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ラスベガスパパから学ぶ最強の人生訓 第一章 他人と競争しなくていいものを選びなさい

🔶第一章
他人と競争しなくていいものを選びなさい。

フランク家の裏庭のプールに浸かりながら、ぼんやり空を眺めていると、家の中から騒がしく明るい声が聞こえてきた。

フランク家の愛犬Ichiroが飛び跳ねながら家の中へ駆けて行った。
妹のヨウコさんがケンタッキーを買ってきたのだ。

すぐにヨウコさんがプールの方に現れ、プールの水で濡れている私とアメリカ式のハグの挨拶を交わした。

(こんな感じの家だった)

「あなたがカイノミね!ようこそラスベガスへ!
日本から家族が来てくれるなんて嬉しいわ〜。ケンタッキー買ってきたから一緒に食べましょ!私のパパが大好物で毎日食べてるわ!」

私はささっとシャワーを浴び、着替えた後に食卓についた。

食卓にはすでにケンタッキー・フライド・チキンが並べてあり、
チキンとコールスローとポテトを頬張りながら本場の味を堪能しながら思った。

「これが本番アメリカのケンタッキーかぁ。でも、味は日本と同じだな。当たり前だけど」

ちなみに、パパは食べただけでお店でチキンを作ってる人が変わったかどうかわかるという。それぐらいケンタッキーのチキンが好きなのだ。

こうして私のラスベガス滞在生活が始まった。

食事中にパパが言った。

「カイノミ!ラスベガスで何食べたい?ハンバーガー、ホットドック、ラザニア、なんでも好きなもの食わしちゃる!」

私は胸肉のチキンにかぶりつきながら言った。

「せっかくアメリカに来たので本場のハンバーガー、あとは家でバーベキューも体験してみたいですね。テレビで見たことあるので」

やはりせっかくアメリカに来たからには、ダイエットのことなど気にせず、思いっきりアメリカンフードを味わいたい。

「いいね!よーし!気合い入れて美味しいもの食べさせてあげるから楽しみにしときな!」

とパパは嬉しそうに言った。

一通り食事を終えた後、時差ぼけの影響もあるので、家族たちは私に昼寝の時間を設けてくれた。

「夜になったらラスベガスの街を軽くドライブしましょう!」

その時、時刻はすでに午後3時。

私は初めてラスベガスに来た興奮で昼寝しようとしても眠れないと思っていたが、2階のベッドルームを案内され横になり、目をつぶると、次に目が覚めた時にはすでに夜の7時半だった。

「思ったより寝てしまったな・・・。これが時差ボケの影響か・・・」

家族はどうしてるかなと一階に降りてみたところ、妹のヨウコさんはすでに帰っており、パパとミユキさんがリビングで談笑しており、私の姿を見ると開口一番に言った。

「Good Morning!ドライブに行きましょうか!」

私は「お、オーケー・・・。でももう夜遅いけど大丈夫なの?」と心配して聞き返したが、ミユキさんは言った。

「ラスベガスはこれからよ!夜10時からでかけるとかもざらにあるわよ!」とミユキさんは言った。

ラスベガスは電車が通っておらず、すべて車移動のため終電など気にする必要がないのかもしれない。

私たちは支度し、ガレージに止めてある車に乗り込んだ。
パパはキャンプに行く時に持って行くビニール製のクーラーボックスに飲み物を詰めて、持ってきてくれた。
ラスベガスでは水分補給は必須なので、こうして冷えた水を外出先で飲めるようにすることは必須らしい。

ヘンダーソンは中心地よりも高台にあり、街に向かって車を少し走らせると、ラスベガスの夜景が一気に広がっていた。

(ヘンダーソンから見るラスベガスの夜景)

運転はやはりミユキさん。パパも運転はできるが、最近は歳のせいもあり、近場のスーパーや洗車場ぐらいまでしか運転していないらしい。

「これからストリップと呼ばれるカジノホテルが立ち並ぶ有名なストリートをドライブするわよ!
噴水ショーとかも見れる通りよ!ほら、あそこに高いビルが集まってる場所がストリップがあるところよ」

ミユキさんが慣れたハンドル捌きで運転しながら、街のほうを指さして言った。

「ほぉー、あれがラスベガスの中心かぁ。でも中心地以外はあまり高い建物はないんだね」

東京の景観に慣れている私は率直にそう言った。

「私たちが移り住んできた30年前はもっと小さな街で、中心地から発展していったんだけど、周りは土地がたくさんあるからどんどん横に広がって発展している感じね」

みゆきさんは簡単なラスベガスの歴史を説明しながら語ってくれた。

約100年前のラスベガス

ネバダ州でのギャンブルが合法化になったのは1931年。
この頃もまだまだ何もなく、現在のダウンタウンが栄えだしたのは戦後、せいぜい50年ほどのこと。
フーバーダムがきっかけになり、発展し始めたのだが、結局は作業員などが楽しむだけの町であった。

今は巨大ホテルが林立するストリップにも、フラミンゴホテルが1946年に建設されただけで、他には砂漠しかなかったと言っても過言ではなかったが、これが50年代に入り、サハラやリビエラ等、大型ホテルの建設ラッシュが始まった。

フラミンゴホテル

しかし、ラスベガス=ギャンブル=マフィアなどのイメージが強く、クリーンなイメージが少ない為、ごく一部の人間にしか利用されていなかった。

そして、これを変えたのが80年代後半からのテーマパーク型巨大エンターテイメントホテルの建設ラッシュだ。 ミラージュ・TI(当時はトレジャーアイランド)・ベラージオ・エクスカリバーなど、 今ではラスベガスのシンボル的ホテルもこの頃から開業している。

ミラージュホテル

この建設ラッシュを皮切りに、ギャンブルの町からエンターテイメントの町に変貌していったのだ。
今では子供から大人まで楽しめる街と言えるようになっている。

自然や観光だけでなく、ラスベガスは巨大コンベンションが開催される街としても有名で、全客室数が15万室を超える街は世界中探しても、このラスベガスしかない。

急速に発展したラスベガスだが、近年では多国籍企業の誘致、メジャースポーツのチームの誘致を行っており、今も尚、いたるところでビルやスタジアムの建設が行われている。

Allegiant Stadium(アメリカンフットボール)

車がラスベガスの中心街へ入ると、映画オーシャンズ11の舞台となったベラージオホテル、ニューヨークをモデルにしたHotel New York New York、大相撲のラスベガス公演が行われたMandalaybay resort and casinoなど、テレビやネットで見たことある光景が一気に広がった。

(ラスベガスの中心地)

「これがラスベガスかぁ・・・」

思ったよりギラギラしたいやらしい感じはなく、派手なデザインや演出の中にも洗練された雰囲気があると感じた。

しかし、車がストリップのストリートを抜け、ダウンタウンに入っていくと街の雰囲気は一変した。
80年代の香りが残る建物が並ぶ風景に変わり、ホームレスをちらほら見かけるようになった。

(ダウンタウン)

「昔はこっちのほうが中心街で、むしろラスベガスはこのダウンタウンから始まったのよ。有名なのはベラージオホテルの噴水ショーとかがあるストリップだけど、こっちの古い街並みが好きなオールドなファンもいたりするわね」

ミユキさんが身振り手振りを交えて説明してくれた。

ストリップストリート

ストリップからダウンタウンを往復し、車は家路へと向かった。

こうして、時差ボケや旅の疲れもありながら、目に入る全てのものが異世界に映ったラスベガス初日が終わった。

その日、ベッドに入ったのは夜中1時、そこで少し眠ることができたが、時差ボケの影響もあり、朝5時に目が覚めてしまった・・・。

ラスベガスの朝日


どうしても眠れなかったので、そのまま一階へ行ってみると、すでにパパが起きて、庭の植物に水やりをしていた。

「Good mornig!よく眠れたかい?コーヒー飲むかい?」

朝からパパは元気だ。

「うーん、なんかあまり眠れなくて・・・。うん、コーヒーいただくよ」

私は朦朧とした意識の中、答えた。

体は疲れている上に、眠ることができなかったが、ラスベガスの雰囲気を楽しみたかった私は家の外を散歩することにした。
6時前のラスベガスは、乾燥しているので真夏でもとても涼しく、朝日を見ながら歩くのはとても気持ちよかった。

散歩から帰ると、パパがまた尋ねてきた。

「コーヒー飲むかい?朝ごはん食べるかい?この後車を洗車しに行って、その後スーパーに買い物にいくから一緒に行こう!」

「う、うん、コーヒーいただくよ。ありがとう。
そうだね。せっかくだからローカルのお店も見てみたいし、一緒に買い物に行くよ」

そうして、私たちは、朝食とコーヒーを済ませた後、車の洗車や給油、スーパーでの買い出しへと出かけた。

VONS

それらの用事を終えて帰宅し、一息ついたところで、私とパパは朝日が心地よいリビングで談笑を始めた。

いまではこうして大きな家に住み、悠々自適な生活を送っているパパだが、どうしてそんな生活ができるのか、率直な疑問をぶつけてみた。

「そういえば、パパは退役してから、どういうことしてたの?軍人の退職金や年金ってそんなに手厚いの?」

パパは笑いながら言った。

「軍人の退職金と年金でこんな暮らしができるわけないよ!ははは。ラスベガスに来てから、私も色々やったからね。それまで軍人の世界しか知らなかったから、退役してからすぐに学校に通って学び直した。それからはバーテンダー、美容師、化粧品や香水を売ったり、様々なことを試してみたよ。あらゆることをね。

そこで気づいたよ。学校で学べることやすでに世の中にあるものの土俵で商売をしようとすると必ず競争になるってね。学校で学べるってことは同じように学んだ人が大勢いるはずだし、すでに出来上がったビジネスの中に入って行くということはそれだけライバルも増える。これでは勝ち目がないと思ったんだ。そんな時に友人とジュエリーのビジネスをやることになって、どうしたら顧客の心を掴めるか徹底的に研究したんだ。

例えば、エンゲージリングと結婚指輪。結婚の約束をした証としてエンゲージリングをはめるのに、実際に結婚する際は、そのエンゲージリングを外して、結婚指輪にはめなおすだろ?それっておかしくないかと思ったんだ。

結婚の約束をした上に結婚があるはずで、そう考えると、エンゲージリングの上に結婚指輪を合体させれるデザインにしたらどうかなってね。

そのほかにも本物のダイヤモンドを見分ける勉強もしたし、それを顧客にわかりやすく説明することで、顧客は私のことを信頼して、重要な顧客になっていってくれたんだ。

例えば、偽物のダイヤモンドはガラスで出来ていて、透明すぎる。
専用のルーペで見ると奥が透けて見えるんだ。本物のダイヤモンドは反射して光輝くから奥が透けて見えることはない。
偽物のダイヤはリングのデザインにも現れていて、ルーペで見た時に奥が透けて見えるのを防ぐために、裏側が塞がっている。
本物のダイヤモンドを使ったリングは、本物だと証明するために裏側が塞がっていないデザインになっている。
まぁ、こういうことを顧客に話すと彼らはいかに私がプロフェッショナルであるか信用してくれる。

こうして、ありふれた宝石商ではなく、顧客の心を掴むデザインやサービスを提供して、ビジネスがうまくいったんだ。
当時は他にこういうことをしている人がいなかったのも成功の要因のひとつかもしれないね。

私もいきなり商売を始めて一発目で成功したわけじゃなく、様々なことを試してみて、その積み重ねがあってジュエリービジネスの成功に繋がったと思う。
だから他の人がやっていないことに注目して、様々なことにトライしてみることが重要なんだ。
特に教科書に載っていない誰も学んだことのないような分野が特にいいね。誰もやり方を知らない、どうやってやるかわからない分野であればあるほど、自分が唯一無二の存在になれるんだ。
そうやって熱心にサービスを提供していれば彼らは一生のお客さんとなって自分を支えてくれるよ」

私もビジネススクールで学んだり、自己啓発本の類はたくさん読んできたが、そこにも同じようなことがたくさん書いてあり、まさにそれを実践して成功した人が目の前にいることに感動を覚えた。

多くの人は私と同じように、どこかで得た知識としてこれらのことを頭ではわかっていても実際に実行に移すことはなかなか難しいものである。
失敗したらどうしよう。調べるのがめんどくさい、そもそもそんなことをやっても成功するかどうかわからないし。など、こういったことが頭を駆け巡り、行動を制限し、結果、チャンスも生まれなくなる。

しかし、パパは行動を起こし、毎日何かに挑戦し、実際に成功をつかんだ。目の前にそれを実現した人物がいることに私は興奮し、ますます彼の話を聞きたくなった。

第二章へ続く・・・。

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