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年齢とともに閉じていく可能性と戦いつづける力はあるか。
映画はいい。
いま現在この世にはまだ見たことのない面白い映画が沢山眠っていて、間違いなく残りの一生すべてかけてもそれらを観つくすことはできない。事実上の無限だ。
時代によって変化していくところも良い。
もちろんその時代そのものが閉じ込められているなどと無邪気な子供のようには考えていないが、撮影技術だったり、言葉だったり、思想だったり、服装だったりそういうものごとを眺めるタイムマシンの真似事としても映画は最高である。
そうして過去を振り返っている間にも新しい名作は生まれ続け、また、何度でも見返したい映画はまた何度も見返すだろう。
しかも、自分が消費するのは時間と僅かなお金だけという所も特に良い。
永遠に終わらない趣味。
趣味に必要なのは永遠性だと思う。
ゴールが決まっているものにモチベーションを維持するのは難しい。
解明されてしまった手品、結末がわかっている推理小説、新作の出ないミュージシャン、来シーズンで終了するスポーツ。
例えばいつか将棋の最善手が完全に解析されてしまって、先手か後手のどちらかの有利が確定してしまったとしたら、自分の実力とは無関係に興味をうしなってしまうと思う。
永遠や無限に対して、挑み続けたいという気持ちがある。
謎を解き続けていたい。永遠に触れていたい。
その一部でありたい。
そんなわがまま。
ー
年齢を重ねるにつれて、新しいものへの興味が薄れていくことを実感する。
それは、興味をもった瞬間に大体その先どうなるかの想像がついてしまうことと、その全てを楽しむにはもう人生の残り時間も自分の能力の成長も見込めないことがわかっているからだ。
経験が邪魔をする。
興味を持った瞬間に、永続性が失われてしまう。
このあと大体なにが起きるかわかる。
どうやって作られたかがわかる。
ユーザーや観客を、どういう気持ちにしようとしているのかがわかる。
どうせこうなるでしょう、が大体その通りになる。
期待を裏切って欲しい、まったく新しい喜びが欲しい。
もうリメイクもリブートもこりごりだし、モノだったら費用対効果のバランス点を越えた先に、性能以外の装飾性が高まっていくだけで価格がつり上がっていくパターンもうんざりだ。
スポーツもそうだ。
プロの世界の勝利の価値など百も承知だけど、勝つ為に面白さを捨てる試合も見慣れた。
最近だと政治的正しさを主張する運動も、結局60年代からのデジャブか蜃気楼だ。
見覚えのあるスローガン、どこかで聴いたような決まり文句。
そして、それに対するカウンターも想像の域を出ない。
毛沢東語録や我が闘争などのクラシックな過激思想の足元にも及ばない幼稚さも。もう見飽きた。
結局、人生70年程度の人間にできることや生み出せるものにたいした差など無いのかもしれない。
などと思ってしまう。
ーー
そういう、年齢と共に閉じていく好奇心と可能性にどう折り合いを付けて生きていくか。
何歳からはじめても遅いことは無いという。
たしかにそうだが、若くして初めた人たちと同じ目線から物を見ることはない。
若くからはじめた人だけが到達する世界。
それを見ることなく、知ることなく、間違いなく僕は死ぬ。
もったいない。
だったらなにもしない方がいい。
そんな自分を騙して遊んでも良い。
いまから新しいスポーツを始めてみようか。
何かを収集してみようか。
どこかに行ってみようか。
それを楽しめるくらいに高まった頃にはどうなっているだろう。
また、失望する出来事を味わうのではないか。
もう悲しい思いはしたくない。
だったら、昔の楽しかったことだけを味がしなくなるまで噛み続けているほうがましだ。
旅先で出会う人たちも
自分より若い人たちも
老いた人たちも
大体同じようなことを言う。
どこかで聞いたようなことを言う。
きっと僕も、何処かで聞いたような事を話しているのだろう。
このままではいけない。
なにか新しいことを、楽しいことを考えなくちゃいけない。
新しい好奇心にエンジンをかけろ。
戦いは続く。
探すことに、生きることに、飽きるな。
自分への戒め。
おしまい。
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