、預けた手荷物をピックアップしている旅行客の間をすり抜け、迎えに来てくれたラスベガスパパとその娘さんに初めて会った。
「ようこそラスベガスへ!よく来てくれたね」
手荷物を取った後、空調の効いた空港から一歩外に出ると、ラスベガスの灼熱の空気と強い日差しが私の体温と気分を一気に上げた。
「家までだいたい20〜30分ってところね」
ラスベガスパパの娘さんが運転する車でラスベガスのフリーウェイを滑るように走った。
「カイノミ、腹は減っているかい?」
後部座席でニコニコしながら、明るい表情で問いかけてきた人物こそ、フィリピン人でありながら、アメリカ海軍としてベトナム戦争に参戦し、その後、ラスベガスでビジネスに大成功した「ラスベガスのパパ」である。
この旅でのラスベガスパパからの教えがその後の私の人生を大きく変えることになるとはこの時思いもしなかった・・・。
きっかけは半年前の長崎ーー。
「そういえば、ミユキがラスベガスに住んどるもんねー」
この一言がすべての始まりだった。私が正月に親戚の家を訪問している時に叔父が言った一言だった。
叔父によると、私の祖父は8人兄弟であり、一番下の妹さんがフィリピン人でありながらアメリカ海軍だった人と結婚してラスベガスに渡り、そこで生まれたのがミユキさんだそうだ。
「うちの親戚でラスベガスに住んでる人がいるの?」
テレビでラスベガスのことは知っているものの実際どんな街なのか?そこに住んでる親戚はどんな人なのか?興味をそそらないはずがなかった。
根掘り葉掘り叔父に質問していると、
「連絡してみたらいいよ」とミユキさんのメールアドレスを教えてくれた。
その場でミユキさんに連絡し、返信が来たのはその日の夜中だった。
「Hi, Kainomi!あなたの叔父ヒロシからあなたのことは聞いてるわ。機会があったらぜひラスベガスに遊びに来てね」
その後私たちはテレビ電話やメールで連絡をとり続け、その中で色んな情報を聞いた。
ミユキさんの父の名は「フランク」。私がラスベガスのパパと呼んでいる人物である。
フィリピン生まれだが大学を卒業する際に当時アメリカ軍が募集していた海軍採用試験へ応募し、応募者300人の中から8人だけ採用されアメリカの軍人となったのがフランクさん。
アメリカの軍人となった後、ベトナム戦争に参戦し、世界各地の基地を回っている中で長崎県佐世保市を訪れ、地元のスナックで働いていた私の祖父の一番下の妹サヨコさんと出会い、フランクさんの猛烈アタックの末、結婚した。
その後、相模原の米軍基地に駐在している時に生まれたのが娘のミユキさんとヨウコさん。
フランクさんが20年アメリカ海軍として働いた後、フィリピンに戻って生活したりもしたが、軍人時代に訪れたラスベガスが気に入り、アメリカへ移住を決意した。
フランクさんはアメリカの軍人であったため、アメリカに住むビザはあったものの、すでに退役しており、仕事もコネもない状態で一からのラスベガス生活のスタートであった。
バーテンダーや美容師をやったり、香水や化粧品を売ったり、仕事をいくつも掛け持ちし家族を支え、様々なことにトライし、ジュエリービジネスで成功した。
アメリカに渡って約30年。数年前に奥さんのサヨコさんは他界してしまったが、現在は高級住宅街のプール付きの大きな家に住み、娘や孫の成長を見守りながら、毎日カジノで遊んで、悠々自適な生活を送っている。
そんな親戚がいたのか・・・。
それが率直な感想だった。母国を離れて海外に移り住んで働いている人は何百万人といるだろうが、孤立無縁、徒手空拳でここまで成功した人が何人いるだろうか?
そう思うと直接会って聞きたいことが山のように溢れ出した。
「どんな信条をもっているのか?」
「どうやって多くの信頼を勝ち得たのか?」
「成功の秘訣はなにか?」
「数々の苦難をどうやって乗り越えたのか?」
「どんな人生観を持っているのか?」・・・。
私はすぐにミユキさんにメッセージを入れた。
「一度ラスベガスに行ってみていい?」
ミユキさんからのメッセージはすぐに返ってきた。
「もちろんよ!日本の家族がラスベガスに来てくれるなんてパパもとても喜ぶわ!」
こうして、私はラスベガスに行くチャンスを手にしたのだ。
気づくと、車は中心地を離れ、住宅地へと走っていた。
ヘンダーソンと呼ばれるエリアだ。100年前ラスベガスは何もない砂漠のエリアだったが、カジノとホテルによる観光産業で類を見ない発展を遂げ、街はどんどん拡大し、30年前にラスベガス郊外に開発された住宅地がヘンダーソン地区である。
ラスベガスの景観を崩さないよう開発されたヘンダーソンはラスベガス随一の高級住宅街で、道路の両脇には整然と街路樹が植えられ、綺麗な家々が立ち並び、生活のしやすさ、治安の良さが伺える。
「もうすぐ到着するよ」
ミユキさんが滑らかに運転しながら言った。
車が家の前に到着するとガレージが開き、車はガレージの中へと収まった。
家はプール付きの大きな家に犬が一匹。アメリカのステータスの象徴である。
家に入るとフランク家の愛犬Ichiroが嬉しそうにかけよってきた。亡くなった奥さんが野球選手のイチロー選手の大ファンで彼からとった名前だ。
「カイノミ!お腹減ったかい?」
パパはまたハイテンションで聞いてくる。
「ロスの空港で小腹が空いてトルティーヤ食べて、コーラ飲んだからそこまでお腹すいてはないけど・・・」
すると、すかさずミユキさんが明るい声で言った。
「そしたらまずプールに入ってクールダウンしてきなよ!妹のヨウコがケンタッキー買ってウチにくるらしいから!」
私は早速着替え、庭の大きなプールに飛び込んだ。Ichiroがプールの周りではしゃいでいる。
時刻は午前10時半。ラスベガスの強烈な日差しを浴びながらヒンヤリとしたプールの中で、
「あぁー、ついにラスベガスにきたかぁ。これからどんな体験ができるのかなぁ」
とぼんやり考えていた。
ラスベガス滞在は約1週間。
パパとミユキさんが住んでいる家に泊まらせてもらい、ご飯を食べさせてもらったり、街に出掛けたり、家では今までの人生からラスベガスでの暮らし、家族への想いなど色んな話をしたりした。
ミユキさんは、私のために1週間の休みを取ってくれ、滞在期間中ずっと私のアテンドをしてくれ、身の回りの世話から観光地案内までしてくれた。
本書は、この1週間の滞在で私がラスベガスの家族から学んだことや衝撃を受けた体験をまとめたものだ。
失われた30年と言われて久しく、閉塞感漂う日本社会の中で、海外でチャンスを掴みたいと思う若者やビジネスパーソンも多い。どうやって成功を掴み取っていくのか?どうやって充実した人生を切り拓いていくのか?ラスベガスの家族やラスベガスの街全体が大切なヒントや教訓を教えてくれた。
裸一貫で家族とアメリカに渡り、徒手空拳でビジネスを始め、裕福で幸せな生活を送っているラスベガスパパの語る言葉は「最強の人生訓」だ。
本Noteはすべて実話で構成されており、成功の秘訣を語った読み物として楽しんでもらいたい。
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