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短編小説 汝は罪深い飼い主だ。猫の我が同じ目に合わせてくれよう。

 僕の腕に噛みついたそいつは、いやらしく血で染まった黒い唇を舐めた。

 「罪深い者の血はどの年代物のワインよりも濃厚だ」

 肉をえぐられた腕を押さえて僕は絶叫しながら駆け出すしかなかった。しかし、ここは人通りのすくない夜の公園だ。

 「ハハハ逃げきれると思っているのか?」

 二足歩行で忍び寄るそいつは黒いたてがみを風になびかせながら、優雅に歩いてくる。虎のような顔をしているがスーツを着ていた。

 全速力で走っているにもかかわらず、距離を離せない。突然、後ろにいたはずの化け物が目と鼻の先に現われた。急には止まれない! あえなく化け物の懐に飛び込んでしまう。


 「僕が何をしたって言うんだ! 罪ってなんだよ!」


 もがく僕の腕をねじり上げ、化け物は優しく語りかけてきた。

 「汝は罪深い。我を裏切った」

 金色の眼光が僕を見据える。黒い毛だらけの腕が僕を抱きかかえた。

 「や、やめろ! 何も知らない! 何のことだよ!」


 化け物が腕を振り上げる。指の先には鋭い爪が光っている!

 「やめろおぉぉぉぉぉぉ!」

 絶叫する僕の頭に、その腕は優しく乗っただけだった。髪を撫でている?

 「まさか怖いとは言うまい? 死を? その罪深き命で、まだ生を願うつもりか?」

 化け物はほくそ笑んで、息をするのも忘れていた僕の頬を舐めた。僕は身震いした。ただ恐怖したのではない。化け物の伸ばした真っ赤な舌の裏に、ハートのようなあざが見えた。

 「シモン・・・・・・か?」

 一年前飼っていた猫は、舌の裏にちょうど今のようなあざがあった。

 猫が化けて出たって言うのか? 信じられない! スーツを着て? いやシモンは几帳面な猫だったが、でも――。


 それでも化けて出られたらたまらない! だってあいつは、僕が瀕死の怪我を負わせ、放置したために死んでしまったのだから。

 「やっと思い出したようだな」

 「悪かったよ、あのときは、受験でイラついてたんだ! 僕って煮詰まると、ストレスの発散の仕方が分からなくなるんだ!」

 自分でも言い訳じみていて説得力がなかった。シモンは汗が絶え間なく流れている僕の首筋ばかりを見つめている。

 「汝の恐怖は手に取るように分かる。我がうなじに噛みつけば、汝は身に余る苦痛の叫びをあげるであろう」

 シモンは、僕の喉をあやすように撫でた。

 「懺悔(ざんげ)の時間だ。許しを請うがいい」

 すがりつきたい思いが線香のように灯った。

 「許してくれるのか?」
 「罪の告白を」

 僕はためらいがちに重い口を開いた。

 「殴って悪かったよ」

 見下したような視線でシモンはささやいた。

 「はじめからだ」

 僕は睨み返した。このままではこいつの言いなりだ。

 「ライターで背中の毛を焼き切ったことは謝るよ」

 シモンは優しい眼差しで僕の背を包み込んだ。

 「その通り」

 思わせぶりな口調が耳元をくすぐった瞬間、シモンの腕から力が伝わり僕は悲鳴を上げた。焼ける! いや、鋭い痛みがいくつも背中を駆け降りた。腰まで熱い血が伝い落ちるのを感じる。服ごと爪で引き裂きやがった!

 「さぁ、次は?」

 息も絶え絶えに僕は訴えた。

 「か、勘弁して・・・・・・よ。反省してたんだよ。悔やんでたんだ」

 シモンは繰り返すばかり。

 「次は?」

 僕は溜息まじりにつぶやいた。

 「殴ったよ」

 その瞬間、僕も怒りの限界に達した。こっちから先に殴りかかったら、健康な方の腕の肉も引きちぎられた。わけのわからない奇声を上げる。痛みが炎のように感じられる。容赦なく噴出する血が、僕を狂った叫びへと導く。

 「許してくれ! 頼むよ!」
 「その次は?」

 シモンは僕に悪戯のつもりだった遊戯を全て吐かせたいらしい。吐き捨てるように僕は怒鳴った。いっそ、殺してもらえた方が楽だ!

 「蹴ったよ。カッターでひげも剃ってやったし、尻尾だって踏んでやったさ!」

 満ちるような笑みを浮かべたシモンは、白い骨が見えている僕の腕をつかんで、まだ出血の止まらない傷口に唇を押し当てた。悲鳴にならない言葉を口走る僕を横目に、シモンは一言「とても美味」と微笑んだ。

 「僕の命が欲しいんなら、殺せばいいだろ」

 ろれつが回っていなかった。痛みに耐えきれず膝をついた僕をしげしげと眺めるシモンは、ごろごろと猫が喜ぶときの音を立てた。

 「この程度とは。楽しみがいがないではないか」

 うつろな目をした僕の顔を押し上げて、シモンは呪いのような言葉を吐いた。

 「殺してやろうとは思わぬ。汝は生きたいのだろう?」

 僕は頭を金づちで殴られたような気がした。全身が金縛りにでもあったように動かない。だけど、膝だけが小刻みに震えている。

 「・・・・・・だ・・・・・・ぃやだ・・・・・・」

 全身を引きずるようにして僕は逃げ出した。しかし、二歩も踏み出す前に、背中を踏まれた。

 「罪は償うものだ」

 「もう十分だろ!」


 泣き叫んだ僕の声は、母の声にかき消された。

 「イサム? たまには勉強ばかりしてないでシモンと遊んであげたら?」
 家の中だ。僕は横になっていた。

 「イサム? どこなの?」

 なんだ、夢か? 随分疲れた。全身がだるい。悪夢にしては相当酷いな。

 母に返事をして声が出ないことに気づいた。

 「いるよ」

 後ろで僕の声がして振り返った。僕がいる。どういうことだ? 僕がもう一人?


 僕は母にどうなってるか事情を聞こうとした。しかし、不思議なことに聞こえたのは自分の声ではなく猫の鳴き声。

 「ほら、シモンが鳴いてるわよ」
 「そうだね。たまには遊んであげないとね」

 もう一人の僕は、酷く優しい表情をして、僕の顎を撫でつけた。その目の奥に、金色に光る闇が見えた。


 僕の身体をしているが、中身はシモンだ! 


 悪寒で、逆立つ僕の毛を愛おしいげに包んで、僕は僕に抱き上げられる。

 僕の姿をしたシモンに抱えられて家を出るとき、玄関に飾っていたカレンダーが目に入った。今日は、シモンが死んだ日だ。


あとがき

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