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窓のチャンネル〜死ぬほどじゃないけど幸せでもない〜

 機械音と点滴の雫。ここの空気は薄い鉛色。上あごに乾燥した舌が張りつく。窓からひまわり畑が見える。音もたてずに重たい頭を振っている。黄金の花びらと黒い種、黄緑色の葉。数千のひまわりが僕を見て首を傾げている。

 こっちを見るな。消え失せろ。どうしてへらへら笑っている。今は冬なんだから。もっと殺風景な風景を見せてくれよ。


 
Blind VIEW ver2.5
風量 小 
気候 穏やかな太陽の日差しの夏
時間 正午

 僕は肌寒くなった腕をさすって長袖を伸ばすつもりで指でまきこんで、にぎりしめる。点滴中じゃなかったら、窓のチャンネルを変えてやるのに。看護師さんはあと三十分も僕に夏の景色を見せたいらしい。

 さっき看護師さんが一度部屋に訪れて点滴のスピードを落としたんだ。針の刺さった腕が冷えてくる。むずむずする悪寒が腕から背中まで広がるようで、寝返りもできない。
 
 ひまわりが突然白くなって消える。代わりに浮かび上がってきたのは、苔むした寺。西日で輪郭が浮き彫りになる一方、遮断された太陽光が神社の屋根でばらばらに飛散する。

風量 中
気候 つむじ風のまき起こる秋の神社
時間 夕刻

 窓のチャンネルは、自動で変わるのか。神社から寺に切り替わる。これは、入院患者さんが高齢者ばかりだからだろうか。秋の京都は好きだけれど。寺と神社ばかりを見に行ったことはない。

 乾いた舌を上あごからのっぺりとはがす。乾燥しきった下唇を舐める。八つ橋が食べたい。名前も思い出したくないあの子。僕を置いていったあの子は、あのときは僕のことをただ無邪気に笑い飛ばす。僕が少ないバイト代を奮発して、京都だからという理由で扇子を買ってあげようとすると、自分で買うからと僕の肩をついて押しのけた。とても、自然な関係だった。

「ねぇ、〇〇元気にしてる?」

 名前は、声に出さない。なんと名付けようか。あの子はもう僕のことなんかちっとも気にかけない。僕のことを何も信じてくれない。どっちが悪かったのかも分からない。

 ただ、点滴が遅い。

 点滴の雫が涙だったらよかったのに。うまく泣く方法ってどうだったっけ? 雫は管をとおって僕に入ってくる。音もなく入ってくる。点滴袋が半分をきった。

 あの子のことを思い浮かべる時間が余りある。汗ばんで張りついた髪を針の刺さっていない方の手でかき分ける。僕の額は熱っぽい。あの子が脳裏に張りついて消えてくれない。目頭を押さえこんでこする。親指が眼球を突いてしまって涙が出る。そうか、痛みってこういうものだったのだろう。

 小鳥のさえずりが聞こえた。スズメでもない聞いたことのない鳥の鳴き声。

 青い花畑。太陽の直射する花畑の遠くに一本の青く生い茂った木が見える。小鳥はあの木にとまっているのだろう。

風量 小
気候 風のない五月晴れ
時間 正午

 いかにも、偽物らしい鳥の声だったな。一面の丸い花弁の青い花。中心は白。淡い青い花。何度聞いても覚えられないその名前。五文字だったかな。まるで、あの子みたいだ。物静かに一面に咲き渡っている。

 観光客一人いない花畑の映像を鳥が滑空するようにカメラが移動していく。窓のチャンネルは意外に能動的で、そのまま太陽に向かって飛んでいく。太陽は熱を感じられない白い太陽光だ。まるで、僕らの未来を揶揄するみたいで病院の映像としては場違いな感じがする。

 僕らは、天国にはいけない。けど、地獄にもいない。

 ここはどこだろうか。額に置いた自分の指が蛍光灯で黒い影を落としている。顔の前の僕の指はすっかりアルコールの類の薬品の臭いがこびりついている。

「△△くんは、どうしてそんなこと言って〇〇のことを困らせるの?」

 悪気もないし、当然のことだった。僕は言葉選びが苦手だから。〇〇のことを困らせる気はまったくなかったんだけど。その些細なことが、積み重なると僕らはいっしょにいられなくなった。

 雨の音。一枚の葉に落ちるガラスのような雫。弾けて消える。もう一粒。飛散した雫の破片は黒土に吸い込まれて消える。

 価値なんてない。僕に価値なんてない。

 頭で呪文のように唱える。僕に価値なんてない。窓のチャンネルの景色が這うように動いて、大木の根を映し出す。苔とひび割れた樹皮の裂け目から双葉の木の芽が生えている。そこに大粒の雫が降ってくる。

 遠くで雷が吼えた。雨傘を広げてうつむいているあの子が見えた気がした。あの子は、もう笑っていないだろう。

 風量 大
 気候 雷雨の森林
 時間 早朝

 雨だというのに日光が横から差している。獣道。川。ここなら旅行客もほとんど足を踏み入れない。スマホの地図アプリにも載っていない。ただ開けた土地。道。

 投げ捨てられているコンビニ袋。ゴミだけはどこにでも行けるんだ。ゴミだけは雨に溶けることもなく存在し続けることができる。

 告白するには最悪の場所だった。彼女の笑顔を見るのにも適していなかった。ただ、誰も来ないというだけの場所。魚がいるかどうかも分からない小川が、ちろちろと音を立てる。

 秋に来ればよかった。紅葉はまだ萌黄色だった。彼女は殺風景な場所での僕の小声をそっと受け入れてくれた。だけど、今はその言葉も思い出せない。

 いや、鮮明に覚えている。走る胸の痛み。僕は、僕に嘘をつく。

 彼女の返事は〇〇〇だったと。

 窓のチャンネルから逃げるように点滴の刺さる腕の方に寝返りを打つ。僕の指はぐっと握りしめられている。ゆっくり人差し指から順に開いていくと、やっぱり消毒液の臭いが香った。

 あの子に僕の病気のことは言えなかった。何も言わないのが正解だ。僕らはもう赤の他人だから。

 今の僕のことをあの子に知ってほしいし、あの子の今を僕も知りたいと思う。

 だけど、僕らはある一点を境に離れ離れになった。獣道がまだ続いているとするならば、僕はあの子に道を譲ったんだ。だから僕は、雨に溶けることのできないコンビニのビニール袋になるしかない。

 点滴がもうすぐ終わりそうだ。僕は、針の付け根の白いテープを疎ましく睨む。一時的な治療。

 全快するわけもない。僕は完治しない。けれど、今すぐ死ぬわけでもない。ずっと向き合わなければいけない。手術は必要ない。だけど、薬は飲まなければならない。

 僕は天国にも地獄にもいない。誰からも同情されない。ただ、ひっそりと病を隠して生きる。

 僕の手は左手だけ小さい。点滴をするからそうなのだろうか。左手だけかばって意識して使わなくなったから。きっと、握力測定をしたら右手と左手で大きな差があるだろう。

 △△くん?

 名前を呼ばれた気がした。振り向いても、窓のチャンネルが色を変えている様子しか見えない。

 車が雨上がりに濡れた道路を揚々と駆けていく。道路の両脇にはオレンジ色のメタセコイア。タイヤの跡を残して落ち葉がアスファルトを埋めている。上り坂のゴールは見えない。カメラも動かない……。

「〇〇ちゃん、□□くんとつき合ってるんだって」

「ええ? じゃあ△△くんは? 嘘、△△くん、まさか〇〇のこと振ったの? 冗談でしょ?」

「ばーか。〇〇ちゃんが振られるわけがないじゃない。〇〇ちゃんが△△くんのことを振ったのよ」

「そうだよねー」

 グラウンドにそびえる、たった一本の大きなメタセコイア。運動会の終わりに聞こえた運動会と関係のない話。だけど、僕には大いに関係のある話だった。

 イベントよりも記憶に残るのはそういう些細な噂話。最後の種目がリレーだったから、僕は息切れをしていた。学年最後の運動会。

 振替休日に遊びに行こうかという友達の誘いや、カラオケの話なんかは耳から入って全部の頭の中から零れ落ちていく。

 □□くんとつき合っている。□□くんのことはよく知っている。家にも遊びに行ったことがある。

 □□くんは、クラスで頭がいい。□□くんは、学級委員にもなったことがある。□□くんは目立ちたがりではないけれど、困ったことならなんでも引き受けてくれる。□□くんなら学年だってまとめられる。□□くんなら……。
 


 風量 中
 気候 雨上がりの秋の空
 時間 正午

 僕は死にたいと思った。

 鈍色の流れる雲と糸を引く雨を映す窓のチャンネル。息を引き取るように映像がフェードアウトする。全ての再生が終わったのだろうか。

 開いた指を握りしめて爪を立てる。手のひらについた爪痕。じわじわと凹んだ跡が元に戻る。一秒、二秒。やっぱりだめだ。時間がかかりすぎている。むくんでいるのだろう。健康状態とは程遠い。

 ふいに、窓の景色が闇に包まれる。滴る水滴、カナリア色のボートの船底を群青色の水面が優しく押し上げる。真っ青に口を開けた洞窟の奥へ奥へといざなわれるボート。飲み込まれないのだろうか。食われてしまわないのだろうか。

 △△くん。

 もう呼ばないで欲しい。

 優△くん。

 〇〇ちゃん。やめてくれ。暗いところは苦手なんだ。青の洞窟なんて嘘っぱちだ。神秘なんて偽物だ。そこに行けるのは選ばれた人だけなんだよ。

 風量 小
 気候 常夏の洞窟
 時間 早朝

「□□くん、前から聞きたかったんだけど」

 言い淀んだ僕に校門前の花壇に咲く、紺《こん》青色《じょういろ》のアサガオが首を傾げている。聞けなかった。□□くんは、僕を変な奴と思っただけだった。僕と〇花ちゃんがつきあっていたことなどは、知っているはずだ。

「あ、思い出した。優△くんからゲーム借りっぱなしだったな」

 陽気な□□くんは、自分が早々にゲームをクリアしたことや僕のゲームに対する感想を求める。僕だって感想が聞きたい。

 □□くんの早口に負かされて結局なにも、聞けなかった。〇花ちゃんのことも。

 〇花ちゃんが今も僕のことについて何か言っていないかどうか、確かめたかった。蝉の声が□也くんの声をかき消していく。

「今度、〇花ちゃんと海に行くんだ。優利くんもいっしょに行くか? 人数は多い方が楽しいだろ?」

 面食らった僕は、片足を半歩下げて、焼けたアスファストの臭いに吐き気を覚えたんだ。文也くんの耳には、僕と〇花ちゃんの噂話がまったく届いていなかった。

 悪寒がしてくしゃみが出た。点滴が揺れた。針が痛いことを思い出す。背中を丸めてカナリア色のボートが奥の闇に消えていくのを見送る。洞窟の天井に反射する光が手招くように踊っている。

 あの奥に行くのか。冒険者がパドルを漕いで消えていく。
 背筋の汗が引いて冷たくなっている。もう冬はこりごりだ。

「点滴終わったかなー? 優利くんのところ」

 看護師さんが見にきてくれた。

「あとちょっとかなー。え、リモコン? 渡すの忘れたね。はい」

 子ども扱いして手渡してくる。看護師さんが去ったので、チャンネルをシャットダウンしようとしてあぶらぎったリモコンのボタンから指を離す。

 樹氷に赤紫の空。雪が降ることの許されない夕焼け。雪の上にくっきり残っているタイヤの跡が凍りついている。

 泣きたいのに泣けない。雪はまだ来ない。西日が氷を焼いている。陽が落ちるまで終わりじゃない。

 風量 中
 気候 寒波の過ぎ去った並木道
 時間 夕刻

「優利くんは、××性××炎です。主に欧米諸国で多い病気ですね」

 医者に告げられたその病名は、ガンなどのような深刻な病名には聞こえなかった。

 だけれど、ひどい人は手術もするそうだ。僕は二ヵ月おきに点滴をするだけで済んでいる。学校に行ける日もあれば、行けない日もある。途中で帰る日も。

 〇花ちゃんと話さなくなって数か月。授業中に我慢できなくなってトイレに駆け込む僕の後ろ姿を見られた。病気は先生にしか知らせていない。〇花ちゃんにはどう思われただろうか。

 次第にトイレに駆け込む頻度が上がる。文也が口火を切って僕を笑った。今まではそんな奴じゃなかったのに。文也はいつの間にか僕と〇花ちゃんが以前つき合っていたことを知っていたんだ。当然か。今まで知らなかったことの方が、おかしかったんだから。

 とうとう、夕焼けの眩しい放課後に先生の方から相談された。病名を知ってもらった方が、クラスのみんなにも理解してもらえるだろうって。僕はしぶしぶ頷いた。

『潰瘍性大腸炎』。

 原因は不明。発症すると、腹痛、下痢、血便、発熱、など様々な症状が現れる。それもいつ起こるか分からない。

 念には念を入れて通学路のトイレの位置を覚えて、トイレの借りられるコンビニも覚えた。だけど、学校では一時間トイレから出られないこともあった。

 〇花ちゃんとの距離が遠くなった気がする。僕はいじめられたわけではない。だけれど、誰も僕に話しかけてはいけないんじゃないだろうか? という目に見えない壁ができた。

 気を使わせているし、気を使われるのは好きじゃない。暗黙のルールだった。

 晴れ渡る空。山の端に雪が残る山脈。それを映し込む湖。湖面は空と同じ透きとおる瑠璃色なのに、湖面の方が淀んで見えるのは何故だろうか。

 あそこに〇花ちゃんがいれば。僕は覗き込まれる湖面の側だろう。いや、〇花ちゃんは僕には気づきもしないで山の小道に沿って歩んでいくのだろう。僕には気づきもしない。
 


 風量 小
 気候 春の高原
 時間 正午

 点滴の残りかす。僕の血が点滴の管を逆流していく。僕の意識が〇花ちゃんのところへ舞い戻っていくみたいに。

 看護師さんは現れない。〇花ちゃんは、今頃学校の帰り道。もう家についたころかな。塾に行く準備をしているかな。〇花ちゃんは塾に行く前に必ずメールをくれた。

「優利くん、行ってくるね。明日は習いごと、何もないから。いっしょにカラオケでも行こ?」

 塾がはじまるのは、三十分後。今日もスマホにメールは来ていないだろう。
 
 点滴が終わったら来ていないことを確認しよう♪

 窓のチャンネルをシャットダウンして無雑作にリモコンを放る。

「美花ちゃんに会いたいな」

 窓のチャンネルを消すと、本物の窓の外の景色が現れる。漆黒の闇に虫も寄らない寒々とした蛍光灯が一本立っているだけ。奥に見えるのは迎えの来ない、置き去りの駐車場。

 誰が僕に決めさせたのかは、分からない。僕は自分の命の短さを自覚している。完治しない病で長生きできるわけがない。

 美花ちゃん。美花ちゃん。美花ちゃん。

 点滴の針を抜いてもらうのがまどろっこしい。

「ねぇ、看護師さん。お母さんの迎えはいらないから。だいぶよくなったし、自分でタクシーで家まで帰るよ。だって、ほら、いつも何かあったときのためにね。学校にも一万円を持っていってるんだ。みんなには内緒だけど、先生は知っている」

 窓のチャンネルには感謝しないと。だって、あんなくだらない映像で僕を満足させられるとでも思っているの? 世界は春も過ぎ、夏に焼かれ、秋を感じる間もなく冬に凍死をむかえた。

 ガウンを羽織って裸足で駆ける。あ、スリッパを忘れた。点滴をしたから、この後にお腹が痛くなることはしばらくないだろう。行くなら今しかない。

 病院の前で待機しているタクシーに乗車する。ろくに服も着替えて来なかったので、病人の姿丸出しのパジャマ姿。え、家に帰るんだよ運転手さん。嘘ついているように見えるのかな。だとしたらすごい洞察力。正解。でも、塾に着くか家に着くかなんて、運転手さんには分かりっこない。

 点滴の針の後に貼られたテープをさする。

 ねえ、美花ちゃん。君には何色の窓が見えるの? 僕には全部、夜の闇しか見えなかったよ?

 美花ちゃんが塾の前で裸足でパジャマ姿で立っている僕を見て、はっと息を飲む。

「優利くん……」

 今まで僕のことを名前ですら呼んでくれなくなっていたのに。

 僕は近づく。塾のかばんを下げたその腕を掴んで引き寄せる。持ってきた包丁でめった刺しにする。そのあと、首を絞めてみる。そのあと、血まみれの身体を抱きしめてみる。

 お腹が痛くなってきた。僕もこの帰りに血便をぶちまけるのだろう。かまわない。美花ちゃんは僕を恨めしそうに見上げている。半開きの口が苦しそうに呻いて、文也くんの名を呼んだ。

 僕の名前じゃなかった。僕ではない。僕は、ここにいない。△△は、ここにいない。僕は誰? 

 △△? 僕は△△なのか?


「起きて優利くん。もう点滴終わってるよ」

 看護師さんの声は日だまりの小鳥のようで、目を覚ますには少し耳障りだった。

 窓の外の、本物の景色は相変わらず、夕方の五時だというのに真っ暗だ。窓は空いていないが、冷気が部屋に染み渡るようだった。

 治療室を出ると、お母さんがそそくさと財布を取り出して今回かかるであろう治療費の工面をしている。その万札の一つを借りてタクシーに乗ろうなんて考えはあっけなく吹き飛んだ。

「ほら、今日は入院しなくて済んだんだから、靴を履き替えて」

 手渡された運動靴にスリッパから履き替える。当然、僕はパジャマなんかじゃない。だけど、会計に呼ばれて席を立ったお母さんの手提げ袋に、パジャマが入っている。

 入院していたかもしれない。この次に病院にきたときには、手術を言い渡されるかもしれない。

 とてもじゃないけど、美花ちゃんを追いかけて塾に乗り込むほどの度胸はない。

 手提げ袋に僕のスマホも入っていた。やはり今日もメールはない。

 画面の窓に、〇〇ちゃんと遠い日の△△くんが並んで笑っているだけだ。


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