Vol.4 『祖父を介護する母へ、娘の私にできること。できなかったこと。』 +1ヶ月後
祖父が癌により食事が取れなくなったのは一昨年のことでした。
喉に腫瘍ができて大きくなり、食べ物が通らなくなったのです。
現在は胃に穴を開けてチューブから栄養剤を入れています。
当然、思うように呼吸もできず、喉に穴を開けて息ができるよう気管の切開も行いました。
そのため大きな声が出ず掠れたような、息が漏れるような小さな声で話します。
浮腫みがひどく、身体全体の水分量がコントロールできないため、尿管から管を入れトイレで排尿することもなくなりました。
容態の悪化とと共に緑内障も進み、その頃にはもう大好きな読書を行うこともできなくなっていました。
祖父は母の弟家族と同居していました。
趣味の畑仕事をしながら身の回りのことはもちろん洗濯や料理などの家事も担っていました。
しかし、具合が悪くなってからその生活はガラリと変わりました。
昼間はデイサービスで過ごし、夕方帰宅して近くに住む母が栄養剤を入れに自宅へ向かいます。
食事と着替えが終わるとそのまま自室のベッドに寝ます。
就寝するまでは傍のテレビをつけて、音だけを聞いて過ごしていました。
目が見えないことや喉の穴に装着しているカニューレというバルブのようなものを自分で抜いてしまうことがあるため、常に見守る人が必要でした。
そのため母は同居している私の叔父が帰宅するまで祖父に付き添い、夜遅くに交替して自分の家へ帰宅する生活が1年ほど続きました。
理学療法士である私は、祖父のような状態の利用者さんは数多く知っています。
そういった方が病院ではなく自宅で過ごすためにどのような知識が必要なのか、何を準備すればいいのか、介護が始まった最初の頃、母はよく電話で私に尋ねました。
カニューレを気にして触ってしまうことはありましたが、視力が低下し会話する機会が減った状況でも祖父はしっかりとしている印象があり、東京から山梨へ会いに出かけた時には私や私の娘を認識して笑顔でコミュニケーションが取れる状況でした。
仕事柄、家族のことがわからなくなって暴れてしまう、足に力が入らないのに無理やり動いて転んで怪我をしてしまう、そういった祖父よりも大変な状況の方を数多く見てきました。
ですから正直にいって、なんとかなると思っていました。私は母があまり重く受け止め過ぎないように、楽観的に捉えられるように言葉を選びながらたくさん話しました。
しかし、私がどんなに話しても母は不安がっていました。私はそれを介護生活への不安なのだと捉えていました。福祉用具のこと、介護保険で利用できるサービスのこと、ありとあらゆる話しをしました。
そんな中で母が決まって口にするのは「目も見えないし、話しもできない、ご飯も食べれなくておじいちゃんが可哀想」という台詞でした。間違いなく、介護は母の負担になっていました。
でもそれ以上に母を苦しめていたのは、変わっていく祖父の変化に心がついていかなかったことなのではないかと思います。
生活が回り始めると、徐々に母からの不安の訴えは減っていきました。
しかし時折電話口で様子を尋ねると、最後は決まって「おじいちゃんが可哀想」だと話していました。
母の不安が減っていった理由に、周囲の方のサポートがあったように思います。入院していた病院のソーシャルワーカー、自宅で生活していた時のケアマネジャーの方が母の不安を聴きとりサポートして下さいました。
実の娘の私が話すよりも、近くの専門家が寄り添う方が強いのだな、と複雑な心境になったのを覚えています。離れて住んでいるからこそ、知識や経験を活かしてサポートがしたかったのですが、それは私の思い上がりだったのかもしれません。
近くに信頼できる人がいることを伝える、橋渡しをするだけでも、母を助けることができたのではないかと思います。
祖父は今、喉にできた腫瘍が肥大し気道を大きく塞いでしまった為入院しています。
癌の痛みも強くなり、薬で眠りながらなんとかやり過ごしている状況です。
意識もなく、話しかけてもあまり目を開けることはありません。
緩やかに祖父の介護は終わろうとしています。
ステージはいつも突然に変わるのです。
療養病棟に移ってからの祖父についても、何かの機会で記せたらと思います。
(楠田菜緒子、31歳、夫・娘と共に東京在住で就労中)
1ヶ月後、
ご本人がまとめたnoteを共有頂きました。
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