『誄歌』 (ヴィジュアル系小説)
【あらすじ】
伝説のヴィジュアル系バンドの解散から十年。バンドブームは去り、V系シーンも下火となっていた。
ロックスターになる夢とベースしかなかったぼく(日和)に転機が訪れたのはスタジオに張り出されていた一枚のメン募チラシ。やがてVo.の瑠衣とGt.の颯斗に出逢う。そこにDr.の忍を入れて、HEAVEN'S MONSTER(ヘブモン)を結成。
平成生まれのぼくらはどんなロックを描いて行けるだろうか。だが、順調に活動して来たバンドは瑠衣に起こった異変によって形を変えてしまう。散り散りになったメンバーは数奇な運命を辿る。
最後にメンバーが見た景色とは––––。V系を生き抜く若者の葛藤と苦悩、そして希望を描く。
【その一】
入学したばかりの大学に馴染めずにいる。割と浮いてもいる。流行りとはおそらく逆行している。なぜなら、ヴィジュアル系だからだ。いや、実は風貌だけ。ベースはまだ始めたばかりで、やっと数曲コピー出来たところ。それでも今に見ていろと、魂だけは震えている。
初期衝動は高校生も終わりに近付いた頃。孤独な当夜。先も見えず、やりたいこともわかない夜闇の中で、ただ自分の時間だけが止まっているようだった。また、何もない明日が来るのを待つだけ。
ベッドに入る前に気になっていたあの曲でも聴いてみよう。そう思い立って、ぼくは電気も点けず、リビングのデスクトップのパソコンの前に坐った。YouTubeでバンド名を検索して、一番上に出て来たサムネをクリックする。
伝説のヴィジュアル系バンドの解散ラストライブ––––。ほの暗い静寂の中で歓声とともに聞こえてきた音と映像にぼくは一瞬で引き込まれた。泣きながら演奏するメンバー。泣きながら絶叫する観客。流れてくる旋律と悲鳴。
〝なんだ、この映像〟
体躯の中で何かが弾け、壊れ、頭のてっぺんから爪先まで雷に打たれたような電流が走った。底から熱くなる感覚。真夜中だというのに耳に入る音、目に映る映像、すべてに興奮した。
動画をリピートしたい気持ちを抑え、もうひとつの動画をクリックした。
バラード曲のPV。雨中で演奏するメンバーが映し出されている。最初に綺麗なピアノの旋律とベースの音が絡み合い、やがてギターのアルペジオに、ヴォーカルの繊細だが力強い歌が乗っかる。
曲の中盤に差しかかった時、ツインギターのハモリの中で、ぼくの心身はさらに別世界へと連れて行かれた。
今まで観たことのない異様な世界観。これがロックへの初期衝動というやつだった。
初めて認識したエレキギターとベースの音。歌といえば、歌い手ばかりが取り上げられるが、その横で粛々と、時に派手な動きで主張するギタリストやベーシストがこんなにも眩いものなのだということを初めて知った。音楽を美しいものだと認識したこと自体、初めての体験だった。
あんな音に包まれて舞台の上に立ってみたい。ぼくはようやく自分の生き方を知った気分だった。
仮に音楽産業が壊滅し、世界中が廃墟と化しても、きっとこの五人の音が脳内で再生されれば、ぼくは生きて行ける。その物の音には、病んでいた心が救済されていくような感覚すらあった。
何度も曲をリピートしながら、Wikipediaでバンドの経歴を調べた。夢中になって文字を追った。壮大な物語と人間模様は、まるで小説を読み終えた時と同じ感覚をもたらした。
そのバンドの解散とともにバンドブームと呼ばれた時代は去り、ヴィジュアル系シーンも一区切りとなった。ぼくが衝撃を受けたのは、そこから十年後にある未来。
これかもしれない。そう思った。いや、これしかない。ぼくの心は俄かに情念の炎を燃やし始めていた。
あの人たちのようになりたいというよりは、あの人たちそのものになりたいという感覚に近かった。そして、天に召されたロックスターに逢える唯一の手段は、自分がその領域まで行くことだと思った。そこで逢えると迷いなく信じることができた。
それからは受験などおざなりに、適当に選んだ大学を適当に受験した。もともと大学に行く気なんてなかったが、超が付くほどの学歴主義の父親に押し付けられる形で渋々試験を受けた。中学に入学したあたりから、大学を出なければ人間じゃないと言わんばかりの教育方針に激しい嫌悪を抱いていた。受験中は、大学に入ったらバンドをやるという希望だけがぼくを支えてくれていた。
本当はギタリストへの憧れから、ギターをやってみたかったが、今から始めるならベースだと直感で決めた。もうひとつ理由もあった。
「ベースって目立たないし、地味でパッとしないよね」
「ベースの音ってどれだかよくわからない」
そんな固定観念を真っ逆さまから覆したベーシストが日本にいることをあの動画で知ったからだ。ベーシストがベーシストたる概念を超えた瞬間を観た気がした。
進学先が決まると、ぼくは早速、高校卒業と大学進学で親戚から貰った祝金を握り締め、楽器屋へ向かった。
あらかじめ店のホームページで見て決めていた黒のプレベタイプのベース、三万円。五千円のアイバニーズのアンプと、ベース入門と題された教本も購うとギリギリだった金はすべて使い切った。
これで準備万端––––のはずだった。が、現実は思い描いた生活とは違う。なぜ自分がここにいるのかわからない。意味を見出せずにいる。それだけではない。無いなら作り出せば良いはずの意味を作り出す気さえ起きない。無気力と虚飾が入り乱れた虚空だけがそこには存在している。
このまま四年間を大学で過ごし、社会に出て行く自分を想像しただけで世の中に希望なんてなかった。ロックがしたいのだ。それは単に音楽だけの話だけではなく、生活も含めての話だ。
長い髪を派手な茶色で染め上げ、爪は黒くネイルを施してある。これがひとつの矜持だ。しかし体に穴を開けるのだけはどうしても恐くてピアスだけはしていない。トモダチなど、いない。
大学の軽音部も覗いてみた。男女が入り混じり、楽しそうに音楽を奏でて青春を謳歌していたが、自分にこの雰囲気は耐えられないと悟った。あくまでヴィジュアル系バンドがやりたいのだ。メイクを施すことだけは譲れない。爽やかなポップ路線でもない。
何より、自分より上手い彼らの演奏技術に劣等感も覚えた。
「絶対、あいつらより上手くなってやろう」
嫉妬混じりにそう思えたことだけが唯一の収穫だったのかもしれない。
メンバーを集めるには、どうすればいいのだろう。ライブハウスに行くべきなのだろうか。そこで出逢いがあって、前へ進めるのだろうか。憧れたロックスターたちはそんなふうにして巡り合ったとネットで読み、単純な思考回路で自分もそうなったら良いなと思った。
でもそんな簡単に行くのだろうか。然りとてその前にぼくが行かなければならないのはライブハウスではなく、バイトだった。個人経営の小体なレストランで、夕方から夜の店仕舞いまでシフトが入っている。
考えただけで憂鬱だった。またあの高飛車な女子大生と同じシフトだと思うと行きたくなくなる。立場は同じバイトのくせに妙な責任感を持っていて、いちいち先輩面してくるのがどうも腹に据えかねる。指示を出すことに優越感を覚え、勘違いした正義感に燃えて満足しているようなやつなのだ。
おまけにローライズのデニムなんぞ履いて来るから、彼女がしゃがむと汚い半ケツとパンツを見せつけられる。あんなブスな女のそれなんぞ見たくもないのに。
掃除から始まり、ホールでの接客、皿洗い、ドリンク作り。そつなくこなせるわけではない。むしろ出勤するたびに自分が社会不適合者であることを思い知らされ、自覚する。
何より環境が嫌になってくる。いつもそうだ。自分で決めたはずなのに、いつも後悔する。でも本当は後悔しているだけマシなのかもしれない。ある意味、やる前からわかりきっていた答えに出逢えたのだから。
「やらない後悔よりも、やって後悔」と誰かが言っていた結果がこれだ。
「このレモネードはアイスもあるの?」
「いや、レモネードはアイスじゃなくて、飲み物です」
なんだ、このおばさん。メニュー表にDrinkって書いてあんだろ。心の中でぼやきながら答えた。
「いや、ア・イ・ス」
「いや、だからこれはアイスじゃなくて飲み物です」
「ホット、アイスのアイスよ! 冷たい方があるのかって聞いてるの!」
しびれを切らせた貴婦人の声が店内に響く。甲高い声は耳をつんざく。静まり返った店内で、ぼくらの方に視線が集まる。妙に気取った貴婦人はそれに気付き、赤面している。
「あっ、そっちですか。大変失礼しました。ありますよ」
冷静に答え、そのまま厨房に向かうとオーナーシェフに呼ばれた。
「おーい、日和。てめぇ、コントやってんじゃねぇんだぞ!」
「あーはい、すみません」
「ったく、しっかりしろよ!」
くっそ。絶対ロックスターになってやる。絶対ロックスターになってやる。絶対ロックスターになってやる。そう何度も、何度も、何度も心中でつぶやきながら、皿を何枚洗ったかわからない。
月末に初めての給料が入った。少ない。手渡しで支給された給料袋を握り締め、ぼくは現実から逃避するように、ライブハウスに向かった。誘えるようなトモダチもいないので、もちろん一人だ。近くのライブハウスを検索して、あらかじめライブの日程を調べておいた。
日頃の鬱憤を晴らすべく、そのまま直行して半ば衝動的に来てみたものの、いざライブハウスを目の当たりにすると、その雰囲気に怖気付いてしまう。
おずおずチケットを買い、ドリンクのコーラを受け取って後ろの方でじっと固まった。開演前の薄暗さが余計に気まずさを演出しているようだった。観客はまばらだったが、気のせいか周囲の視線を感じる。いや、きっと気のせいだろう。
やがて一組目のバンドが演奏を始め、その後も立て続けに、対バン形式でいろんなバンドが出てきては、爆音をかき鳴らす。ヴィジュアル系のようなコッテリしたバンドではなく、爽やかさを意識したバンドばかりだった。
すべてのバンドを観終え、耳がキーンとなったまま家路に着いた。いわゆる「耳キン」を初めて体験した。この音は治るのだろうか、と不安になったが、それ以上に早く自分もあそこに立ちたいという思いが足取りを早くさせた。早く、早く、早く。一刻も早くベースに触らなければ、この興奮は収まらない。
部屋に入るなり、ぼくはすぐさまベースを手に取って、チューニングを確かめた。夜深。アンプには繋げない。ノートパソコンから消音でコピーしたバンドの曲を流す。
それに合わせて、四本の弦を弾く。まるでステージに上がったかのようにそれは続く。ぼくの目の前は見えない観客で埋め尽くされていた。観客の一人一人が舞台に向かって熱中し、拳を挙げている。
音の中に入り込むその一瞬。まるで違う自分になったかのように、まるで深い眠りから覚めたように、あるいは水を得た魚のように、渇いた大地を潤して行く。その瞬間だけ、すべてから解放される。屍のような日常が吹き飛んで行く。
たった一人の無観客ライブを夜通し朝まで続けた。もっといろんな曲が弾けるようになりたい。その欲を加速させながら、果てはもっと大きなアンプで演奏したいという欲動にも駆られていた。
翌る日、早速ネットで調べて、行ける距離のリハーサルスタジオをいくつか探して絞り込んだ。ホームページで見た雰囲気で選び、ベースを入れたソフトケースを担いで家を出た。
初めてのスタジオなので、当然勝手はよくわからなかった。ぼくはおずおず受付で訊ねた。
「個人練習なんですけど、空いてますか」
「個人練ね。時間は?」
受付の如何にもバンドマンといった厳つい風貌の店員が答える。見た目とは裏腹に物腰は柔らかく、内心ホッとした。
「あっ、とりあえず一時間で」
「ちょっと待ってね」
店員はパソコンを見ながらマウスを動かした。
「あっ、このHの部屋なら空いてるよ」
料金は五百円。
「あの、アンプの使い方とか教えてもらえたりしますか」
「了解。じゃあちょっと待ってて」
十分後、鏡張りの部屋に案内された。ミキサーの説明も同時に受け、早速音楽プレーヤーを繋げて音を出す。これでコピーした曲を轟音で弾くことができる。
ズシン。初めて大きなアンプから出す物の音はまるで魂ごと持って行かれるような振動だった。
その振動に呼応するようにアンプのつまみを回し、さらに音量を上げる。ミキサーを通してスピーカーから流れる音と交差しながら演奏する。
当然、家の12Wのアンプとは違った迫力。まるでそのバンドの一員になれたような、憧れているベーシストそのものになれたような、そんな一体感の中でひたぶるに弦を弾く。ピックを持つ親指と食指の振動が心地良い。たった四曲のコピーをひたすら反復する。
〝これだ。これなんだ。これだけなんだ。求めているものは〟
ひとつひとつの音を確かめながら、時には運指を間違えながら、ぼくは鏡に映る自分と対話した。一時間なんてあっという間だった。
翌日、大学に行っても興奮は治まらなかった。講義はなるべく後方の端っこに坐り、ベースの教本を眺める。八ビート、十六ビート。三連符。片耳にこっそりイヤホンを繋ぎ、確かめる。
講義が終わると、いつも駅前の楽器屋に向かう。そこでロック関連の雑誌やバンドスコアを立ち読みする。
店員に疎ましく思われても気にしない。それがロックだからだ。
その後は壁からかけられているギターやベース、そこらのエフェクターを眺める。買える余裕もないので、ただ眺めるだけ。どんな音がするのだろう。肩らからベースをかけた自分の姿を想像するだけで胸が躍った。
唯一頻繁に買えるのは百円のピック。お陰で自分にしっくりくるピックだけはすぐに気付けた。
バイトのない日は少ない給料をやり繰りしながら、スタジオに通い続けた。しかし、待合室の雰囲気には一向に慣れない。厳ついバンドマンたち、そうでなく爽やかな人たち、いずれも数人の塊でテーブル席を占拠して談笑している。
本当はそういうところから交流が生まれるのだろうが、ぼくにはハードルが高い。そもそれが出来ていれば大学でもとっくにトモダチを作っているだろう。
そんな気まずい待ち時間を避けるために事前に電話して予約を入れることを覚えてしまったものだから、行ってすぐに部屋に入り、二時間弾き通す。練習を終えると憮然たる思いでスタジオの廊下に貼り出されているメンバー募集のチラシを眺めて帰るというありさまだった。
ため息を吐くと幸せが逃げるというが、逆だと思っていた。不幸せな時に出るのだから、むしろ不幸を逃がしているものだと前向きにとらえていた。だが、実際に暗くなっている今時分、このため息は負の象徴でしかない。
本当にバンドなんて組めるのだろうか。ここのスタジオに通うかぎり、ヴィジュアル系の人口はそう多くない。むしろ少ない。いや、ほぼいない。心持ちと先行きの不透明さが見事に比例している。
それでも今の自分に出来ることは、もっとベースの腕を上げることだ。それだけは間違いない。〝その時〟が来るまでは技術の向上に努めるべきだと自分自身に言い聞かせた。
家に帰ると自室に引きこもり、コピーに勤しむ。いつかこの暗い部屋から大きな舞台に上がれることを夢見て、ひたぶるに。
スタジオのメン募のチラシは、ほとんどが白い紙に黒い文字でメンバー募集と書いてある。しかし、どうにも気になるものがここ最近、一枚貼り出された。明らかに一線を画すそのデザインにぼくの視線は釘付けになっていた。
黒い下地に白い文字。周りとは真逆の色合いは違いをもろに強調したもので、他との共存、他人と同じ思考であることを拒否しているかのような主張がじわじわと伝わってくる。
しかも、ベース、ドラム募集と書いてある。めずらしくヴィジュアル系のメン募で、募集をかけているのはどうやらヴォーカルとギターの二人らしい。連絡先も書いてある。
さらに「人物重視。下手くそでも良いので応募待ってます。不協和音上等!」と記してあった。
ところが連絡するのは物凄く勇気のいる作業だ。下手でも良いと謳ってはいるものの、相手がもしめちゃくちゃ上手かったらどうしよう。バンド活動への憧憬よりも目の前の恐怖が勝ってしまう。スタジオに来るたびにそのメン募の前で立ち尽くすだけの日々が続いた。
何度かヴィジュアル系のバンドマンたちとすれ違うものの、とても仲良くなれそうには思えなかった。見た目はそう変わらないはずの人種が敵にすら見えてしまうことさえあった。ところが、転機は突如訪れた。
「君もヴィジュアル系だよね。そのメン募気になる?」
いつものように貼り紙の前で立ち尽くしていたぼくは声の方へ振り返った。金髪で綺麗に巻かれた長髪。如何にも「ヴィジュアル系のバンドマンです」という風貌を誇示する青年が立っていた。
その横にはこれまた派手な茶髪で、ぼくよりも更に長い髪をなびかせギターを背負っている人物がもう一人。思いがけない情況に少々戸惑っていると、今度はギターの方が話しかけてきた。
「それ、ベースだろ? 君いつも一人で来てるよね」
「あ、うん」
「いくつ?」
「じゅ、十八です」
動揺を隠せなかったぼくは、タメ語と敬語での返答が入り混じった。
「おっ、同じじゃん!」
言われたが、彼らの風格は年上に見えた。すると金髪のくるくる頭の方が、
「それ、俺らのメン募なんだ。君は一人なの?」
「えっ、あっ、うん」
「じゃあ良かったら俺たちの練習覗いていかない?」
「えぇっ!?」
動揺が先に来たが、これは絶好の機会だ。そこで自信をなくしても、小さな矜持をズタボロにされても、何があろうとも、覗くだけなら大丈夫だろう。そう思いぼくは彼らの提案に乗った。
部屋に入ると、ぼくの好奇心は不安と緊張を上回っていた。どんな練習をするのだろう。もうオリジナル曲をやっているのだろうか。どんなバンドが好きなのだろう。どんな音楽性なのだろう。
何より、どんな人たちなのだろう。彼らの準備を目で追いながら、一人そわそわしていると、
「曲流しながらコピーした曲やるんだけど、もし弾けるのがあったら一緒に音出そうぜ」
ギターをソフトケースから取り出しながら、ギタリストが声をかけてくれた。
そのギターの形は、ぼくが大好きなギタリストと同じモッキンバードだった。もしかしたら––––。音楽性が合致するかもしれない。ぼくの心は俄かにざわめき始めた。
ヴィジュアル系とは一口に言っても、ぼくは当節メジャーで活動しているバンドには疎く、好きなのは化粧バンド全盛期だった八十年代、九十年代。就中、ヴィジュアル系バンドが数々の伝説を打ち立てた後者の方だ。
誘いに促され、ぼくはソフトケースからベースを取り出した。シールドをジャックへと差し込み、アンプのつまみを回しながら自分の音に近付け、彼らが促してくれた丸椅子に坐った。
「じゃあ行くぞー」
ギタリストがミキサーに繋いだiPodを操作した。
スピーカーから流れる聞き覚えのある序奏は、瞬時にぼくの聴覚を敏感に刺戟し、脳に伝えた。ベースを手にしたぼくが一番最初にコピーした曲だった。
思わず反射的に椅子から立ち上がったぼくを彼らは一瞥した。下手くそがバレたらどうしようと考える前に身体が勝手に動いていた。
引くんじゃない。弾くのだ。ここで弾かなければもう二度と機会はないかもしれない。後悔する前にぼくは弦を弾いた。
お互い名前も知らない、何も知らない者同士のセッションが始まった。スピーカーから流れるドラムの音を聴きながらベースを弾く。
そこにマーシャルアンプから繰り出されるギターの歪んだ音が心地良く被さり、ヴォーカルの綺麗な歌声が乗る。
得体の知れない快感。ぼくはどこの誰ともわからないふたりと思いっきり会話をしているようだった。いや、間違いなくしていた。一人で弾いていた時とは違う。
これが人と合わせるということなのか。初めて誰かに自分の存在を訴えている気さえした。
五分弱の曲が終わると、ぼくらは静かに興奮していた。
「良いじゃん。君なかなか弾けるじゃん」
昂る口調でギタリストは言った。
「やっぱベースの音があると違うな」
ヴォーカルも嬉々としていた。
「君、名前は!?」
二人は同時に訊ねてきた。
「日和」
「俺は瑠衣」
「俺は颯斗」
ヴォーカルが瑠衣、ギターが颯斗。
「ロックスターになるためにこの街に乗り込んで来たんだ」
颯斗は言った。
「えっと、日和は大学生かなんか?」
訊ねてきた瑠衣の問いに、うん、と頷いた。
「そうなんだ。文系? それとも理系?」
「一応、文系だよ」
「俺はV系。なんちゃって」
舌を出して戯けた瑠衣はきっとこれが言いたかったのだろう。その諧謔に不覚にも笑ってしまった。初めてぼくが笑うと、瑠衣も颯斗も表情を綻ばせた。
ぼくらは好きなバンドが一緒だった。世代ではないのに共通のバンドを好きなっていた。これがバンドでいうところの運命の出逢いというものなのか。
だが、そんな所期とは裏腹にその後は何とか弾ける曲をかろうじて合わせたものの、ぼくは自分の実力不足を痛感した。それでも彼らは一緒にバンドをやろうと誘ってくれた。
「いや、でも二人の足を引っ張るんじゃ––––。せめてもっと上手くなってから考えさせて欲しい」
「いや、待たない。実力より、一緒に夢を見られそうかどうかだ」
颯斗は言い切った。
「そうだ。一曲目に感じた『何か』があった。それを信じるのも悪くねぇじゃん」
瑠衣も重ねるように言った。
それなのにぼくは決めきれない性格が災いし、二人の誘いを保留にした。
翌日、ぼくは朝から大学の講義に出席していた。どうしようか。あの二人とならやってみたい気持ちはある。
でも、でも、でも。「でも」の先にいろいろと理由を付けてしまう。本当はもう決まっているのに、心のままに動けない。だから余計にあの二人が羨ましくもあった。高校を卒業して進学するでもなく、ヴィジュアル系一本で勝負すると迷いなく決められた彼らが。ぼくのように流されて生きているのとは違う。同じ年齢なのに、違う人生を歩き、違う視点から景色を観ている。
確かに彼らは二人だったからそう迷いなく決められたのかもしれない。一人のぼくとは違う点もまた羨しかった。
半日そんなことばかりを考えていたぼくは講義など上の空で、答えの出ないまま食堂で一人昼食を取ることにした。
いつもなら構内のコンビニで買ってどこか空いている教室で済ませるのだが、今日はなぜだか静かな場所で考え事をしたくなかった。
コンビニの食事に飽きたのもある。たまには日替わり定食を食べたかったのもある。それが本当の理由なのだ。
そんな自分の気持ちを直視せず、前者のような理由付けをしているに過ぎない。それは昨日の一件もそうだ。
賑々しい食堂の中で、淡々と箸を進めた。早く食べ終えて、この場から去ろう。まるでスタジオの待合室と同じような空間だ。自分だけが一人の世界に取り残されたような、あの感覚。違うのは目的があってベースという武器を持っているスタジオと、翻って何の武器も持たず、ただいるだけの大学。
本当はそんな世界を変えてくれるような出来事を待っている。どこかで現実をガラッと変える出来事が突然に起こることを期待している。
それが、こんなに早く、思いも寄らない場所で訪れるとは思いもしなかった。
突如、食堂内がざわつき始めた。
「あんなやつら、大学にいたっけ?」
方々からそんな声が聞こえてくる。周囲の視線の先に目線を移したぼくは瞠目した。ステージばりの衣装にメイク。くるくると巻かれた髪は派手に盛られている。煌びやかな風貌は人目を一気に引き付けた。思わぬ光景にぼくは飲みかけていた水を少しだけ吹き出した。鼻に入ってツンとしたが、今はそれどころじゃない。
昨日とは違う完璧な姿は眩いオーラすら放っていた。背負っているギターは昨日より厚みがあるので、恐らくアコギだ。二人は誰かを探していた。無論、それが自分であることをぼくは瞬時に理解していた。
「おっ、いたいた」
颯斗と目があった。
そして、ぼくに気付いた瑠衣が大声で叫ぶ。
「一人で寂しそうに飯食ってる日和くーん」
ヴォーカリストである彼の声はよく通る。ぼくは恥ずかしさのあまり咄嗟に目を逸らした。彼らが一歩一歩近付いて来るたびに心臓がどくどく早鐘を打つ。
「あいつの知り合いか?」
ざわついた食堂内の視線が一気にぼくへと集まった。二人が来る前に急いで食器を戻して移動しよう。そう思ったのも束の間。
「よー、一人で寂しく飯か」
颯斗の声もギターばりに大きい。
俯きながら顔を背けたぼくが次に聞いたのは、耳を疑うような言葉だった。
「今からこのキャンパスの銅像の前で弾き語りのライブやりまーす」
颯斗が叫び、続いて瑠衣が、
「みんな良かったら観に来てねー」
食堂内の学生たちに向かって叫んだ。
「じゃあ日和、待ってるぜ」
ぼくの肩を叩いた颯斗は、瑠衣とスタスタ去って行った。
あろうことか大学に乗り込み、堂々とゲリラライブの告知。呆然とする間もなく、ぼくは急いで食器を片付け彼らの後を追った。
宣言された場所まで走って行くと、颯斗はアコギをチューニングしていた。瑠衣は持っていたケースの中からマイクを取り出し、小さなスピーカーに繋げている。大半の学生たちは横目で通り過ぎて行く。食堂から来た興味本位の学生たちもいて、嘲笑を浮かべながら立ち止まっていた。
ジャカジャーン。アコギの音が外気を切り裂く。まるでアウェーを一気に吹き飛ばすような音速だった。颯斗は四つのコードを奏でると、瑠衣と目を合わせた。それが始めの合図だということはぼくにもわかった。
颯斗のギターに瑠衣の歌声が乗る。知らない曲だった。多分、オリジナルだろう。それが尚更学生たちの嘲笑を買っている。でも、その演奏は他の誰でもない。たった一人、ぼくのためだけに向けられている。ぼくは演奏する二人を見つめながら覚った。
〝いつもそうだ。これが出来たらやろう。これが上手く行ってからにしよう。そうやって先延ばしにするか、待っているだけの人生。そんな生活から引っ張り出してくれるのは、きっとこの二人だ〟
音のひとつひとつが胸に突き刺さる。必死に演奏する二人を観てぼくは決心した。この二人と思いっきりバンドをやろう。この気持ちに賭けてみよう。
二人は誰に遠慮することなく演奏を続けた。やがて大学の教職員たちが駆け付けて止めに入ったが、意に介さず演奏はギリギリまで続けられた。たった一人、ぼくのために。ぼくのためだけ、に。
やがて演奏を完全に止められると、人だかりも去って行いった。その瞬間がスローモーションのように映った。
「いやー、初めての割りに上手くいったな」
颯斗はアコギを肩から外しながら微笑んだ。
「まさか、初ライブが大学のキャンパスになるとはなー。本当はライブハウスでもっと観客に囲まれた初陣になる予定だったんだけど」
瑠衣もケーブルを巻きながら満足そうに笑った。
呑気な二人に教職員たちは顔をしかめながら、
「君たち、ちょっとこっちに来なさい」
怒気のこもった声で咎めた。彼らが連れて行かれそうになるのを見て、ぼくは叫んだ。
「うおぉー!」
そして大きく、何度も何度も何度も、手を叩いた。二人の演奏にそうやって応えた。
〝これが、これこそが、ロックだ〟
言葉に出来ない「何か」が、今までの「何か」を振り切った瞬間だった。
ぼくの叫声に教職員も周囲の学生たちも奇怪な視線を送った。そんなことは構わない。ぼくは急いで二人の元に駆け寄り、教職員たちに向かって叫んだ。
「ぼく、大学辞めます。また今度、退学届け出しに来ます」
そして、
「瑠衣、颯斗、行こう」
告げて、ぼくらは走り出した。「待て!」という言葉を振り切った。途中おかしくなってゲラゲラ笑いながらキャンパスを駆け抜けた。ぽつぽつと雨が降っていたが、雫がキラキラ輝いて見えた。ぼくらはただただ笑っていた。
【その二】
スタジオに貼り出されていたメン募の「ベース」と書かれた箇所は、瑠衣の手によって白いマーカーで二重線が引かれた。それは晴れて三人で出発することを意味した。
ぼくは求めていた日常に確実に足を踏み入れた。バイトをしながらスタジオに集まって練習を重ねる。コピーする曲を合議して、合わせる。その反復。併行して、ドラムのメンバー探しに力を入れることにした。
二人と出逢ってからより一層、ベースを弾くのが楽しくなった。瑠衣と颯斗の人物像と勢いはまさにロックを体現しており、大いなる刺戟に確かな影響を受けている自分がいることをひしひしと感じていた。
目が覚めるとすぐにベースを弾きたい気持ちに駆られ、バイトに出かける直前に少しだけ、と触る。すると、尚更今日は一日ベースだけ弾いていたいという気持ちが募る。結果、渋々バイトに向かったものの急遽途中で引き返してしまった。家に戻ると、欲求不満を爆発させるが如くベースを引いた。クソシェフとあの嫌味なキツネ目の女子大生に対して不義理を働いたことが快感で仕方なかった。
こういう時、ロックスターならきっと欲求を抑制することなく、純粋に向き合い発散するだろう。そう思うことでぼくは自分自身の行為を容易に納得させることが出来た。傍から見れば人として駄目な選択でも、赴くままに行動した自分を少し好きになれていた。上手くいっている時こそ、そういった行動原理になるのかもしれない。
勢いで勝手に大学を辞めてしまったことで、父親からは勘当を突き付けられた。ロックンロールに親の反対は付き物だったが、ぼくの場合はそれ以前にすでに父親との関係は破綻していた。
自分の価値観だけを押し付けてくる父は、自分の世界だけしか見えていない。それだけではなく、その世界を盲信し、狂信している。気付くといつも一つ下の聞き分けの良い妹と比べられ続けてきた。年齢が下の、しかも性別の違う妹と比べられることで、ぼくの自尊心は深く傷付けられていった。やがてそれは自分の性格にも影響を及ぼしたのだと思う。
いつからか父の声に耳が敏感に反応するようになった。自室にいても居間から漏れ聞こえてくる父の声が苦痛だった。父の足音も扉の開閉のうるささもぼくの精神を煩わせた。父のそのガサツさとデリカシーのなさは見事に妹が受け継いでいる。
ぼくはもう流されないと決心し、アパートを借りて実家を出た。家賃を払うためにレストランを辞め、居酒屋のバイトに変えたが、バンドのことを考えると精進出来た。
自分の人生は自分で決めて、やりたいことをやる。例えその先にあるものが滅亡だったとしても、きっと今やりたいことを真っ直ぐにやらなければ、永遠に先のことなんて考えられない気がしていた。
今を生きるから、先が見えてくる。用のない線路を走りながら次の停車駅など考えられない。行き先が違うからだ。瑠衣と颯斗と一緒なら目指す駅に向かって走って行ける気がしてならない。まるで川の澱みが滔々と流れ出したようにぼくは抑圧をはねのけた。
あの時、食堂に乗り込んで来た二人はぼくにとって英雄、あるいは突如訪れた救済だろう。暗く空疎な生活から引っ張り出してくれた恩人とでも言うべきだろうか。
ドラマー探しは積極的に動いた。当節、インターネットでもメン募サイトがあり、それを活用するのもひとつだと瑠衣は主張した。翻って颯斗は、
「ネットのメン募なんて信用出来ねぇ」
と渋って、スタジオでドラマーらしき人物を見つけては何人かに声をかけていた。その都度、その見た目から、
「俺、ヴィジュアル系じゃないから」
と一蹴されていた。それでも、
「ちょっとセッションでもしてみない?」
と食い下がるも、それも断られ、
「ちぇっ、見た目で判断するって損してるよな。俺たちとならロックスターになれるっつうのによ」
と、不貞腐れていた。時には引き抜きと勘違いされ、向こうのバンドメンバーと一触即発になりかけたこともあった。
そんな颯斗のやり取りを見かねた瑠衣は、やはり今の時代はネットを駆使するのもひとつだと主張し、メン募サイトでアカウントを作って募集をかけた。すると何通かメッセージが来て、そこからやり取りをした瑠衣の提案で、実際に何人かに会ってみることになった。
駅の南口で落ち合う。相手は一人。ぼくらは三人。とはいえ、毎回どんな人が来るのだろうという緊張感を持ちながら、セッションを数回こなした。セッションといっても、事前にコピーする曲を決めて合わせたり、適当に八ビートを叩いてもらい、そこにベースとギターのコードを乗せて、たまに颯斗が即興でギターソロなんかを入れて遊ぶ程度のものだった。
セッションに来た相手は現役バリバリのホストだったり、会社員だったり、予想外に女だったり、中には男か女かわからないような人もいた。その時はセッション後に三人で確かめ合った。
「なぁなぁ、結局さっきのやつは女で良かったんだよな?」
颯斗が煙草を咥えながらぼくらの顔を覗き込む。
「きっとそうだよ。だってシャルダーバッグの紐で胸の膨らみが確認出来たもん」
ぼくが言うと、
「それは俺も見た」
瑠衣が首を縦に振った。
だが、男か女かなんてぼくらにはもはやどうでもいいことだった。とにかく、これというドラマーには巡り会えなかった。何より大事なのは一緒にやって行ける仲間になれるかどうか。
それでもまだ約束した場所に来てくれるだけマシで、中には当日になって急に連絡が途絶え、待ちぼうけを食わされた挙句、すっぽかされることもあった。きっと待ち合わせ場所で待つぼくらの風貌を見て怖気付いたのだろう。自分が逆の立場なら大いに考えられる。
結局、その後は路上で弾き語りをしている女の子の演奏を観て帰るだけになってしまった。それも派手なヴィジュアル系丸出しのぼくらがその子の前に立つと、演奏している本人も、立ち止まって聴いていた数人の観客も、こちらをチラチラ見ているのがわかった。
そんな周囲の情況を他所に瑠衣は演奏する女の子を見つめながら、
「もしこのまま見付からなかったら、最悪打ち込みでライブかもな」
いよいよそうなってしまうような気がして、ぼくの中でも現実味が帯びた。
「それでも構わねぇよ」
颯斗は嘯くように言った。
押して駄目なら引いてみろ。というわけではないが、ぼくらは一度ドラマー探しを止めた。それからはまた相変わらず曲をコピーしてスタジオで合わせるだけの日々だった。青年が怯えながら声をかけてきたのは、そんな平生の間隙だった。
「あ、あのドラマーっていますか?」
突然話しかけてきたのは銀髪でミディアムヘアの青年だった。彼は少し震えているようにも見えた。
遡ること三十分前––––。スタジオで練習していると、ドアに嵌め込まれた細い僅かな隙間ガラスからぼくらを覗き込んでくる不審な人影があった。最初に気付いたのは颯斗だった。
「なぁ、何あれ」
訝る声にぼくと瑠衣が視線を向けると、その人影はすぐに身を避けた。苛立った颯斗がこれでは練習に集中出来ないと憤り、文句を言ってやると息巻いてギターを方から外しかけた。
「もしかしたら、俺たちのファンじゃないか」
瑠衣は真剣になのか、冗談で言っているのかわからない口振りだった。
「そんなわけあるか」
颯斗はそう言い放ったものの、文句を言いに行くのをやめて、もう一度ギターをかけ直した。
その後もぼくはベースを弾きながら折節ドアの方を確認したが、もう姿は見えなかった。きっと颯斗の素振りが効いたのだろう。退出時間が来て、部屋を出ると誰もいなかった。何だったのだろうと首を傾げつつ、待合室のテーブルに坐って束の間休息して、今に至る。
「あ、あの、キャンパスでのライブとその後の一連のやり取り、観てました。感動しました」
青年は唐突に告げた。あの時、ぼくらの背中を目で追うしか出来なかったという。
「ずっとキャンパスで話しかけようと思っていましたが、自分、コミュ障で無理でした」
青年はぼくを見ながら言った。
「てことは君もぼくと同じ大学だったの?」
「はい。でも辞めて来ました。あのライブ観て決心しました」
なんと、あのゲリラライブでもう一人、心を動かされた人間がいたのだった。忍と名乗る銀髪の青年は、爾後、色々なスタジオを歩き回ってぼくらを探したのだという。それにしても、よく見付けたものだ。しかも小さなガラスの隙間から覗くなんて、確認の仕方が怪し過ぎる。
同じ大学に同じようなやつがいたなんて、ぼくはまったく気付かなかった。よりによってたったひとつのゲリラライブが二人の大学中退者を出すことになるとは、当人たちも思わなかっただろう。
すぐに空いているスタジオに入り直し、忍のドラムを聴いたぼくらはその場で彼の加入を即決した。彼のドラムは消極的な性格とは違い、力強く、バンドの前進を直感させた。消極的とは言ったが、ぼくらに話しかけてきた勇気と大学を辞めてしまう瞬発的な活力は、ドラミングそのものだったと言えるのかもしれない。
猪突猛進で押し切る積極的な瑠衣と颯斗。瑠衣は時々寡黙になる一面があり、それがまたヴォーカリスト特有の気難しい面を彷彿させた。そして大人しい忍。何となく中間にいるような思慮深いぼく。忍の二面性も含めて、メンバーの性格は各担当パートの役割を表しているにも取れた。
四人揃ったことで、コピーした曲もミキサーを通さず、すべて生音で演奏出来るようになった。全く「無」の状態から、四人で音を出せば「有」となる。なぜだろう。その感覚はとても神秘的なものとしてぼくの中に住み着いた。
音と音の会話。それは言葉と言葉で交わす以上の高揚感を得られた。こうして幾つもの刺戟を重ねた。こうなると当然、人前で演奏したくなる。ある程度コピーを積み重ねたぼくらの会話は、もっぱらライブに向けての話題ばかりだった。
「でも、ライブやるならもう一人ギター追加するか」
瑠衣がぼくらに訊ねた。
確かにメンバー全員、好きなバンドはツインギターが多かった。もう一人ギタリストを加えてリズムを担当してもらえば、颯斗はリードパートに専念し、当然バンドとしての音も厚くなり、出来ることも増える。ギターソロでハモることも出来るし、パフォーマンスの幅も拡がる。
だが、颯斗は頑なに拒んだ。
「嫌だ! ギターは俺一人で充分だ。俺に迎合出来るギタリストなんているもんか」
「でもお前だって最初はツインギターに憧れただろう。自由にリードのフレーズが弾けるぞ」
瑠衣は食い下がった。
「俺より上手いやつだったら、俺がリズムになるじゃんか。立ち位置だって下手になる。そんなの絶対に嫌だ! 俺が二人分の音を出すからいい」
一瞬場がしんと静まり返った。瑠衣もそれ以上はもう何も言わなかった。不貞腐れた颯斗をぼくと忍でなだめた。颯斗はふんっと顔を背けたが、やがて何かを堪えきれず突然にんまりした。ぼくらがその様子を不思議そうに窺うと、颯斗は横目で見返し、
「今日はお前らに良い話があんだよ」
きょとんとするぼくらに向かって不敵に微笑った。
「実はな、俺がバイトしてるバーで店長がライブやって良いって言ってくれたんだ」
「マジか」
急に目の前に降って湧いた希望に銘々声を揃えた。
「但し、機材は全部持ち込みだけどな。アンプは家庭用ので、ドラムは電子ドラムが必要になる」
ライブバーではなく、街の外れにあるような至って普通のバーらしく、あまり大きな音は出せないようだ。それでもぼくらにとっては願ってもない機会だった。
「忍、電子ドラムなんて持ってるの?」
ぼくは訊ねた。
「持ってないけど、バイトで貯めたお金があるから早速楽器屋行ってみるよ。ぼくは颯斗や日和と違って、今までドラムスティックしかお金かからなかったからね。それに家でも練習したかったから、買いたいと思ってたんだ」
忍が無理をしているのではないかと少し気がかりだったが、ライブの実現を目前に控えるとそうやって前に進むしかない。
「あっ、俺もちょうど楽器屋行きたかったんだ。じゃあこれからみんなで行こうぜ」
すっかり機嫌が直った颯斗の声に頷き、全員立ち上がった。
ライブの演奏はコピーしたものをひとまず三曲。昼間はリハもかねて開店前の店内で練習が出来るように店長が配慮してくれた。
〝Bar Rock Trip〟
お店は小さなビルの三階。エレベーターはない。派手な電飾が施された看板を横目にぼくらはそれぞれ機材を持ち運んだ。瑠衣は小さなスピーカーとスタンド付きのマイクにケーブル。割と楽だ。楽器隊は忍が実家から車を借りてアパートを回ってくれた。一階の呉服屋から覗く艶やかな着付けをされたトルソーを横目にぼくらは何度も階段を往復した。
「ふぅー、ようやく運び切ったな」
汗を拭いながら颯斗が煙草に火を灯した。
休憩する間もなく、ぼくらはそれとなくそれぞれの持ち場を見定め機材を配置した。
すると誰からともなく音を出し始めた。アンプとスピーカーの音量を調整し、まずはいつものようにサウンドチェックをかねてワンフレーズを弾いてみる。
音のバランスが悪いと思ったら手を止めて再びアンプに戻り、自分の音を探しながらスピーカーで音量の調整をする。ドラミングから繰り出されるハイハットやタムの音、エレキギターのジャリジャリした歪み、ベースの重低音、ヴォーカルのマイクを通す声。きっとどんな大舞台、例え海を渡った向こうだとしても、このサウンドチェックの音は変わらないのだろう。
スタジオに比べるとどうしてもふわっとした軽さになるが、音の均衡は取れ、それはそれで良いとそれぞれが納得していた。あとは人前で演奏することの緊張と如何に向き合うかだ。本番までの数日、全員でひたぶるに練習した。
四人の音の中に身を置くぼくは、この音で世界すら変えて行けるのではないか、と本気で思っていた。言うまでもなく、ぼくは往年のロックスターの大胆な逸話に、生き方に憧れを抱いていた。自分には到底ないものだったからだ。彼らの武勇伝は小さなことでくよくよするなと教えてくれている気がした。
〝ならば、平成生まれのぼくらはどんなロックを描いて行けるだろうか〟
こんな時代だからと諦めてしまうわけにはいかなかった。
「そういえば、バンド名何にする?」
練習の間隙にぼくは切り出した。
「んー、あまり気取り過ぎても嫌だし、かと言ってポップなのもなぁ」
瑠衣は呟いた。
それぞれ様々な候補を挙げながら思料したが、ピンと来るものはなかった。そこでぼくは以前からこっそり考えていた案を披瀝した。
「HEAVEN’S MONSTERなんてどう?」
実は高揚した気持ちを抑えられず夜な夜な思案していた。三人はぽかんとした表情がこちらに向いていた。
「ヘブンズモンスターって、何だそれ。どういう意味?」
颯斗がぼくを覗き込んだ。
「直訳すると天国の怪獣、だよな?」
瑠衣が訊いた。
「うん。天に召されたロックスターたちって、きっと天国でも怪獣の如くロックし続けていると思うんだ。雲のずっと上から、その時の機嫌によって晴れだったり、雨を降らせたり、雷だったり雪だったり、曇らせたりしながらさ」
「なるほど、そんなロックスターたちに現世の俺たちの音を届けようってわけだな」
颯斗は興奮気味に言った。
「まぁ、そういう捉え方もありかもね」
「ぼくは良いと思うけど。そういう世界観好きだな」
忍が首肯すると、瑠衣も賛成した。ひとまずはそれで行こうと仮決定で話は収まった。いつからかぼくらはヘブモンと略称で呼びながら、すっかり定着していくことになる。
【その三】
忍のドラムは明らかに走っている。それにつられぼくのベースも運指を間違えたのをきっかけにリズムはガタガタ。おまけに颯斗はギターソロで派手に音を外し、瑠衣の声は明らかにいつもより遠慮がちになっていた。
最初は拍手で出迎え、歓声を上げてくれていたお客さんたちも終始苦笑いだ。
「なんだあれ、下手くそじゃねぇか」
そんな心の声が露骨に表情に現れていた。一度崩れた流れは取り戻せず、ばっちり決め込んだ衣装と化粧とは裏腹に、三曲醜態を晒し続けた結果となった。
Rock Tripでのヘブモンの初ライブは終わった。バックヤードに戻ると、誰もが無言だった。坐ったまま凝然とし、誰も何も喋らない。俯いたままただただ沈黙が続いた。
ぼくの頭の中は無の状態となり、何も考えられなかった。妙に生温かい温度の中で、このままぼんやりと無の空間に溶けて行きそうな気さえした矢先だった。
「ぷっ、はっはっはっ」
長い沈黙を破ったのは唐突な颯斗の笑い声だった。数瞬、驚いたぼくらもつられて笑い出した。
「酷かったなー、お前のギターソロ」
瑠衣が笑いながら颯斗の方を叩くと、颯斗もすかさず、
「お前だって全然声出てなかったじゃねぇか」
そのやり取りを見たぼくも、
「いやー、ぼくらリズム隊も駄目だったな」
「なんか心臓の鼓動とリズムが一緒になっちゃって」
忍は苦笑した。
ぼくらは反省を口にしながら笑い合っていた。一人一人のことを責めるでもなく、かといって慰めているわけでもない。ただありのままを楽しんでいるようだった。
こんな最悪なライブは他にないだろう。それでも、これもまたロックだと思った。出来の悪い演奏、お客さんの冷めた視線。そんな逆境こそがロックだと教えてくれたのは、紛れもなく今も王者のように君臨する伝説のヴィジュアル系バンドだったからだ。
ぼくらは店長に頭を下げた。怒られて当然だと思ったが、
「まぁ、最初はこんなもんだろ。あえて告知までしなくて良かったけどな」
と、舌を出して笑ってくれた。
「また、やって良いぞ」
店長は振り返りながらさりげなく言ってくれた。店長が寛大な態度を取ってくれるのにはどうやら理由があるようだ。
爾後、ぼくらは専らRock Tripに集まって練習を重ね、今度の方針を合議した。
店長はバイトの颯斗に鍵を預けて、バンドで自由に使って良いと言ってくれただけでなく、ライブで使った機材をそのまま置きっぱなしにしておいて、営業時間前ならと練習を許可してくれた。店内の掃除が条件付きとなったが、毎回スタジオだと費用が嵩むのでこの上ない恩恵となった。
「おっ、お前ら来てたのか」
買い物袋をぶら下げた店長が出勤する。ぼくらは振り返り、
「あっ、お疲れ様です」
颯斗の声に続いて挨拶をした。
開店準備をする店長の横で先日のライブの省察をしていた。どうすればもっと上手く演奏出来るのか。もっと練習量を増やすべきか。技術の向上のためにはもっと難易度の高い曲のコピーに取り組むか。場数を踏むことが大前提だったが、いち早くスキルアップしたかった。すると店長が動かしていた手を止めて声をかけてきた。
「良いバンドっていうのは、必ずしも技術の高い集団を言うわけじゃないんだぞ」
「どういうことですか」
ぼくは咄嗟に訊き返した。
「息、つまり呼吸があっているかどうかだ。お前らテクニックに走ろうとしてないか。それも大事だが、一番肝心なところを忘れるなよ」
「一番肝心なところ」
ぼくらは呆気に取られながらカウンター越しの店長を眺めた。
「オリジナルでも、コピー曲でも、そのバンドにしか出せない音がある。必ず。それは上手いとか下手とか、音が分厚いとか薄っぺらいとか様々だから良くも悪くも、だけどな」
自分たちにしか出せない音、呼吸。
店長の助言は確かに今度のヘブモンにとって一番必要なことだった。でもどうして店長はそんなに詳しいのだろうか。知りたいが、聞けない。ぼくらはどことなくもじもじしながら、店長の様子を探っていた。そんな様子を見かねてか、拭っていたグラスを置いて、店長が口を開いた。
「実は俺も昔やってたのよ。それもお前らと同じヴィジュアル系でな。だから颯斗が初めて面接に来た時、応援したいと思ったんだ」
「えー!?」
ぼくらの喫驚を他所に、バーカウンターの向こう側で台に手を付いた店長はどこか遠くを見つめた。きっと束の間、回想に耽ったに違いない。
短髪で、髭を生やし野生的な風貌の店長が、昔は同じヴィジュアル系で夢を見ていた。どうやら店長もギタリストだったらしい。そこに来た颯斗。稀有な巡り合わせだ。
「良いヴォーカリスト、良いギタリスト、良いベーシスト、良いドラマーってのは、必ずしも技術の高いやつを指すわけじゃない。もっと言えば、下手でも格好良いと思わせた方が勝ちだ」
店長の言葉にぼくらは意識すべき部分が見えた気がした。
それからRock Tripでのコピバンライブも数回こなした。回を重ねるごとに徐々にではあったが、初ライブの雪辱を果たしていった。
ライブや練習を終えるとぼくらはいつものように列んで帰った。ギターとベースを担いでいる姿は明らかにバンドグループであることを周囲に誇示していた。
いつものようにいつもの道を通る。歩き慣れた道からはスナックで歌うカラオケの歌声が漏れてくる。明らかに目当ての女を口説くための選曲と、甘ったるい歌声。自己満足と自己陶酔。その歌声は何か伝えたいことがあるというよりは、歌っている俺が格好良いだろうと誇張したいがためのものだ。
そう思うと、オリジナル以外はすべてそうなってしまうようにも感じたが、女を口説くための小手先の歌声はどこか軽い。瑠衣の深みのある叫びにも似た声音を聴いた後はいつもそんなふうに思っていた。ぼくらのしているコピーは表現だと胸を張って言える。そして伝えたいことを伝えていくためのオリジナルに繋がる教材であり、次の階段を駆け上がるための序章だ。
コピバンライブに慣れてきた頃、そろそろライブ告知をして積極的にお客さんを集めようという話になった。お世話になっている店長にも少しばかりの恩返しが出来るかもしれないとぼくらは息巻いた。
「メンバー表記はやっぱローマ字にする?」
ビラの構成を考えながら瑠衣が訊ねた。
「でもほとんどのバンドがそうだよね。あえて漢字にしてみない?」
提案したぼくは白い紙に筆を走らせた。
HEAVEN’S MONSTER
Vo.瑠衣 Gt.颯斗 Ba.日和 Dr.忍
「おぉ、漢字も良いかも」
感嘆する瑠衣に、
「そうだな。漢字にするか。忍はどうだ」
颯斗が訊ねた。
「うん、良いと思うよ」
同じように考えているバンドも多いだろうが、少しでも目立ちたいのがぼくらの本音だった。どこか捻くれていて、根底にあるのは他者と同じ思考であることを拒否する姿勢。それはぼくらが自分たちの表現に真摯に向き合っているからに違いない。多くのバンドがそうしているなら、自分たちは違うことをする。それは本当は捻くれではなく、むしろ真っ直ぐに自分たちを表現している純粋さに過ぎない。
手作り感満載の手書きビラを手にし、目抜き通りに出た。いずれオリジナル曲でライブハウスに出ることを夢見ながら、ビラは一枚一枚メンバーの手から離れていった。
曲をコピーし続けてはRock Tripで練習し、ひたすら音と向き合う日々を過ごしたぼくらは次なる段階へと目的を定め、ライブハウスに出向くことにした。といっても出演するわけではなく、後学のための見物だ。
「初めのライブハウスって緊張するなぁ」
向かっている道中で忍がびくびくしながら呟くと、
「大丈夫だ。そのうち俺らの独壇場になるんだからよ」
颯斗は豪語した。
ヴィジュアル系アーティストを多く世に送り出してきた有名なライブハウス。前売りを買う伝手もないので、ぼくらは受付で当日券を購い、引換券とドリンクを交換した。
「ねぇねぇ、未成年なのにアルコールって大丈夫かな」
忍が囁く。
「何言ってんだよ。ロックに法律もクソもあるか」
もちろん、こんな科白じみた言葉を吐き捨てられるのも颯斗だ。どう生きて来たらそんな台詞が言えるのだろうか。彼の世界観はロックそのものだった。
後方で開演を待っていると、幕の向こうでセッティングの音が聞こえてくる。全身にずしんと響くバスドラムの音。アンプとギターを繋ぐジャックが微妙に擦れる音。ベースの重く深く振動する音。そしてヴォーカルのマイクのスイッチが確かに入った時のプツッという、何かが、確かに始まる音。ぼくはこの音が好きだった。
舞台の幕がゆっくりと上がった。暗いステージの上には出演バンドのメンバーたちが立っている。照明が点き、その風貌が露わになると、間髪入れずバンドは演奏を始めた。
その瞬間、ぼくの全身に鳥肌が立った。ばっちりメイクを決めたバンドの激しい音が耳をつんざく。格好良い。格好良い。格好良い。何度もそう思う瞬間に巡り逢う。まるでステージの上を濃艶な蝶がひらひらと舞っているようだった。
対バン形式のライブは次から次へと観客を魅了していく。狭いステージをものともせず、それぞれのバンドはみな華やかに舞う。ヴィジュアル系とは一括りに言っても、衣装やメイクにはそれぞれのコンセプトがあり、V系バンドの狂い咲く様はまさに百花繚乱だった。
突っ立ったまま舞台を凝視する瑠衣も、麦酒を片手に腕を組みながら眺める颯斗も、さっきまで周囲をチラチラ気にしていた忍も、おそらくぼくと同様、身体の内から呼び覚まされるような熱い鼓動を感じているはずだ。ぼくの瞳には目の前の舞台が燃え盛る爆炎のように映じた。
初めは疎らだった会場も、徐々に埋まっていった。客層も派手で、バンギャも多く集っていた。
熱気を帯びる観客の中で、ぼくは途中から一人の女の子が気になっていた。ショルダーバッグを背負ったまま一人でいるその子は一見地味だが、バンドの演奏が始まると手を振り上げ、思い切り曲に身を任せていた。時には激しく頭を振ってヘドバンをする。その都度、肩まである艶やかな黒いボブが扇状を描いていた。
出て来るすべてのバンドに対して礼儀のようにその態様を貫き、幕間には何事になかったかのように携帯をいじる。暗転の中で小さな明かりに照らし出されて覗く横顔は、妙に楚々として美しかった。次のバンドが演奏を始めるとまた彼女は曲に呼応する。ぼくはその様子を見て唐突に発想した。
〝これが奇跡なのかもしれない。たった今、ロックがもたらす奇跡を見ているのかもしれない。きっと日々の中でいろんなことがあるだろう。もしかしたら日常では自分を上手く表現出来ないのかもしれない。然れど、ロックの曲の中にいる瞬間だけがすべてを超越する。自分がそうだったように、この子もきっと––––〟
見ず知らずの女の子に感心していると、あっという間にメインイベントの時間が訪れ、最後のバンドが舞台へ上がった。トリはさすがに集客力もあり、水際立った演奏で会場の熱れは凄まじく、ステージと雲集した観客とが一体化していた。
うねるような音と客。歓呼に悲鳴。まるで異次元に身を置いたような空間となった。ぼくは放射される熱に心身が火照っていた。
「やっぱ良いな」
缶麦酒を片手に夜道を歩いていると、颯斗がつぶやいた。耳がキーンと鳴っていた。その音は足音よりも大きい。夜深の静けさの中だと余計にそう感じた。
言葉にはしないが、みんな興奮しているのがわかった。悔しさもある。何の悔しさなのかはわからない。嫉妬なのか、焦りなのか何なのか。自分たちがまだあそこに立てていないもどかしさなのか。きっとそのすべてなんだろう。自分たちの立ち位置をまざまざと見せつけられたそのすべてが、頭から爪先までの全身を駆け巡っている。
とにかく、出発点に経たなくては。今の位置からもっと高く、もっと遠く、誰の手も届かないような場所まで羽ばたいて行かなくてはならない。
「オリジナル曲だな」
颯斗がつと足を止めてひと言つぶいた。ぼくらは振り返り、静かに相槌を打った。
その日、かつて八十年代終わりから九十年代に社会現象となった伝説のヴィジュアル系バンドが電撃的に再結成を発表した。十年越しとなる最集結は世間を賑わせた。ぼくの人生を変え、ぼくら四人をひとつにしたバンドの再結成にヘブモンのメンバーたちもご多分に漏れず歓喜した。
その意気のまま早速オリジナル曲の作成に取りかかった。ひとまずは瑠衣と颯斗が大学のキャンパスでやった弾き語りの曲をバンドサウンドに編曲することにした。
「えーっと、コード進行はこうだ」
颯斗がクリーントーンでコードを爪弾く。曲の全体像を伝えるためのアルペジオが室内に心地良く鳴り響く。これをロックの音に変えて行く作業が始まった。まずコード進行の流れをぼくはバンドスコア用のノートに記した。
次に颯斗はパワーコードに変えてオーバードライブの歪みをかけながらブラッシングを入れつつ、適度なBPMで掻き鳴らした。それに合わせて忍がリズムを取り、何となく八ビートを叩く。
ベースも同じルートを弾きつつ、ドラムのリズムに合わせた。まずは骨組みを確かめるように、ぎこちなく。
そこへ瑠衣が歌を乗せる。歌詞もまだすべてが決まっているわけではないようで所々鼻唄だ。そこから徐々に、自分たちの求める音へ変えて行くように曲想を練った。
颯斗はコンパクトエフェクターをディストーションに変えたり、オーバードライブに戻したりしながら歪み具合を調整していた。瑠衣は楽器隊の繰り出すメロディーを聴きながら作詞に取り組んだ。
「なかなか良い感じになって来たかな」
ギターを肩から外しながら颯斗が窓外を見遣った。作業に没頭していて気付かなかったが、いつの間にか窓から残照が差し込んでいた。悪戦苦闘しながらそれぞれが細かなフレーズを考え、曲は少しずつ形になった。
「そういえば、曲名は?」
ぼくは訊ねた。大学にいた自分を変え、忍を動かした大切な曲だ。
「そうだな、REMEMBERで良くないか。この曲はヘブモンをひとつにした想い出の曲だから」
瑠衣は言った。
「シンプルで良いな」
颯斗が微笑った。
名詞のMEMORYではなく、動詞のREMEMBERにしたのは、いつでもあの初心の記憶を思い返せるように––––という意味合いも込められた。
こうしてヘブモンをひとつにした始まりの曲、REMEMBERは産声を上げた。その他にも各自オリジナルの素となる音や歌詞を考えてみる方向で決まった。やがて、ここでの日々や店長への謝意を込めて全員で作ったRock Tripという曲も出来た。
二曲とも、大切な想いが込められた重みがあった。数じゃなく、質。形になったオリジナル曲は初めて楽器に触れた時の心の弾みや、初めて好きな曲をコピーした時の快感、あるいは初めて難しいフレーズをなぞった時の達成感、様々なことを思い出させた。
メンバーで想いを込めて作った曲だから特別なものとしてそこに存在している。だから誰が何と言おうと、それは実存として捉えることの出来る素晴らしい作品だった。
ぼくは以前、瑠衣が言っていた言葉を思い出していた。
「音楽だって、本だって、世の中に溢れ返ってる。誰かにとってはゴミ、でも誰かにとっては宝物。それで良いんじゃね? そうやって世界は均衡が保たれてるんだよ」
確かに全部が全部面白かったり、いちいち響いていたら世の中大変なことになるだろう。少なくとも自分一人の世界では消化不良を起こすか、混乱するだろう。
「でも俺は常に宝狙いでやってるけどな。それにどんなゴミにも、必ずそこに物語はある––––気がする」
瑠衣が出した舌には銀色に輝くピアスが垣間見えた。
「あれ、そんなところに開けたの?」
「あー、でも歌いにくいことに気付いたからやめるわ」
「ガラクタの日々の宝石」
瑠衣はそんな想いを歌詞に込めたのだろう。
出来た曲はまずお世話になりっぱなしの店長に聴いてもらうことになった。場所はもちろん、Rock Trip。
「行きますよー」
颯斗が声を上げると店長は、
「はいはい」
言いながらそそくさと椅子に坐った。
「カンカンカンカン」
忍がドラムスティックでカウントを入れ、序奏が始まる。初っ端から暴れるような颯斗のギター。リフは見事な熱を放つ。ツインギターを拒否した彼の矜持すら感じさせた。まるで炎上するような音から、ギターは俺一人で充分だという主張がひしひし伝わってきた。そこに付け入る隙もないほどに。
そして力強い忍のドラム。手数も多く、しかも一音一音が重い。間隙を縫って閃光のようなハイハットやシンバルの音が入る。相変わらず消極的な性格とは裏腹なリズムを繰り出す。これが電子ドラムでなく本物だったら、そう考えるだけでぼくも瑠衣も颯斗も、後ろから叱咤されているようだった。
そこに付いて行くように、いや、負けないように意識して作ったベースライン。誰も彼もが自分が引っ張って行くと言わんばかりのせめぎ合いだった。その上に乗ってくる瑠衣の歌声で空気はガラッと変わる。野獣のような強かさ、翻って繊細で艶かしい声。メンバーの好きなヴィジュアル系の声を見事に体現していた。
セットは家庭用のアンプと電子ドラムなのに、まるでスタジオやライブハウスで演奏しているかのような錯覚すらあった。店長は時折、瞑目しながら足でリズムを取っていた。
たった二曲の演奏を終えると、ぼくらは顔を合わせて安堵の表情を浮かべた。演奏は満足のいくものだった。誰もが店長の言葉を待った。
にも関わらず、店長は矢庭に席を立ってカウンターへと駆け寄り、置きっぱなしにしていた携帯電話を手に取った。感想を聞きたかったぼくらは肩透かしを食わされたように互いに顔を合わせながら佇んでいた。すると、電話口で話す店長の声が店内に響いた。
「もしもし、紹介したいバンドがある。あぁ、そのうちお前のところに行かせるから、うん、うん、宜しく頼む」
振り向いた店長は真っ直ぐぼくらを見て告げた。
「お前ら、のし上がれ」
強かな重みの込められた声だった。その眼差しにぼくらは背中を押され、まるで誘導されるように頷いた。
世の中に対して伝えたいことがある。それが原動力となり、尽きることのない創作意欲がひとつ目の羽だとしたら、応援してくれる人の声はふたつ目の羽。もしくは羽から翼になり、さらに遠くへと飛ばしてくれるようなものだろう。店長はぼくらヘブモンにとって初めて出来た応援してくれる人だった。
【その四】
再び通い慣れたリハスタに集まる日が多くなった。初めて自分たちで作ったオリジナル曲を本物のドラムと、大きなアンプで鳴らした。楽器隊の演奏に呼応するように、瑠衣の声も一層違った迫力を帯びていた。練習はひたすら、ライブハウスでの演奏を意識したものとなっていた。
店長が電話をかけた相手は、バンドの現役時代に仲間だったライブハウスのオーナーだった。店長の計らいによって得られたライブハウスデビューの機会を掴むべく、必死に練習を重ね、その日に望んだ。
ライブハウスでの試奏前夜、ぼくの体は消灯したアパートの布団の上で小刻みに震えていた。たった一人で夢想していた頃を振り返ると、やっとここまで漕ぎ着けたのだという静かな熱が身体の内から溢れるように包み込んだ。
眠れたのかどうか、自分ではわからないまま朝を迎え、試奏に臨んだ。観客が一人もいない舞台の上で、ベースのネックを強かに握り締めたぼくは黙想した。いつかここを満員にしてやる、と。
オーナーとスタッフ数人が見守る中でのテスト演奏。弦を弾く音の中で、ふと椅子に坐る店長が見えた気がした。きっとぼくだけじゃないだろう。目の前で歌う瑠衣の背中の向こうにも、横でギターを弾く颯斗の前にも、後ろで叩く忍の視線の先にも、先刻と同じ幻影が映ったに違いない。そう思うことで、確実に自分たちが勢いに乗れていると感じた。
このまま、このまま、前へ前へと進めば良い。その想いが一粒一粒の音として乗っかった。
演奏を終えるとオーナーが口を開いた。
「予想以上に良かったよ」
その一言で出演許可が下り、早速ブッキングされ、ライブハウスデビューの日取りが決まった。新人なので、対バン形式の一番始めとなり、チケットノルマは十枚。
高鳴る鼓動は抑えられない。ぼくらは念願のライブハウスでの演奏に向けて、付随するようにバンドのホームページとフライヤーを作って宣伝することにした。みんなで店長に頼み込み、力を借りることにした。
「店長、お願いします」
「えー」
店長はものぐさな顔をした。それが一時のポーズでしかないことをぼくらは知っている。
「仕方ねぇなぁ。まぁ、お前らがもし有名になったらうちの店の宣伝にもなるし、しょうがないから手伝ってやるよ」
「ありがとうございます」
数日後、Rock Tripに集まった。テーブル席でMac Bookを前に坐る店長の後ろを囲うように、ぼくらも坐った。画面に食い入るぼくらに店長はタッチパッドを指でなぞりながら、色やフォントをどうするか事細かに聞いてくれ、ヘブモンの意向を出来る限り汲み取ってくれた。
「MEMBER」「LIVE」「BIOGRAPHY」
「DISCOGRAPHY」「CONTACT」
リンクにはRock TripのURLが貼られ、逆にRock Tripのお店のホームページにも新しく出来たヘブモンのHPのURLが貼られた。こうして完成したぼくら四人だけのHPはメンバーの手によってこまめに更新されていく。
「フライヤーはどうしよう」
ぼくがメンバーに向かって訊ねた。
「どうやって作れば良いんだろうね」
忍が各自の顔を見ながら首をかしげる。
「パソコンでデザインして印刷するか」
颯斗は閃いたように提案したが、そんな技術を持っている人間などヘブモンにはいない。
「うーん、印刷屋に頼むか」
瑠衣はそう思案しながら何気なく店長の方へ視線を向けた。付随するようにぼくらも助けを乞うように一瞥した。やはり頼るべき相手は店長しかない。
「あーもう、仕方ねぇなぁ。俺がバンドやってた時に頼んでた業者の知り合いがいるからかけ合ってやるよ」
「えぇ、良いんですか!?」
本当は心の底で期待しておきながら、ぼくらはわざと仰々しく反応した。店長にお礼を言うと、瑠衣が予算とデザインの大枠を伝えた。
「予算オーバーするなら、その分は少しくらい出してやるよ」
「えっ」
店長からの思いがけないひと言に全員絶句した。
「でも、甘えるわけには」
申し訳なさそうに瑠衣が目を伏せた。
「そうですよ。店長にはここまで良くしてもらっているんだから、金は自分たちで何とかしますよ」
颯斗は焦るように切々と訴えた。
「まぁ、俺にもちょっとは格好付けさせろって。その代わり、手伝って欲しいことがある」
「何ですか」
ぼくは前のめりになって耳を傾けた。
「今度、お店のお客さん呼んでバーベキューするんだ。お前らも手伝ってくれないか」
「あっ、そうだ。俺からも頼む」
颯斗は慌ててぼくらの方を振り返って頭を下げた。
「当然ですよ。お世話になりっぱなしなんですから」
瑠衣がそう返事をすると、早速日程と概要が聞かされた。
ヘブモンのフライヤーが完成した頃、店前の駐車場にざっと二十人くらいのお客さんが集まった。ビルの一階に入る呉服店が休業日だったため、隣接する平場の駐車場を貸し切ったのだった。呉服店の電気は消えていたが、藍色の着物を着たトルソーが窓からよく見えた。いずれ和の要素を舞台の衣装に取り入れたいなと考えながら、ぼくは作業に取りかかった。
会場には店長の昔ながらの知り合いが多く集まって来ているようだった。奇抜なぼくらがエプロンを巻いてせっせと働く姿に奇怪な視線が送られた。
「こいつら大物になるかもしれませんよ」
店長はそんなぼくらを笑顔で紹介した。
「へー、バンドマンね。今日は演奏してくれないの?」
そんな声もちらほら聞こえてきた。
「アコギ持ってくれば良かったかな」
「でもさすがに恥ずかしいだろ」
作業しながら颯斗と瑠衣の会話が聞こえてきた。ぼくは不意にキャンパスで演奏した二人の姿が頭を過ぎり、頬が緩んだ。
汗だくになりながら接客していると、いつの間にか酒宴も進み、場も少し落ち着いてきた。
「おい、お前らも食って良いぞ」
見計ったように店長が、声をかけてくれた。
ぼくらは歓呼し、肉や野菜を焼いてようやく人心地ついた。颯斗がこっそりぼくらのコップにエビスの麦酒を注いだ。白い紙コップだから他のお客さんからはわからない。しゅわしゅわと音を立てながら、白い泡が溢れそうになる。ぼくは喉の渇きを潤すべく、ひと思いに口へ運んだ。その時初めて知った。季節や汗も相待って一日働いた後の麦酒が最高に美味いことを。
炭の芳香とともに酒食を堪能し、肉ばかりに夢中になっていたが、ふと瑠衣がぼくらの方に顔を近付けた。
「なぁなぁ、あの綺麗な人って誰なんだろうな」
「あー、俺も気になってた。店でも見かけたことないなぁ。もしかしたら店長の『これ』じゃないか」
颯斗は小指を立てた。
栗色の長い髪は綺麗に艶めき、白い肌に大人びた表情はどこか優雅で気品だった。ぼくらが見惚れていると、濃艶なその女の人はふと顔を向け、その美貌には似合わない透明なプラスチックのコップを持って、こちらに向かって歩いて来た。
「やばい、じろじろ見過ぎたかな」
颯斗が言い、ぼくらは一斉に顔を背け、箸を進める素振りで誤魔化そうとした。
「ここ、良いかな」
「あっ、どうぞ」
颯斗が慌てて椅子を促す。ぼくらは女の人の前に皿や割り箸を手早く用意した。
「あっ、そんなに気を遣わないで。もう充分頂いたわ」
女の人は科を作って微笑んだ。たおやかさが含まれた、どこか切なげなものだった。
「君たち、バンドやってるんだってね」
「はい」
ぼくらは相槌を打ったが、女の人がどこの誰なのかは訊けずにいる。
「バンドのことでも店長にはいつもお世話になりっぱなしで」
颯斗が視線を向けた先で、店長がお客さんたちに囲まれて楽しそうに談笑していた。
「あの人ね、昔は格好良かったのよ」
「昔––––今でも格好良いですよ、店長は」
すかさず言い返しながら颯斗が振り返った。
「あっ、そうね。ごめんなさい。でも昔はもっと格好良かったのよ」
店長の昔日。そういえば、ヴィジュアル系バンドをやっていたという以外は、そこまで詳しくは聞いたことがない。「俺たちの頃はこうだった」そう言われて写真を見せてもらったことがある。如何にも九十年代を誇張するかのような髪型と化粧だった。バンドとしてどこまで行ったのかは知らない。次の言葉を聞くまでは––––。
「あの人はね、––––とよく対バンして競っていたのよ」
「えぇっ!?」
ぼくは耳を疑った。聞こえてきた名は現在も第一線で活躍し続けている大物バンドだった。バイト先でお世話になっている颯斗ですらその話は知らなかったようだ。ゆえに本当なのだろうか。しかし、当時のライブハウスの時代背景を考えれば、充分にあり得る話だ。それにこの女の人が嘘を言っているようにも思えなかった。
「あの頃はどのバンドが次にメジャーに行くのかって持ち切りの時代でね。彼のバンドもそう言われているうちのひとつだったの。ライブハウスの英雄だったの、彼は。でも、結局バンドブームの終わりとともに彼のバンドも解散してね」
それは自らの功績を語らない店長の美学だったのかもしれない。いや、そもそも当の本人は功績とは思っていないのかもしれない。誇りには思っていても、デビュー出来ずに勝負には負けたと思っているのかもしれない。然りとて、それは決して人生の負けではない。当然だ。今、目の前でお客さんたちと肩を叩き合い、笑い合っている姿を見れば、それは明らかだ。
しばらくして店長が黒いアコギを持って登場した。
「Gibsonじゃないですか」
颯斗が羨望を込めて瞠目した。
古色蒼然としたアコギは店長とともに闘ってきた歴史が刻まれていた。
「実はお前ら見てたら、また触りたくなってな」
そう言いながらチューナーを使わず耳だけで音程を整えている。恐らく鍛えられた音感はそのままなのだろう。MartinでなくGibsonというところがどこか店長らしい。
「今日はみなさんへの日頃の感謝を込めて歌います」
店長がお客さんたちに向かって叫ぶと、拍手喝采。有名な邦楽曲の弾き語り。アルペジオに乗せられた渋い歌声が場を包み込んだ。手拍子で応えながら体を揺らすお客さんたち。残照とこの光景が妙に心地良く、ぼくの胸を温かくさせた。
その様子をさっきの女の人はどこか遠い昔を回想するように眺めていた。横顔が泣いているようにも見えた。その隠微な表情は、店長とこの人が直接言葉を交わさずとも特別な時代をともに過ごし、今も蜜月であることを物語っていた。温情に溢れた酒宴は、いつかロックスターになり、この二人を特等席に招待したいと思わせた。
バーベキューの数日後、配るのももったいないと思ってしまうほどのフライヤーが出来上がった。高揚気味のメンバーは、早速配りに行こうと息巻いた。駅前、目抜き通り、商店街、ライブ会場。人の集まりそうな場所を挙げていく。
「あっ、そうだ。お前らが通ってた大学の前でも配っちまおうぜ」
例によって颯斗は突拍子もないことを言い出す。それを聞いた瑠衣も黙っているはずがない。
「それ良いな。この時期、新歓とかでサークルの勧誘があるんだろ? それに紛れて配っちゃおう」
いつの間にか大学の「前」から「中」へとすり替わっている。
「い、嫌だよ、そんなの!」
ぼくは声を荒らげ、忍とともに抵抗した。しながらこのメンバーとならなぜか出来そうな気がした。何でもやれるような気がした。
そして本当に実行してしまったのだ。全く関係のない部外者が勝手に宣伝をするなど言語道断だが、そんなことは意に介さず、瑠衣と颯斗はキャンパスの雰囲気にはしゃいでいる。ぼくと忍は完全に縮こまっていた。
賑々しいキャンパスを歩く学生たちを見ていると、新入生らしき学生は希望に満ち満ちており、あるいは不安げに辺りを窺っており、表情は様々だった。ぼくは曩時の自分を重ねた。あのまま大学に残っていたらどんな日々を過ごしていたのだろう。トモダチは出来たのだろうか。
考えるぼくを他所に隣で無邪気に笑っている瑠衣と颯斗。「二人とも、ちょっとは遠慮してよ」となだめる忍。その光景を見ればすべての答えは一目瞭然だった。きっと今は自分にしか歩けない道を歩いている。まだその途中だけど、キャンパスよりもバンドという菱形の空間が最高に楽しく心地良い。ぼくは初めて自分の選択に本当の意味での自信を得られた。
「お前じゃ無理」大学生活の中ではいつも世の中からそんなふうに言われている気がした。そしてこの言葉ほどつまらないものはなかった。世の中の人々は努力が大切と謳っておきながら、言葉の裏では努力を否定する。才能があれば努力によってさらに磨かれる。才能が無くとも努力によって超越出来る何かもあるだろう。このメンバーとの邂逅は一人では決して辿り着けなかったであろう新たな感興をぼくにもたらしていた。
〝だって、成功を収めた人間は可能性を諦めなかった人たちじゃないか。そう教えてくれたのがロックスターだったじゃないか〟
学校や社会ではない。ぼくにとって大切なことを教授してくれたのは、紛れもなくロックの中にあった。ふと騒々しい声と足音が聞こえてきた。案の定、教職員たちが小走りでやって来た。
「コラーッ、またお前たちか!」
ぼくらは走り出した。いつかの光景みたいに、今度は忍も混じって駆け出した。また笑いながら、思いっきりはしゃぎながら。
あの時は降っていたのは雨だったけど、今度は桜が舞い降りていた。地面に散った花びらも風で舞い上がった。桜吹雪に包まれて、ぼくらはまたひとつ新しい季節を感じていた。
次にぼくらは武道館の前に立った。有名なヴィジュアル系バンドのライブがあり、観客の入退場に合わせてヘブモンのフライヤーを配ることにした。ぼくらだけでなく、他のアマチュアバンドもやっているようだった。宣伝効果に期待し、便乗する方法だ。
「でもこれってさ、怒られたりしないかな」
ぼくは少し懸念した。
「そうだよ、きっとやばいよ」
忍も悲痛な表情で訴えた。
「誰に怒られるんだよ。気にすんなって。まぁもし誰かに怒られたらその時は謝ろうぜ」
颯斗はまるで意に介さず軽く言い退けた。
瑠衣に至ってはすでにぼくらから離れたところでせっせと配り始めていた。
武道館––––。音楽を志すものなら誰もが目指す場所だろう。いつかは武道館。しかし、その武道館を本当の意味でライブハウスにしたのは、あのベーシストだけだったとぼくは思っている。それ以外、知らない。
いつか場内に掲げられているあの大きく美しい日章旗の下でぼくも演奏がしたい。微かに漏れてくる音を聴きながら、ぼくらは同じ夢を見ていた。
【その五】
チケットの十枚は簡単に捌けた。持ち時間は十五分。用意した三曲をやればそれで終わり。
もちろん、化粧をして黒い衣装を身にまとう。これがぼくらの正装だ。人前での演奏にメイクを施して臨むのはむしろヴィジュアル系にとっては礼儀であり、ヴィジュアル系に目覚めた時からの必然だった。Rock Tripでコピバンライブをしていた頃から一丁前にその信念は変わらなかったし、瑠衣と颯斗に至っては大学でのゲリラライブの時ですらそうだった。
ヘブモンとしてRock Tripで初ライブをすることになった時も、四人でネットや動画で化粧の仕方を研究をしたものだった。
「ヴジュアル系の『ヴィ』は『美』だよね」
そう言い合って、薬局で大量に化粧品を買い込んだ。自分たちなりの美を追求して、ひたすら化粧の練習だけをしていた時間もあった。
ヘブモンは美を求めつつも、どちらかというと男であることをあえて意識したようなどこか凶暴さを含ませた形貌に特化した。女形のバンドもだいぶ増えてきてはいたが、なるべくそれらとは対比するように意識した。
「ヴィジュアル系が女々しいなんて偏見だ。そんな勘違いした損なリスナーどもにかましてやるのさ」
颯斗は言った。
ぼくは塗らなければならないファンデーションの感覚に慣れず、下地の上にファンデを塗っても鼻の横の黒子は隠せなかった。ならばいっそ、いずれはアイメイクだけに出来たら楽だなとも思っていた。しかし、どんなに歳を重ねて、無駄を省き、引き算になったとしても、ステージに上がる以上は化粧を止めることはないだろう。それは絶対的な信念だ。あのロックスターが最後まで化粧をして旅立ったように。
いよいよライブハウスでの初舞台を迎える。かつて一人ぼっちだったぼくが望んだ舞台がそこには待っている。
舞台袖から見た観客は疎らだった。それでも、ステージに上がるまでの数歩の階段がロックスターに駆け上がるための階段に思えた。
その階段を駆け上がって、ぼくはとうとうライブハウスの舞台に立った。肩からかけたベースのネックを握り締め、アンプの音を軽く確かめる。互いに目配せを交わした瞬間、忍のドラムカウントが始まりを告げた。ぼくは思いきりベースの弦を弾いた。
全員で音を鳴らした瞬間、ライブハウスデビューしたことを確かに実感した。音の出だしは好調で、少し走り気味ではあったが、スタジオで出しているいつもの音だった。いや、興奮も相俟ってそれ以上の迫力に聴こえた。
失敗を早くにしておいて正解だった。Rock Tripでのあの大失態があったからこそ、ライブハウスでの初手は落ち着いたものになっていた。翻って鼓動だけは高鳴っている。
不意に横を向くと、メンバーの必死な表情が目に入った。ぼくは忍と呼吸を合わせながらリズムを作り出した。もう一人じゃない。同じ場所に瑠衣がいる。颯斗がいる。忍がいる。一人では出来なかったことをこのメンバーが叶えてくれた。ありがとう。込み上げるものそのままにぼくはメンバーの音に呼応するように弦を鳴らした。
観客はほとんどいなかったが、確かに今ここに自分がいることの生を感じていた。体中に流れる熱を全身で受け止めた。ロックはすべてを超越する。まるで自分自身が全能の神にでもなったかのような甘美すらもたらす。ステージ上ではなりたい自分になれる。
もし、あの時ライブハウスで見た女の子の太陽がひとつ目の奇跡ならば、ステージ上で音を鳴らしている今この瞬間の自分がふたつ目の奇跡だ。このメンバーと出逢い、この物の音の中に魂を置く。そんな巡り合いにぼくは心の底から感謝した。
〝あぁ、そうか。音楽って本来こうなんだ。読んで字の如く、音を楽しむ。この単純明快な無形こそが根本原理なんだ〟
もしロックスターになれなかったら––––。そんなこと、考えちゃいない。それが例え自分自身を滅ぼすことになっても、考えちゃいない。いや、考えられない。
––––知らなかった。暁方の街がこんなに綺麗だったなんて。打ち上げ後の空を見上げたぼくの目には素直にそう映った。初ライブは成功に終わった。
ぼくらはまた次のライブへ向けてRock Tripとスタジオの往復となった。待ち合わせであるスタジオのロビーに坐って書見していたぼくに颯斗が声をかけた。
「そんな難しい小説、よく読もうとするな」
「意味のないものにこそ、意味があるような気がするんだよ」
「何だ、その意味のないものにこそ、意味のありそうな発言は。お前、早速影響受けてるな」
颯斗に本質を突かれたみたいで、ぼくはついつい笑ってしまった。
「まぁ、俺はそんな複雑さより、シンプル、イズ、ベストだけどな」
「どういうこと」
「単純明快こそ、ロックな気がしてさ」
「それ、わかるよ」
「俺の場合は、フェンダーとギブソンだったら、ギブソン。グランジとメタルなら、メタル。清楚系とギャル系だったら、断然ギャル。ポップよりロック、山より海、アンプはマーシャル一筋。格好良いだろ」
「ギブソンとフェンダーは甲乙付けられない気がするけど、なぜかフェンダーには手を出さないぼくらだからね。わかる気がするよ」
「そうだろ」
にやりと笑う颯斗の背中には、先刻のライブから使い始めたギブソンのファイヤーバードが担がれている。彼によく似合うギターだった。
このバンドで弦楽器はぼくと颯斗だけだったので、互いによく指先の硬さを競った。どうしてもギターの弦の細さには勝てなかったが、互いに向上心を高め合っていた。弦楽器隊の相乗効果がバンド全体の水準を上げるとぼくたち二人は信じて疑わなかった。その効果は曲作りにも顕れていた。
誰かが持ってきた元ネタをみんなで吟味しながらジャムり、編曲していく。何度も行き詰まりながら意見をぶつけ合い、曲想を練った。出来た曲を携帯のボイスメモに録音して聴いては、また修正しての繰り返し。気分転換にコピーした曲を演奏する。ぼくらだけの贅沢な時間だった。
順調にコード進行やフレーズが見付かることもあれば、苦心することもあった。颯斗のコード展開と忍の作り出すリズムにどうベースラインを合わせるか、瑠衣の声を最大限引き出すことに繋がるはずの最適解を見つけ出せずもがくこともあった。上手く行っている時は寝ている間も一音一音探しているのが分かったが、翻って行き詰まった時は、このままだと曲作りに戻れないのではないかと頭を過ぎるほど澱んだ。その時は店長の言葉に救われた。
「そういう時は全体的な大枠だけ作っときゃ良いんだよ。あとはコピーでもして気分転換するとかな。今すぐ形にしようとするからそうなるんだ。やる気が出なかったり、気持ちが乗らない時はもうそれはそれで開き直るしかないんだ。底から生まれる何かもある。それに、一部分だけしか作れなくてもそれをメンバーに投げれば底から何か変化が起こるかもしれない。自分一人で抱え込むな。お前は一人じゃないんだよ。頑張れ、ロック少年!」
きっとバンド経験者として同じ境遇を何度も乗り越えて来たのだろう。一人じゃないという言葉に背中を押された。
そんな曲作りの間隙を縫い、ぼくらはメジャーで活躍するV系バンドのライブを観に武道館に来ていた。二〇〇〇年代にデビューしたバンドで、ヴィジュアル系が一般受けしなくなった今でも精力的に活動しているグループだった。
「チッ、スタンド席だと遠いなぁ」
颯斗は不満気にぶちまけながら坐っていた。
確かに颯斗の言うとおりだ。ステージを直視するより設置された大きなモニターの方が見やすい。ライブハウスに慣れていると大きな会場は観る側としては逆に物足りなくなる。ライブハウスのあの怪我をするかしないか、もっと言えば生きるか死ぬかのようなせめぎ合い。熱れ。それこそがロックという空間を再現している。
大きなこの会場では自分たちが何万分の一でしかなく、そこに収まってしまったような感覚すらあった。それでも好きなバンドのライブは会場の規模を度外視して、感じるもの、得るものが多くあった。
ぼくはヴィジュアル系の目が好きだった。アイメイクの奥の瞳は嘘を吐かない。カラコンをしてシャドーを塗りたくっても真っ直ぐに観客を見つめる瞳孔は偽れない。ステージから客席を見渡す美質な眦にいつも釘付けにさせられた。
大きな音の中で静かに目を閉じる。心の静謐と向き合うように音を聴く。この作業は大切なものだった。感情や情報。日頃の生活の中で得過ぎて肥大化したものを削ぎ落とすことで空気の入れ換えをするようなものだ。
美しく大きく聳える日本国旗。日章旗はどこまでも真っ直ぐで、微動だにせず一番高い位置にある。その下で演奏する彼らはまるでこの国が産み出したヴィジュアル系という文化を背負い、継承しているようにも思えた。
メジャーを走っているヴィジュアル系バンドのライブは凄まじかった。その刺激のまま、ぼくらもライブごとにそれぞれの技術やパフォーマンスが向上し、曲も増えた。変わらず演奏し続けている曲も編曲を重ねていき、さらに磨き上げた。曲に対しての向上心はバンド自体のそれに繋がる。
ライブといえば、ひとつ気になっていることがあった。
「ねぇ、いつも後ろの方にいる女の子、みんなわかる? 誰なんだろう」
ぼくはメンバーに向かって訊ねた。前列で曲に乗るわけでもなく、ただ後ろの方でじっと観ている子がいるのだ。熱狂的なファンという感じでもないが、毎回のライブに来てくれている。
「さっすがベーシスト。良い洞察力だ」
瑠衣が言い、
「ベーシストは関係ある?」
ぼくは苦笑して訊き返した。
「あれは瑠衣の幼馴染だよ」
颯斗が言った。
名前は美紅。長い茶色の髪を瑠衣と同じようにくるくる巻いている。獲物でも捕らえてしまいそうな野生のような大きな目で、派手なアイシャドーがより一層、鋭さを際立たせている。黒のジャケットに真紅のロングスカートは、そのままマイクを持たせればロックヴォーカリストにもなる出で立ちだった。格好は時々で違うが、大体そんな感じだった。
ただの幼馴染なのか、恋人なのかは瑠衣以外知らない。やんちゃな瑠衣も「ロックは女、酒、煙草」を地で行く颯斗とは違って、女遊びはしていない様子だった。それは美紅の存在があったからなのかもしれない。
「十や百の批判があっても、一人に響けば良い。その『一』は俺にとって十や百の嘲笑よりも大きい。だからいつもその一人に届けるために俺は歌っている」
瑠衣が言っていたその「一」は、美紅のことなのかもしれない。ぼくは何か納得出来た気がした。
ぼくが美紅の存在に気付いた頃、瑠衣は積極的にシャウトを取り入れるようになっていた。まるで、表現方法や技術という枠を超えた魂の叫びだった。ぼくは初めて本物のシャウトを聴いたのかもしれない。シャウトが格好良いと思わせてくれたのも初めてだった。最高のヴォーカリストだと思った。
だが、傍から見てもわかるほど、喉を酷使し過ぎているようにも思えた。何か有形の物体でも吐き出すのかと思うほど、デスヴォイスは観客だけでなく演奏しているこちら側まで震撼させる。さらに瑠衣はライブ中、観客を煽り激しいヘドバンを繰り返した。それにファンのみんなも合わせて頭を振る。ライブが終わると、瑠衣はまるでフルラウンド闘い抜いたボクサーのように体力を消耗することもあった。
そんなフロントマンの全身全霊の演舞もあって、バンド活動自体は好調だった。それは周囲の環境の変動もあって感じていたことだった。
ともに対バンしたバンドが次々に解散して行く。初めはどこか敵対心を抱いていた連中も、対バンで顔を合わせるたびにいつしか互いを認め、高め合う存在となっていた。
「悔しいけど、ここまで。でもお前らならきっと良いところまで行けると思うから頑張れよ。応援してっから。将来自慢出来るくらい大きくなってくれよ」
そんな言葉を残して戦友とも言うべき仲間たちが去って行く。
まるで綺麗な白い雲が突然灰色の翳りに変わってしまうかのようだった。そのたびにぼくらはバンドが織り成す奇跡を信じて進むしかなかった。走り続けなければ、次の瞬間すら気付いた時にはもう戻れなくなってしまう。
後ろからどんどん崩れる螺旋階段を落下しないように必死に走り続けているようだった。今のうちに少し無理をしておかなければならない。やり切らなければ、二度と明日が来ない気がしていた。
大手レコード会社傘下のインディーズレーベルの社員が声をかけてきたのはそんな折だった。話し合いは演奏後にそのままライブハウスの控え室で行われた。
「インディーズでは通用するかもしれない。けど––––」
「けど、何ですか」
颯斗は木で鼻を括るように訊き返した。
「メジャーに行くにはアレンジ変えないと無理かもね」
その言葉を聞いた颯斗はせせら笑い、
「やっぱりそんなことだろうと思ったよ。冗談じゃねぇよ。迎合なんかする気ないね。俺たちはこのままで充分だ!」
嵩押しする相手に、怒気を込めて言い放った。瑠衣がそっと颯斗の前に手を差し出し、制止する素振りをした。が、違った。
「どんなにボツと言われても、この曲じゃなきゃ駄目なんだよ! この曲を世の中に出すために俺はロックやってんだよ!」
二人の剣幕を前に戸惑う相手を見て、収拾を付けなければならない。
「もしぼくらの音楽が選ばれないのであれば、それは余程センスのない選考者だということです。ならば自分たちで発信する方法を選びます。今の時代、インターネットを駆使したり、いくらでもありますから」
ぼくも事を収めるつもりが火に油を注いでしまった。話している途中に、あーしまったと思ったが止まらなかった。冷静な態度が向こう方を逆撫でしたようだ。
「君たち、ちょっと傲慢じゃないか。他人の意見も聞けないようなら、伸びないよ」
それを聞いた忍が持っていたドラムスティックを振り上げた。さすがに暴力はまずいと思い、ぼくと瑠衣が止めに入った。大人しかった忍の狂気じみた形相を前に相手は逃げ出してしまった。
「ぷっ、はっ、はっ。どうだった? ぼくの演技」
忍は茶目っ気たっぷりに言ったつもりだろうが、それが逆に狂気を醸し出していた。おそらく演技じゃなく本気だったのだろう。それが忍なりの叙情であることをぼくら仲間内だけが知っている。
「忍がああしなきゃ、俺が殴ってたぜ」
颯斗は煙草に火を点けながら続けた。
「大体、業界の人間だからって偉そうなんだよ。自分たちが精査して選ぶ側だと思って正義を気取ってやがる。いつまでもな。虫唾が走るね。本当のロックの生をわかってない。だからそのうち、俺たちがわからせてやる」
あたかも自分たちが世に送り出してやっているという上から目線の尊大さに辟易していた。傲慢という言葉が当てはまるのは向こうの方だ。
押し付けられる他人の物差しに縛られて不自由な根は張りたくない。ただそれだけだった。あくまでぼくら一流のやり方で進んで行くことを青いと言いたければ言えばいい。しかし、そんな青さすらも信念であり、それを忘れたらお終いなのだ。数年後の自分たちに笑って逢うために自分たちを見失わないように必死だった。ヘブモンが存在する限り、ぼくの中に一切の迷いはなかった。
「まぁそんな論争はいつの時代も付き物だ。俺たちの時代もよくあったよ」
いつの間にかぼくらもRock Tripで堂々と酒が呑める年齢になっていた。カウンターで呷りながら店長に愚痴を聞いてもらった。
「でもそれはお前たちの音楽が少なからず認められてきた証拠じゃんか。それに、ロックンローラーはそれくらい尖っていないとな」
「そのとおり。強気を挫き、すべてに背いて、すべて敵に回しても、貫き通すべき矜持がある。結果的に失うものがあっても、信念をねじ曲げて後悔するよりは貫通した方が良いと俺は、思う。それが男の切なさだ!」
お客さんに付き合わされて酔狂した颯斗が声を荒らげた。男の切なさ。確かにそれを体現、表現しているギタリストをぼくも好んで聴いていた。颯斗はまさにそんなギタリストだった。
先に甲論乙駁したインディーズレーベルとは違い、自分たちの音をわかってくるところがあるかもしれない。いや、わかってもらおうなんて思っちゃいない。わからせてやるのだ。これからも沸き起こる情動をすべて曲にぶつけよう。銘々そう心に誓い、四人でレコーディングした音源をレコード会社に送ることにした。
レコーディングした音源がポストに投函される瞬間、自分の手から離れるような感覚が確かにあった。メンバーに素案となるデモを聴いてもらった時もそうだった。
そうだ、離れて行くのだ。自分だけのものであったものを段々披瀝するように。本当は大切であるがゆえに自分の中だけに留めて置きたいが、何かそれ以上のものを求めているのも確かだ。同意を求めているのかもしれない。
「格好良い曲が出来たから聴いてくれよ」
そう世の中に問いかけたいのかもしれない。もしくは仲間の存在を誇示するように、ヘブモンを自慢したいのかもしれない。いや、何よりバンドを始める前の一人ぼっちだった自分自身に伝えたかったのかもしれない。こんな素敵な仲間に出逢えたことを––––。
そしてぼくらの音に何か反応が起こることを期待した。しかし、これがすべての崩壊に繋がって行くなんて、ぼく自身はもちろん、メンバーの誰も予期していなかっただろう。
【その六】
瑠衣は何を想い歌っている? 誰を想い歌っている? その後ろ姿にベースの音で問いかけていた。より太く、より強かになった歌声は以前にも増して激しさに磨きがかかっていた。
瑠衣を筆頭に、ぼくらの意気がいつも以上に揚がっていたのは、次のライブが重要なものだったからだ。名の知れたヴィジュアル系バンドの前座で演奏出来ることになっていた。当然レコード会社の関係者も観に来る。それだけじゃない。送ったデモテープを聴いたレーベルの関係者もそこに来ることになっていた。
「もしかしたら俺たちこのままデビュー出来っかもな」
颯斗は喜び勇み、ぼくらも悦に入った。
順調だった。何もかもが。ヘブモンのベーシスト。これがぼくにとって何よりの矜持だ。ヘブモンに付いて来てくれるファンがいる。ステージに向かって拳を振り上げてくれるファンがいる。転びそうになるとその熱気が全身を包み込み、舞台へと繋ぎ止めてくれている。
徐々に崩れて行く序章なんて感じ取れるはずがなかった。どこまでも前に進んで行けるはずだった。ところがバンドという四角形の城に少しだけひびが入り、束の間、つまずいた。
「瑠衣、今日あんまり声出てなかったな。大丈夫?」
「わりぃ、わりぃ、ちょっと上がっちまった」
「瑠衣が緊張することなんてあるんだ」
「あるわ。何でちょっと嬉しそうなんだよ」
居直った瑠衣に少し安堵した。しかしそのライブ以降、瑠衣の声が本調子を取り戻すことはなかった。高音が出にくいようだった。リハをしていてもどこか苦しそうにしていた。
それでも、
「大丈夫、大丈夫、本番までには何とかするから」
と言い張り、数回ライブをこなしたがやはり声がくぐもる感じが多くなっていた。時々歌が歌として成り立っていないようなこともあった。少し休息が必要と考え、ぼくらはRock Tripに集まって今度の活動について再び合議した。結論はひとつだった。
「一度、ライブ活動を中止することにしよう」
颯斗の提案に誰一人、異を唱える者はなかった。あるインディーズレーベルから話がしたいと声をかけられていたが、取り立てて返事を急ぐことはなかった。
瑠衣の声が回復しなければ、ヘブモンの存続もない。情況を把握し、受け容れていくしかなかった。取り返しの付かない事態になる前に先手を打ったつもりだった。瑠衣は俯き申し訳なさそうに、すまんと呟いた。
「美紅、あいつどうなんよ」
Rock Tripに顔を出した美紅に颯斗が問い質した。
「うん、私にもよくわからない。単なるスランプとは違うのかも––––」
「あのさ、初心に帰らない?」
「初心?」
ぼくの問いに颯斗が眉を上げて訊き返した。
「久しぶりにさ、昔みんなでコピーした曲でもやって気分転換しようよ。ロックに目覚めた時の好きな歌なら、瑠衣もまた本来の調子を取り戻せるかも知れないし」
そうに違いない。これはほんのひと休みに過ぎない。またライブハウスでみんなで轟音を出して演奏出来る。それまでの辛抱だ。ぼくはそう信じて疑わなかった。
場所はスタジオでも良かったが、Rock Tripにしようと合致した。ここに機材を置いてから、もうずいぶんと時間が経っていた。マイクスタンドにスピーカー、アンプ、電子ドラム。すっかり店のオブジェのひとつになっていた。久しぶりに来ても埃がかぶっていないのは店長の優しさだろう。
コピバンとして初めてヘブモンのライブをした日のことが、まるで昨日のことのようだった。選んだ曲は、ぼくが瑠衣と颯斗に初めて出逢った日にスタジオで一発目に合わせたあの曲だ。忍も含めて全員が大好きな曲。しかし、そこで決定的になってしまった。入ったひびの大きさが実は大きかったことに、ぼくらはようやく気が付くのだった。
忍のドラムスティックがいつものように四拍告げて曲の出だしを合図する。そのカウントに合わせて一斉に楽器隊が演奏し出す。初めて音を出した時に比べても確実に厚さが増している。
イントロの終わりが近付き、Aメロが間近に迫る。楽器隊のぼくらは瑠衣の声を期して待っていた。
さぁ、もうすぐだ。もうすぐ曲として成り立つ。ここからまた始めれば良いんだ。いつだって、この始発点に戻れば良いんだ。このメンバーとなら大丈夫なはずだ。しかし、淡い期待は行き先を失くした物の音とともに途切れた。後悔は突如、予期せぬ時にやって来る。気付いた時に、あーやっちまったと臍を噛んでも遅い。後悔のない人生も、後悔のない生活もない。
「それならまたそっから始めりゃ良いじゃん」
颯斗の口癖だった。いつもなら、このメンバーでなら、そうだった。でも今回は違った。瑠衣は歌えないのだ。完全に歌うことが出来なくなっていたのだ。誰もそれに気付けなかった。瑠衣本人でさえも。
演奏を止めて、ぼくと颯斗は立ち尽くし、忍はドラムセットの向こうから呆然と前を見つめていた。瑠衣はスタンドマイクを両手で握ったまま俯いていた。その背中に何か悪寒にも似た嫌な感覚がぼくを襲った。
「瑠衣……」
ぼくが問いかけると、
「すまん」
小さく呟く声が聞こえた。
「瑠衣、一度病院に行った方がいい!」
語勢を荒らげた颯斗の言葉に瑠衣は力なく頷いた。ぼくらの想像以上に瑠衣の様子は逼迫していた。大好きな歌も歌えないほどに––––。
「音声障害––––!?」
ぼくらは声を揃えて一斉に訊き返した。瑠衣の診断結果だった。歌おうとすると声が出なくなる。言うなればスポーツ選手にあるイップスのような感じなのだろうか。その例えが正しいのかも、間違っているのかも、それが歌い手に当てはまるのか、そうでないのかも、ぼくらにはわからなかった。おそらく瑠衣自身もそうだろう。
歌い手は楽器隊と違って、露骨に体調や情動が声音に現れる。それがメジャーやインディーズレーベルを意識して、重圧になったのかもしれない。頻度の多かったライブで喉を酷使し続けたのも素因なのかもしれない。はっきりした原因はわからなかった。
ただひとつわかったことは、一度はまった地獄の沼から抜け出せず、もがこうとすら出来ないほど深みに沈んで行く一方だということだ。本当は抜け出したい、建て直したいとは思っても、崩壊した理性がただただ壊滅を待っているかのようだった。
ライブだけでなく、バンド活動自体が完全に停止した。あれだけ熱意を持って取り組んでいた曲作りも中断となった。
「曲はさ、また仕上げたい時に集まれば良いよ。創作意欲が大事だからさ」
颯斗の呟きにいつもの語勢はない。
それからの瑠衣は明らかに弱っていった。覇気もなく、Rock Tripに行くと、カウンターの端でいつも泥酔している。堂々と舞台で演舞していた彼が今では酒に長じ酔態を演じているのだった。
「瑠衣、もうそれ以上はやめろ」
颯斗の諭す声が店の扉の外まで聞こえて来ることもあった。そんな強い酒を呑んだら喉が焼けて掠れてしまうのではないかという周囲の心配も尽きなかった。
「瑠衣、大丈夫?」
ぼくや忍が声をかけるも、
「うぅ」
と、虚ろな視線で肘を付いたまま項垂れるような返事しかなかった。
うらぶれた瑠衣の状態が続き、颯斗も途中から彼に酒を出すことをやめた。カウンター席から見えないように薄めるか、情況によっては全くアルコールを入れずに出していた。
「なんか薄くない?」
訝る瑠衣の問いかけに、
「そりゃお前、それだけ呑んでたら嫌でも強くなるわ。酒に強くなったんだよ、お前が。だからそう感じるんだよ」
そう誤魔化していた。
ぼくと颯斗と忍はRock Tripが入るビルの裏路地に佇んだ。迫り来る終焉を微かに感じながら、そんなはずはないと必死に悪夢を打ち消す作業をぼくは頭の中でひたぶるに繰り返していた。
「何だか瑠衣に酒をやめろと文句ばっかり言っている自分が嫌になって来たぜ。結局それって自分の力じゃどうしようも出来ねぇって言ってるのと同じに思えて、無力感しか残らねぇんだ」
颯斗はため息とともに煙草の煙を吐き出した。
瑠衣を救いたいと思っても、何も出来ない。それは颯斗だけじゃなしに、ぼくや忍も同じだった。
瑠衣にとっても、ロックしか、ヘブモンしかない。歌しかないのだ。それはみんな一緒だった。だからこそ、瑠衣の精神状態がわかる。歌えないことが、どれほどの艱難辛苦をもたらすのか。もし自分たちが楽器を弾けない情況になってもきっと同じだろう。換言すれば、好きだったものが突然出来なくなった時、それは錘と化してしまう。
「この曲を世の中に出すために俺はロックやってんだよ!」
いつか聞いた言葉は、つまりこうだ。
「この曲を世の中に出すために俺は生きてんだよ」
ロックと生きるは同等なのだ。ならば、バンドがなくなったらどうなってしまうのだろう。突然現れたその恐怖にぼくは慄いていた。どんなに周りのバンドが解散しても、うちだけは大丈夫だと本当はどこか対岸の火事だったことに今さら気が付いた。
それでも尚のこと、信じるしかなかった。今がどんなに苦しくても、きっと自分たちの生み出す音を待ってくれている人たちがいる。今はまだ出逢えていないファンだってきっと未来には待っている。どんな形でもロックし続ける。そのために活動停止の選択をしたはずだった。いつだって決断し続けてきたはずだった。
「あいつが––––、あいつの声がもう一度出るまで––––」
颯斗が絞り出すような悲痛な声で呟いた。
ぼくも忍もそう信じて疑わなかった。それから一年経っても瑠衣が歌えなかった現実を知るまでは––––。
【その七】
ぼくは自分自身に異変を感じていた。アパートを出る時に鍵をかける。当たり前の行為だ。しかし、本当はかかっていないのではないかと不安に駆られ、ひどい時は駅まで行ったのに確認に戻ってしまう。何度も確認を繰り返してしまう。それだけで大きなタイムロスとなる。
シャンプーをする時にボトルから手の平にプッシュする。当たり前の行為だ。しかし、その瞬間に何か自分にとって不吉なことが頭の中に渦巻いていると、それを手の平から洗い流してもう一度新しい泡をプッシュし直す。そのまま頭を洗ってしまうと、不吉なことが自分に降りかかって来るのではないかという恐怖に駆られるからだ。
無意味なことを無意味と認識出来ず、何度も同じ行為を繰り返してしまう。同様の理由で、パソコンの電源も何回も入れ直してしまう。携帯の写真撮影でも、何度も同じ被写体を取り直してしまう。携帯やパソコンで文字を打つ時も何度も同じところを打っては消し、また打ち直してを繰り返す。ポケットから財布や携帯を取り出す時、何かそこから落とし物をしていないかも逐一、必要以上に確認してしまう。
一番厄介なのは、中古で購った車を運転している時だ。マンホールの上を通った時の少しの物音や道路の凸凹で、ガタンと車体が揺れるだけで、人にぶつかってしまったのではないかと確かめに戻ってしまう。
その確認行為を何度も繰り返し、三十分、一時間、二時間と行ってしまうこともあった。その分だけ帰宅時間も遅くなり、帰った頃にはぐったり疲弊してしまう。実際には轢いてないと頭の片隅ではわかっていても、確かめずにはいられなくなる。それも、一度目の場所を確認に行くたびに違う場所でも轢いてしまったのではないかという風に頭の中で二次災害が起こり、無限ループに陥って、次の場所、また次の場所と確認するところが増えてしまう。まるで家に帰ることを見えない何かに阻害されているようだった。
ただ神経がすり減っていくような感覚だけがぼくを支配している。日常生活にも支障を来たすほどだが、家族にも周りにも言えずにいた。何と説明していいのかもわからなかった。大学を中退して以来、実家を出たままだったので、家族には殊更相談出来るはずもなかった。例え話したところで、きっと理解されないだろう。
「気のせい、考え過ぎ、ただ一寸神経が行き過ぎているだけ」
そんな風に片付けられてしまうことも怖かった。そうじゃない。明らかにおかしいのは自分自身がよくわかっている。わかっているのに止められないこの行為は何なのだろう。ネットで調べようにもどう検索すればいいのかわからなかった。
心療内科にも行ったが、自分の口からこの症状を上手く説明することが出来なかった。医者と全く話が噛み合わず、段々と目の前の医者にも自分自身にも苛立ち、結句腹に据えかねて診察室から飛び出してしまった。以来、病院に対して不信感を抱いた。
何だ、何なんだこれは。早歩きと同じ速度で頭の中で問いかけた。答えなんてどこにも見つからず、途方に暮れるしかなかった。
一体何なのだろうか。あれ以来、ずっと付きまとうその厄介事の素因がわからずにいた。そう、確実にあの時以来––––。
ぼくはまた暗い部屋で一人、塞ぎ込む日々に戻った。何をするわけでもなく、ただ日常が流れていく。それでも何かしなければと思い、資格でも取ろうか考え始めた。ただひたすら、付きまとう何かに翻弄され、ストレスを感じながら。
みんな元気にしているだろうか。そう、今も折節ロックに触れることはある。気になる曲、気になったバンドを調べる癖はなかなか抜けない。当節、図書館でもCDが借りられる。しかも、結構な種類が揃えられており、邦楽から洋楽、クラシック、ジャズと、ジャンルも様々で、比較的新しく発売されたアルバムなんかもあったりする。
あれ以来仕事に就いては辞めてを繰り返し、金がなかったぼくには一度に三枚も借りられるのはありがたいことだった。一方でただでさえCDが売れなくなった時代にこんなことまでが許されて良いのだろうかと余計な心配かもしれないが、思ったりもした。
パソコンにインストールする時は反復行為に苛まれたが、ただなので試しに知らない洋楽バンドのアルバムも直感で手に取って借りたりした。そしてバンドの経歴をWikipediaで調べる。その癖によって、素因がわからなかった異変が何であるのか、意外なところで知ることになった。
とあるロックスターのプロフィール。––––に苦しんでいた。
見たことのない文字に首を傾げながら、ぼくは咄嗟にそのページに飛んで症状を調べた。
「何度も確認行為を繰り返す」「儀式的に同じ動作をやり直す」
同じだ。これだ。ぼくは確信した。全部が全部、隅々まで当てはまるわけではなかったが、ほぼ間違いなかった。試しに先刻と違うメンタルクリニックに行った。
「強迫性障害だと思うのですが」
「えぇ、強迫性障害とそれに伴う鬱でしょう」
合っていた。ただそれを確認するための診察。
強迫性障害––––強迫神経症とも言われ、英語の略表記はOCD。症状や度合いは人によって様々で、強迫観念は誰にでもあるが、軽度だったり重度だったり人によって差異があるらしい。ぼくの場合はどちらなのかは訊かなかったし、訊いたところでどうなるものでもないと思った。
「薬はどうしましょうか」
「どんな薬ですか」
「精神安定剤か抗鬱剤です。強迫性障害専用の薬というのではなく、それらの薬で症状を緩和するもので、不安や強迫観念を和らげるという認識です。ただ脳をぼーっとさせて和らげるので、少し眠くなったりします」
脳をぼーっとさせる。思考の回転が遅れるのだろうか。そもそも専用の薬じゃないもので、本当に良くなるのだろうか。精神安定剤や抗鬱剤の名前くらいは聞いたこともあるが、使ったことのない薬に恐さもあった。そこでぼくの思考は停止してしまった。
先刻と違う病院とはいえ、病院そのものに抱いてしまった不信感も拭えなかった。帰ってから薬についてインターネットで調べたが、服薬にはどうも抵抗があり、副作用という実態の知れない言葉にも薬と同様に恐れがあった。他に行動療法という治療法があることもわかったが、それも通院が必要で、そこまでの気力を今すぐには持てずにいた。
無論、強迫性障害とわかったからといって、確認行為や反復行為が止まるわけではない。強迫観念を打ち消すための行為は続いてしまう。たまに触れるベースのフレーズもわけもなく同じフレットを何度もなぞってしまう。そうしないと気持ちが悪いのだ。無意味な行為の連続はやがて自分の存在そのものへの無意味さへと浸透し、自身を落胆させた。
そのうち強迫性障害は脳のセロトニンの伝達に異常があるという説を目にし、単純に脳の異常と捉えたぼくは絶望の淵に立たされた気がした。
思えば、小学3、4年生くらいの時からだった。母の運転で助手席に乗っていたら大型トラックが飛び出してきて、急ブレーキを踏んだ時、ぼくはフロントガラスに頭から突っ込み、ガラスは蜘蛛の糸のように大きなひびが入った。
その時、母はぼくをすぐに病院には連れて行かず、夜になって父がそれを知り、激昂してようやく病院で診察した。異常はないということだったが、町医者程度で精密な脳の中を詳細に調べられるはずがない。
母はなぜすぐにぼくを病院に連れて行かなかったのか。母には他に優先すべきことがあったからだ。
今思えば、あの時からぼくは少しずつ強迫性障害の症状が出始めていた。それがバンドという夢中になれるものが見つかり、その時だけはおかしな症状は出ていなかったが、そのバンドが崩壊し、一気に症状が出始めたに違いない。
もう、どうすることも出来ないのだろうか。ともすれば薬での治療が必要なのだろうか。脳の異常が本当に薬以外の行動療法でも改善されるのだろうか。まずは行動療法を試してみる他ないということはわかっていたが、もはや何に対しても気力が持てなかった。
病は気からと言うが、このセロトニンの伝達は心持ち次第で改善されるのだろうか。一方で今のぼくには到底無理な話だ。仕事やバイトに就いても長続きしないのは、強迫性障害の余病から来る鬱症状もあったろうが、それだけじゃない。何をやったら良いのかわからなかった。本当の自分さえわからない。大切なメンバーがいなくなってから、生きる目標も見出せずにいた。
そうだ、ぼくは大学にすらまともに通えなかった人間じゃないか。もともとの欠陥人間に戻っただけだ。それだけが確かじゃないか。順調だったバンド活動の日々は一瞬夢を見ていただけに過ぎない。出来ない自分はきっとやらないだけの自分なのだと息巻いてバンドに打ち込んでいたかつてのぼく自身の姿は、どこか他人のように遠くなっていた。今はただのバンドマン崩れ。髪も中途半端に未練を残すような長さで所々茶色がかっているだけ。
それでも皮肉なことに、こんな自分でも生きていて良いと教示してくれるのは、ロックの音の中だった。むしろもっと限定されてしまい、いや、かえってその枠組みの中のみにおいては、よりその意識が明確化されたとも言えるだろう。ヘブモンの音の中にしか自分の存在意義を見出せる場所がなかった。それだけが生きるということだった。
ぼくのような大きな欠陥のあるどうしようもない人間を救済してくれるのは、宗教でも、世間に溢れる誰かの言葉でも、その他あらゆるもののすべてでもない。あの三人と一緒に奏でた音の中だけなのだ。そしてこの心の叫びはもう誰に届くことも、叶うこともない。
そうか。もうバンドが解散した時点で、青春は終わったんだな。ぼくはそう自分を納得させることで、半ば人生を諦めてもいた。
それでも感情をぶつけられるものは作曲以外に見当たらなかった。むしろそんな情況だからこそ、曲を作るという行為に走らせてもいた。以前と違うのは目的がないことだ。誰に聴かせるわけでもない。聴かせる相手もいない。
早く次の仕事に就かなければならないのに、面接に行っては落とされている。翻ってそのたびにどこかで安心していた。まだ曲作りに専念出来る時間がある、と。この曲を完成させなければ、前には進めない。そのことだけがぼくの中ではっきりしていた。焦れば焦るほど、苦しめば苦しむほど、その心情がメロディーや歌詞に変わる。
Amから始まるコード進行。その旋律に名はない。捨てられずにいた作曲用の安価なエレキギターの弦をピックで勢いよくストロークしながら、鳴らすコードに詩を乗せた。
宿痾に悩む自分自身をモデルにした暗い詩だった。それでもぼくは曲を作り続けた。DTMの前でたった一人、ひたすら向き合う。パソコンの画面の中でハイハットやタム、スネア、それらを一音一音打ち込んで、リズムを作る。実際のドラムの演奏に比べるとかなり地味な作業だった。そして出来上がったものを再生して呆然とする。
くそ、何だ、このリズムは––––。忍だったらこう叩くのにな。もしくはこんな感じでと頼めるのに。嘆いた心の声を実際に口にすることはなく、またやり直す。何とかそれっぽいリズムが完成すると、次はベースをオーディオインターフェースに繋ぐ。派手なフレーズはない。コードをなぞった単調で地味なベースラインだ。自作したドラムのリズムにはそんなものしか浮かばなかった。
次はギター。まずはパワーコードでリズムパートを弾き、その後にリードパート。
うーん、バッキングはそこそこなのにギターソロでのチョーキングがどことなく音痴だ。颯斗のように泣いたり叫んだりするようなギターソロは弾けなかった。
音との格闘以外にも襲って来る強迫性障害の症状と闘った。ここでも無意味に何度も音を録り直して、反復行為をしてしまう。せっかく良いテイクが録れても、何か不吉なことが頭に張り付いていると、それを消してでもやり直してしまう。そうしないと気持ちが悪い。それでも作り続けるしかなかった。
必ず、模索している音が見付かるはずだ。夜通し没頭して、朝焼けを確認してから寝る。
そして、出来上がったインストを聴いて気が付いた。何もない。ただただ「無」だった。無機質だった。魂が込められた音は人を奮い立たせ、聴く人に自信や生きる活力さえ得られるだろう。しかし、この曲が日の目を見ることはない。なぜなら、歌を歌うことが出来なかった。頭の中に歌メロはあるのに、瑠衣の声だけがない。瑠衣の歌が聞こえない。それはただただ空虚な生活そのものを意味していた。
結局、何も残らなかった。ぼくは一体何をやっているのだろうか。毎日がそう思う瞬間の連続で、何かしようとすると結局、自分は何をやっているんだろうと虚無感に苛まれる。
だが、決して無駄な作業とは言い切れなかった。歌が乗らなくても音にして吐き出すしかなかったからだ。この作業はぼくにとって最も自然な生き方でしかなかった。ロックでいることが自分を自分たらしめる。だから、これからも吐き出すように作り続けるだろう。足枷やしがらみがなくなるまでただ我慢して、訪れるはずのない、いつかの救済に備えるように、没頭して行くのだろう。その都度、虚空を感じたとしても––––。
ヘブモンが最高だとわかってしまっている以上、新たにバンドを組んで曲を披瀝する考えもぼくの頭にはなかった。組めるはずがなかった。きっと颯斗も忍も同じだろう。
綺麗過ぎる物質の輝きを維持するために、触れて穢すことが出来ない。あのメンバーでなきゃ、駄目だ。それは一人になって尚更感じていたことだった。
颯斗から連絡があったのは、そんな満身創痍の日々の間隙だった。突然の連絡に戸惑いながら待ち合わせの喫茶店に着くと忍もいた。窓際のボックス席に向かい合って坐っていた二人と挨拶を交わし、ぼくは忍の隣に腰かけた。こうして集まるのはすべてが崩壊したあの時以来だった。
忍の髪も随分と短くなり、トレードマークの銀髪もすっかり黒く落ち着いていた。颯斗はまだそこそこの長さだったが、それでも以前よりはさっぱりし、どことなく雰囲気も変わって見えた。それぞれの風貌の変化が月日の流れを表象していた。
バンドという形態だが、真実は絆の上に成り立っていた。あくまで四人でひとつだった。その一片がなくなっただけで、すべての均衡が崩れた。あの時、仮に新しいヴォーカリストを加えても間違いなくぼくらは受け容れられなかっただろう。
実際はそんなところまで思考も回らないほど、全員が衰弱していた。いや、仮に今決断を迫られても同じだ。ヘブモンのヴォーカルは瑠衣しかいないのだから。ましてやプロになれる保証なんてどこにもなかった。解散が妥当だった。そうするしか気持ちの収まりようがなかった。その最悪の選択が最善の選択だった。むしろ残された唯一の選択でしかなかった。
「あれからしばらくは何も考えられなくてさ。でも、あいつの歌声が頭から離れなくて、しんどかったよ。だからそれをかき消すために、脳内で再生されるあいつの声を自分の声で上塗りするためにボイトレに通い出したんだ。そしたら段々、あいつの声と自分の声がミックスされて行くようでさ。今度はそれを振り切るように作曲に没頭したんだ。ひたすらギター弾いて、DTMで記録してさ」
颯斗は苦しみの果てに見失ってから今日までの日々をそうまとめた。やはり、颯斗も曲を作って吐き出すしかなかったようだ。
ぼくも忍も相槌を打ちながら聞いていたが、やがて颯斗は俯き、黙り込んだ。沈黙に耐えられずぼくが忍の頭越しに窓外を見遣ると、忍も同じように窓の外へ目を向けた。
ぼくらが坐った席が窓際だったことに何だか少し救われた気がした。少しの沈黙の間にそれぞれが本来ならここにいるべきはずのもう一人の存在を想ったに違いない。
「それで––––」
颯斗が言いかけてぼくらはもう一度視線を合わせた。
「あの時、前座でやったライブの時に声をかけてくれたインディーズレーベルの社員がいただろう。曲作って、自分で歌って、デモテープ送ったんだよ。そしたら、うちから出さないかって言われてさ」
「え––––」
颯斗はまだ諦めていなかった。ロックスターになる夢も、憧憬も。一度は蹴散らせたはずの目的を再燃させていたのだった。
「本当に?」
ぼくは思わず訊き返した。
頷いた颯斗はどこかばつが悪そうだった。
「す、凄いじゃん」
感嘆する忍に、
「っ! でも、ソロでって話なんだよ……」
颯斗は肩を落とした。
「お前らと一緒に走って来たのに、一人だけっていうのはなんか後ろめたくてさ」
いつもの颯斗らしくないか細い声だった。
「何言ってんだよ、颯斗。絶好の機会だよ」
ぼくは言下に告げた。
「そうだよ、もし売れたら自慢するからさ」
忍も背中を押すように言った。
「きっと瑠衣も––––で喜んでいるはずだよ」
思わず漏れたぼくの声は二人にも聞こえたはずだ。しかし聞こえない振りをしているのだろう。ぼくも口にした途端に気付き、言わなかったことにした。
瑠衣と颯斗には常に前を走る存在でいて欲しい。しかし、颯斗の表情は悲痛に満ちていた。眉間に深く皺を寄せて何かを言いたげだが、黙っている。
「どうかした」
ぼくが問いかけると、次の瞬間、雷のような語勢が響いた。
「お前ら、ヘブモンの曲、練習しとけよ! 絶対に!」
「ど、どうしたの急に」
困惑した忍が眉をひそめた。
「いいから、絶対、ベースとドラム練習しとけよ。っつうか俺たちの曲、忘れんなよ。約束だぞ。破ったら承知しねぇからな!」
ボイトレの成果なのだろうか。まくし立てた颯斗の声音は風を切り裂くような迫力があった。それに気圧されて、ぼくらは首を縦に振った。諾う様子を確認すると、颯斗は悲壮に満ちた表情で去って行った。
まるで嵐が去ったような後の店内で、残されたぼくらはしばらく唖然としていた。そのうち、ぼくと忍は自然と四方山話を始めた。
忍は子供にドラムを教えるバイトをして、何とか生計を立てているそうだ。何より、大人よりも子供と接する方が彼には合っているらしい。
「子供って素直に叩くんだよね。最初はめちゃくちゃな叩き方なんだけど、あれが本来の表現方法なのかもって思うんだ。表現方法と思っていないことが本当の表現なのかもね。それに比べると技術の向上を求めるぼくはむしろ型にはまっているのかな。しかも、何のために求めているのかも今はわからない。あの時の癖というか、習慣がそのまま、それだけ、残っちゃっているんだ」
忍はしんみりと言葉を列べた。
「ぼくはね、日和。どこかでちゃんとした人間になろうとするのを自分自身で拒んでいるのかもしれない」
「ピーターパン症候群みたいな」
「うん、でもそれともちょっと違ってて、子供のままでいることが、どこかでロックをやるってことと通じている気がして。無意識に大人になることを拒否しているのかも。今のバイトは自分がドラムを始めた頃の純粋な気持ちとかを思い出せるんだよね」
「ガキのままいるからロックなんだろ」
颯斗が昔そう言っていたことを思い出した。
忍はやはりドラムが好きなのだろう。ぼくの目には彼が以前よりも少し頼もしく映じ、積極的になったようにも感じた。同時にそれは先にも感じた月日というものを尚更感じさせた。
「日和もベース教えたら良いよ。日和の実力なら申し分ないよ。良かったらぼくのバイト先も紹介するし」
「いや、ぼくは––––」
忍にも颯斗にも病気のことは伝えていない。告げたところで余計な心配をさせるだけだと思った。言葉に詰まっているぼくを横目に忍はさらに続ける。
「原点に触れてみるのも良いと思うんだ。ライブでも良いしさ、また一緒に行こうよ」
「昔みんなで行ったなぁ」
思い起こされるのは、ステージで演奏するロックスターたち。それに呼応して拳を上げ、頭を振る観客。スタンド席からだとアリーナの客の動きがよく見えた。
横を見れば、「肝心のステージが見えづらい」と不貞腐れて肘を付いて坐る颯斗。
「立ってるの疲れた」と坐る瑠衣。
無愛想で派手な風貌の二人を怪訝そうに見ている他の観客。それを立ったまま心配そうに見ている忍。まぶたの裏側ですべてあの轟音とともに回想される。
「夢が叶わなくても尚、生きて行かなければならないのは時に酷だね。自分のプレーヤーとしての夢は叶わなかったけど、それを託せるようなアーティストを世に送り出したい。そうやって何年、何十年かかっても音楽に帰結したいよ。そう思ってドラム教えてるんだ。教え子たちが羽ばたいてくれれば、ぼくも少しは報われるからさ。目標が出来て、ようやく少しあのどん底から変われた気がするよ」
本当は忍のその先の声もわかっていた。
「本当はもっと変わりたい。本当の意味で変われるのはバンドしかない」
そんな声なき声が響いていた。真実は変わりたいというより、戻りたいのだ。あの頃に。
夢を叶えることで、初めて夢は叶うのだと言える。それが実現出来そうなのは颯斗だけだった。
然れど残された者たちの現実は皮肉な運命でしかない。運命を物語として受け止めるか、ただの結果として受け止めるか。受け止め方ひとつでだいぶ違ってくる。
もう現状を結果として受け容れるしかないことはわかっていた。もしそこに僅かな希望でもあれば、また物語として立ち上がれたのかもしれない。しかし、瑠衣がいない。ぼくが自分で作った曲が示したように、そこにはもう何もなかった。もう何もしたくなかった。帰ったらただただ深い眠りに就こうと決めて忍と別れた。
なぜ颯斗があれほどまでに強い語勢でヘブモンの曲を練習しておけと言ったのかはわからない。それでも颯斗がもし音楽業界に疲れて息抜きしたくなった時は、一緒に音を出して付き合うくらいは出来るだろう。そんな淡い思考でぼくは鈍らない程度には練習をした。
「俺たちの曲、忘れんなよ」
忘れるはずもない。ベースを手に取るたびに手癖で弾いてしまうのは、ヘブモンの曲なのだから。何十回、何百回、何千回、何万回もなぞったフレーズだから、指先に染み付き、もはや条件反射のようにこびり付いている。夢見た夢と同様、忘れたくても忘れられない。
細々とデビューした颯斗はインディーズレーベルからミニアルバムを出した。真っ直ぐなロックサウンドが五曲。ヘブモンで届かなかった夢をソロであっさり成し遂げてしまった。ライブも定期的に行っているようだが、ぼくが足を運ぶことはなく、ホームページやSNSを通じて活動を確認するだけだった。
「あっ、颯斗ギター変えたんだ」
「そのフレーズは颯斗の十八番だな」
そんな風に携帯の画面越しに心の中でつぶやくだけだった。それでも、繋がっている気がした。そう思わせるのは、颯斗のギターのステッカーだ。インディーズでのデビュー以来、彼のギターにはHM・Rと記されたステッカーが貼ってあった。きっとHEAVEN’S MONSTERの略称とRock Trip、瑠衣の頭文字のふたつをかけているのだろう。
忍ともそれ以来会うことはなかった。変わらずにドラムを教えているのだろうか。ヘブモンの曲は叩いているのだろうか。ひとつだけわかることは忍もきっと颯斗の音源を聴いているだろうということだ。
「ねー、ヘブモンって知ってる?」
「知らなーい。何それ。何かのキャラクター?」
「違うよ。HEAVEN’S MONSTERっていうヴィジュアル系バンド。昔ライブハウスで活動しててさ。割と好きだったんだよなー」
「全然知らないわー。今も活動してるの?」
「知らず知らずのうちに解散したみたい。何も公表とかされなくてさ。いろいろ噂とかあったんだけどねー。音源だけでもまたアップしてくれないかなー」
何気なく入ったファストフード店で隣から聞こえて来た声にぼくは驚き、固化しながらもどかしい気持ちになった。この子の中でまだヘブモンは生きている。颯斗、突っ走れ、突っ走れ。がんばれ、がんばれ。ぼくらの分まで––––。
陰ながら鼓吹する一方で、ぼく自身は立ち止まったままだった。誰と会うこともなく、別に何をするわけでもなかった。ただ曩時を回想して、そこからまだ先に進めない自分を確認するだけだった。生きているのか、死んでしまったのか、問いかけていた。自分自身にも、いなくなった瑠衣にも。
月日の流れの中で、重いベースを担ぎ続けてきたことによる慢性的な肩の痛みもいつの間にか消えてなくなりそうだった。なぜかそれが痛みであっても、そこにあり続けて欲しかった。
まるで鳥籠の中から外界から眺めているような、ただただぽつねんと浮世離れした生活を送るぼくは今さらになって、実家を離れる時に置いてきてしまったロック雑誌を手元に置いておきたくなったので取りに行くことにした。
バンドがなくなった今、あの頃の記憶を思い出させるものは何でも良いから近くに閉まっておきたかった。実家に行くことは意に染まなかったが、思い立った今でなければ行動出来ないと思い、忍び込むように家の前まで来た。が、薄暮が迫った外には家からの灯りが漏れ、一家団欒の笑声が聞こえてきた。夕餉の箸を進めながら近況を話す妹とそれを聞く両親の絵が浮かび、きっと理想的な家庭の姿がそこにあるのだろう。
「仕事をやっては辞めてを繰り返していい大人が何をやっているんだ。これ以上恥を晒すな」
きっとぼくが近況を話せば父にそう怒鳴られるに違いなく、妹はどこか優越感に浸った目でぼくを見るだろう。息子のためと言いながらそれは自分の精神的、世間的な枠内に当てはめるための利己的な言葉でしかなく、一方的に意見を押し付ける父は変わってはいないだろう。バンドを志した時もそうだ。自分がやろうとしていることを頭から否定されることほど、子供に取って卑屈で虚しいことはない。ロックをやることを全否定されれば、ぼくにとっては生きることを否定されるも同じだった。
実家を出る直前の父の言葉が頭を過ぎる。
「大体、楽器やるにしても音楽学校や教室に習いに行くべきなんじゃないのか。独学なんて無理だろう。だからお前は何もわかっていないんだよ。昔からな」
わかっていない? 逆に父はぼくの何をわかっているというのだろう。ぼくにとっての音楽学校は、作り上げたヘブモンそのもので、コピーしてきたバンドの曲が教師だ。
何もわからないくせに––––。なぜいつも全否定から入る? 父の存在すべてがロックンロールに反している––––。そしてぼくは飛び出したのだった。
「世間の常識を考えろ」
ベースを担ぐぼくの背中に聞こえてきた言葉だった。
「常識」
ぼくにはそもそも無縁の言葉だった。それは常識を覆すとか、常識を変えるとか、そういう格好良い立場にいるからではない。むしろ常識の範疇に収まり、普通になりたいとすら思う。でも出来ない。続かない。そして見失う。
いつの頃からか人生の軌条から外れ、気付いたらまともに日の当たる道を歩けず裏通りばかりだった。もう戻ることはない。たまに表通りを歩いてもすぐに裏路地に戻ってしまう。時には悲鳴とともに、時には沈黙とともに––––。思うように出来ない、思うように身体が動かない。未だに表通りを歩けず襲い来る孤独と闘っていた。
ぼくは実家の前から静かに踵を返すことにした。空を見上げると、もう暮夜になっていた。闇夜の中でただ一人の空間がそこにあった。あの時と同じだ。大学にいた時の暗く虚しい自分に戻ったのだ。ぶつけようのない口惜しさと取り止めのない悲憤にも似た感情が渦巻いていた。
【その八】
インディーズでの活動が高評価を得て、颯斗の名はじわじわと拡まっていった。やがて大手レコード会社との契約が発表されると、とんとん拍子でメジャーへ駆け上がった。ヘブモンで登れなかった階段をいくつも上がって行く。
発表されたメジャーアルバムも好評のようだ。しかし、そこには颯斗の好まない打ち込みの電子音が入っていた。昔、ヘブモンでも打ち込みを取り入れようか、一度議論したことがあった。その時に一番反対したのは颯斗だった。
「ピコピコした電子音も悪くねぇけど、そういうのはそういうのが得意なバンドがやりゃあ良いよ。俺たちは俺たちの音で直球勝負しようぜ。生音だけの方が瑠衣の声もスムーズに乗るし、まっすぐ伝えたい音を伝えられる気がする。だから俺たちには必要ねぇ」
打ち込みの音を取り入れるバンドも増えて来てはいたが、あれほどロックの生音にこだわった彼が今になって時流に乗ったとは考えにくい。ともすれば単純に音楽性が変わったのか、メジャーに行って出来る幅が増えたのか。はたまたレコード会社の意向なのか。
明確な理由はわからなかったが、それでもぼくはこのアルバムが好きだった。なぜならギターは間違いなく颯斗の音だから。その電子音が仮に本意でないとするならば、ギターの音は対峙し、せめぎ合うかのように闘っている。叫んでいる。ギターの音だけは紛いなく、ヘブモン時代から変わらない姿勢を踏襲している。
他の第三者にはわからないだろう。ギタリストからヴォーカリストにパートが変わるだけで、演奏する時の姿勢は当然かなりの差が出る。しかし彼のギターは変わらない。それは今も尚、彼がギタリストであることを強調しているかのようだった。ずっと側で見てきたごく僅かな人間ならわかるだろう。
有名な生放送の音楽番組に颯斗が出演することを知ったぼくは、彼のパフォーマンスを見届けようと十分前からアパートの小さなテレビをつけた。
すると、ふと携帯が鳴った。滅多にならない携帯なのに、こんな時に誰だろうと画面を見ると、驚くことに今まさにその姿を拝もうとしていた颯斗だった。もっと驚いたのは、メッセージの内容だった。
「くっそ、足が震える。昔音痴だと笑われてた俺がテレビの前で歌えるのか。しかも生放送で」
颯斗が弱音じみたことを吐くのが珍しかったが、なぜわざわざぼくに送って来たのだろう。やはり歌を歌うというヴォーカリストとしての立ち位置はギタリストと違うのだろう。彼はおそらく重圧と闘っているのだ。アテレコでなく、きっと生歌にこだわるからだろう。それも過ごしてきた時間を思えば何となくわかることだった。
何と返そう。考える時間はない。がんばれ、応援してる。いや、そんな月並みな言葉じゃ駄目だ。そうだ、あの時のあれだ。
「初めてRock Tripで演奏した時、失敗こいてみんなで大笑いしたよね。でもあれこそが、ぼくにとってはロックだったよ。例え失敗して、テレビの前の何万人が蔑んでも、ぼくも忍も、瑠衣も、あの頃と一緒だよ」
もしかしたらもうスタンバイに入って読んでいないかもしれない。そう思って携帯を置きかけると、すぐに返事が来た。
「ふっ、思い出して笑っちまったよ。俺、あいつの分まで歌ってくるわ。一丁、かましてやる」
携帯を置くとすぐに番組が始まり、間もなく颯斗の出番となった。
「さぁ、今話題の颯斗さんです。初めてテレビの生放送で歌うとのことですが、如何ですか」
番組の司会者が訊ねた。
「いやー、緊張します。自分はアマチュア時代、凄いヴォーカリストと組んでましたから、端っから自分の歌に自信はないですからね」
冷静な過去の回想と謙遜が、かえって彼の態様を堂々として自信のあるものに見せた。
定型文のようなやり取りを終えると、颯斗の演奏が始まった。画面の中にいくつもの暗色が入り乱れる。イントロから上がっていく熱気は颯斗の昔のスタイルを彷彿とさせた。
違うのは、歌も歌っているということだ。むしろ、歌が主となるので、ギターはバッキングに専念している。ギターソロの時だけ運指が画面にアップされた。爪は黒く塗られ、その部分だけ見ればヘブモンのギタリストまんまだった。後ろでともに演奏しているのが自分でないことだけがぼくの中で確かだった。
すると、一瞬、ギターソロを弾く颯斗の手元が吸血鬼の血のように鮮やかに紅く染まって見えた。ぼくは目を擦る間もなく、凝視した。秘めたる想いにギターが哭いているのか、演奏している本人が泣いているのか。作られた感動でなく、自然に湧き起こる感情の起伏と涙。それを言葉にしたり、何かしらの表現方法で描写しようとするとかえって本来の情動は表現し切れず軽減されてしまうが、颯斗は見事にその概念を超越していた。
これほど感情の乗った旋律はない。それであるがゆえに苦しそうにも見えた。颯斗は歌っていてもまだギタリストのままでしかない。佇まいがそう思わせた。それが悪いというわけではない。どうしても少し、辛そうに見えただけだ。それでもただひたすら繰り返されるフレーズが美しく鳴り響く。終奏のギターのハイフレットから繰り出される音が妙に耳を刺戟する。
演奏が終わると、颯斗はテレビカメラに背を向けながらギターを肩から外した。その背中が妙に印象的だった。そこから出演者の列ぶ映像に切り替わると、確実にスタジオの空気が変わっているのが、画面越しでも伝わった。
民放の生放送で颯斗が堂々と披露したロックは、彼がもう遠くの存在であることを認識させた。きっと演奏に向き合いロックする姿に、勇気や生きる糧を得る人もいるだろう。
しかし、どんなに多くの人を感動させ、救ったとしても、ダンスグループやアイドルグループ、ユニットやバンドに囲まれて、たった一人で坐っている颯斗自身はどこか寂寥を帯びていた。もしこれが録画だったなら、早送りしてわからなかっただろう。生放送での視聴は颯斗の影をぼくに感じさせた。だからこんなふうに今回のメールや、先刻顔を合わせた喫茶店と、要所要所で交差する不思議があるのかもしれない。ヘブモンという故郷とはまるで不即不離であるかのように。無論、そこからまたぼくと颯斗が連絡を取り合うことはなかった。
メジャーに行っても颯斗のギターにはHM・Rのステッカーが貼られ、国内楽器メーカーとエンドースメント契約を交わし、颯斗モデルのギターが発表されてからも変わらずその文字はあり続けた。その意味は雑誌のインタビューでも問われていたが、
「俺にとって忘れられないものであり、今でも大切にしているものです」
と仔細には語らなかった。ファンの間では謎かけにもなり、颯斗にとって特別な女のイニシャルだなどと囁かれてもいた。ヘブモン時代から知っているファンですら、ずっと大切にしている女がいるからだと吹聴しているようだった。本当の意味がわかるのはぼく以外に、忍と美紅と店長くらいなものだろう。
【その九】
音楽には力がある。そう信じて走っていたのも、もう過ぎ去りし日々となった。あの日、バンドは解散した。みんな散り散りになった。何より、心が砕け散った。そしてぼくは病気を背負った。何の音もしなくなった。
あの日からぼくは人と出会うことを拒否している。それにも慣れつつある。はみ出せない毎日。何も見えない毎日。別の人生があったんじゃないか。もしくはあるんじゃないか。そう考えるだけの毎日。
人生は決断の連続と言うが、決断することを避けている。いや、むしろ決断し続けているからこそ今の状態とも言える。つまり、何かに踏み出すという決断をしていないということも、ひとつの決断だった。そんな自問自答の日々の中で時間だけが過ぎて行く。それだけは誰にも止められない。
何かに、誰かにスポットが当たれば物理的に影が出来る。強く当たれば当たるほど、影は大きくなる。人は明るいところばかりを見て、行くさきを目指す。だから気付かないのだ。影という暗闇が物凄く、恐怖を感じるほど深いことに––––。
颯斗の活躍は目覚ましく、アルバムをリリースすると大きな媒体でも取り上げられるようになっていた。徐々に実績を積んで行き、知名度も上がっていった。初めは音楽雑誌に小さく取り上げられていただけの彼も、今ではロックスターになりつつある。
そんな颯斗と無職の自分では天と地の差だ。相変わらずぼくは仕事やバイトに就いても長続きしなかった。それは以前と同様、単純に病気だけが理由ではなかった。自分に対して甘いと言われればそれまでだが、生きる気力さえ失っていた。
寝転がって天井を見つめたまま、ぼんやりと先頃の出来事を回想した。仕事を辞める寸前のことだった。最後のつもりでぼくは上司に付き合った。
華やかな装飾に派手なドレスと化粧。煙草をくわえる客にすかさずライターの火が差し出される。それがなぜだか鬱陶しくぼくの目に映った。店内の様子を窺いながら、結局は金がモノを言う世の中なのかと浅薄な思考を巡らせていた。大体の欲は金が無ければ満たさすことが出来ない。
翻っていくら金があっても満たされない逆説があることをぼくは知っている。それはバンドの音の中に身を置くというたったひとつの方法であり、もう二度と戻らない時間。それを知ってしまっているから社会不適合者としての街道をまっしぐらに走ることになっているのかもしれない。
「こいつねー、なんと! 元バンドマン」
酒の入った上司が上機嫌に言った。
「うっそー、見えなーい。ジャンルはー?」
リアクションの高さが仕事のひとつであることはわかっていたが、キンキンする大仰な声が耳障りだった。
ぼくは何も聞こえない素振りをした。出来れば、このまま聞こえてくるすべての音を遮断したい。どこの誰ともわからない相手を前にいちいち過去を振り返るのも、答えるのも、面倒だ。なのに、そんな気持ちなど露ほども知らない催促の声は途切れない。自分が何かを言う番なのはわかっている。
「ねーねー、お兄さん、聞いてるー?」
栗毛色の安っぽい髪に濃い化粧が如何にも軽そうな女を演出していた。その色合いはどこか昔の自分たちすら彷彿とさせる。
「あー、ヴィジュアル系」
ぼくはすげなく答えた。
「えー、見えなーい!」
「昔の話だよ」
「写真とかないのー?」
「ないよ」
本当は、ある。携帯のフォルダにもパソコンにも何十枚も保管してある。
「そういえばさー、ヴィジュアル系といえば颯斗! 格好良いよねー」
不意に出た名前にぼくは俯き、口を噤んだ。
聴き慣れていた、呼び慣れていた名前。それをこうして知らない第三者の口から聞かせられると、なぜだか少し違和感があった。同時にどこか懐かしい気持ちにもなってしまう。今となっては、本当に一緒にバンドをやっていたのかも疑いたくなるほどだった。一緒に音を出していたのは紛れもなく事実だというのに、確かなものほどぼんやりしてしまうのはなぜだろう。今もヘブモンで造り上げた音はぼくの脳内で鳴り響いている。違うのはぼくらだけの颯斗が、世間一般、みんなの颯斗になっているということだ。
「ねーねー、そいつとばっかり話してないでこっちの相手もしてよ」
上司の言葉に落ち着きのない女はやっと身を逸らしてくれた。これで左耳がキンキンしなくて済む。ぼくはグラスを取って水割りをごくりとひと口飲んだ。アルコールが全身の力を抜いていく。
「颯斗は––––私の中ではギタリストでした」
ぼくだけに聞こえるような静かな声だった。同時に突然聞こえたその言葉に耳を疑った。そういえば、もう一人女がいたのだということを思い出し、瞠目しながら今度は右側に顔を向けた。こちらを向かずまっすぐ前に視線を置いたままその女はどこか遠くを見ているようだった。漆黒のドレスを身にまとい、黒髪で落ち着いた雰囲気。静かにグラスを拭う手は繊細で薄暗さの中でも透き通って見えた。
「どういう、意味?」
ぼくは恐る恐る訊ねた。本当はわかっている。でもどこかで勘違いだと思いたいのかもしれない。いや、違う。本当は気付いて欲しかった。知っていて欲しかった。あの菱形の空間がこの世に存在していたことを––––。
「颯斗といえば、私の中ではHEAVEN’S MONSTERでギターを弾いていたギタリストなんです」
「そ、そうなんだ」
そこまで知っていて、明確に颯斗単体でなくHEAVEN’S MONSTERを推すということは、今隣にいる男がそこのベーシストだったということにも気付いているのだろうか。自意識過剰だろうか。化粧を取り、髪も短くなった自分にあの頃の面影はないはずだ。化粧でも隠せなかった黒子の位置までは、まさか気付かれまい。ぼくは酒の入った頭で思考を回転させていた。
「もしかしてヘブモンの日和さんですか」
そう訊かれたらぼくはどう答えるのだろう。どう答えれば良いのだろう。自分でもわからなかった。もし触れずにいてくれるのであれば、それは彼女の優しさなのだろうか。
上司がぼくのフルネームを口にするのではないかと懸念したが、左側を一瞥するとすでに先の軽い女と酔態を演じているのでその心配はなさそうだ。黒髪の彼女に名前を訊かれたら、適当に誤魔化してしまうのだろうか。そうやって当たり障りなく、この場を切り抜けてしまうのだろうか。それで良いのだろうか。
いつもの街、いつもの風景––––のはずだった。何も変わらない日常にいたはずが、突如こうしてどこの誰ともわからない女と共通の胸懐で繋がっている。水割りを一杯飲み終えるまでのほんの僅かな時間だった。
肩くらいまでの髪。ふと、その横顔がいつかライブハウスで見かけた奇跡の女の子に似ていると思った。気のせいだろうか。いや、きっと気のせいだろう。確かめる術はない。しかしなぜだろう。ぼくは何か考えさせられている。その何かが今ははっきりしない。
その後、ぼくらの間にはこれといった会話はなかった。おとなしい黒髪の彼女が本当にこの店に向いているのだろうかと余計な心配をしているうちに時間が来た。
「お客様、あと十分でお時間ですが、如何致しましょう。延長なさいますか」
伝票を持った黒服が上司に問いかける。延長しないでくれ。帰りたい。いつもならそう思うはずだった。でも、ヘブモンを知っていた彼女とこのまま別れて良いのだろうか。話したい話も、振り返りたい過去も、受け止めてくれる存在なのではないだろうか。
「どうする?」
上司がぼくの顔を覗く。
「ぼくはどちらでも。お任せします」
ぼくは本音を隠した。
「んー、今日はもうお金ないから帰るー」
上司の言葉を聞いたぼくはどことなく虚しさを感じた。
「えー延長してくれないのー? ショックー」
「ごめーん、また来るからー」
語尾を伸ばす癖が同化している上司はすっかり軽い調子の女にはまっている様子だった。
あと十分。ぼくは隣の彼女と何かを話さなければならないと思った。確か彼女はアイと名乗っていた。
「アイって源氏名だよね?」
「はい」
「自分で考えたの?」
「はい。藍の花から取っています。字もそのまま藍です」
無表情だった彼女は少し面映ゆそうに答えた。
「藍って藍染とかに使われるあの––––?」
訊ねながらぼくはRock Tripの階下の呉服屋を思い出していた。今もまだあるのかはわからないが、当時、ガラスの向こうに飾られたトルソーには藍染の着物が着せられており、時々眺めていた。Rock Tripは今どうなっているのだろう。店長は変わらず元気だろうか。
「藍の花言葉は美しい装い、それと、あなた次第––––です」
美しい装い、あなた次第。ぼくは心の中で繰り返し、
「花言葉か」
呟いた。
「ヴィジュアル系が好きなので、美しい装いという言葉から取りました。それと、誰かの背中を押したくて。私––––」
「それではお客様、本日はありがとうございました」
何か言いかけた彼女を遮るように黒服が現れた。
立ち上がったぼくは上司とともにエレベーターの前で佇み、やがて開いた扉に歩を進めた。
「じゃーねー、まった来ってねー」
底抜けの明るさで茶髪の女は手を振った。すると、扉が閉まる瞬間、その横で俯いていた黒髪の彼女が咄嗟に口を開いた。
「あ、あの––––REMEMBERが大好きでした!」
そう言って彼女は咄嗟に黒髪を垂れて深くお辞儀した。一瞬の出来事に喫驚しながら、彼女に向かって近付こうと歩を進めようとした刹那、黒いロングドレスの残像だけを残して扉は閉まった。
「ん、何だ?」
不思議そうに顔を覗いてきた上司に構う余裕もないほど、ぼくはたった今起きたことを全身で受け止めるのに必死だった。
もう逢えないかもしれない。もうこの店には来ないかもしれない。ならばぼくが彼女の立場でもそうしただろう。あれが精一杯の真心だろう。最大限の優しさと気遣いの中で彼女自身の抒情と伝えたい欲求が混在し、発せられたひと言。夜深の空間に擾乱した瞬間の彼女の心がとても美しく、そして愛しく感じた。
エレベーターから出たぼくは地上からビルを見上げ、彼女の姿を描いた。今から戻ってもどうなるものでもない。そう思ったぼくは考えさせられる何かが一体何なのかを探りながら、電飾で明るく照らされた夜道へと踵を返した。
REMEMBER––––動詞にしたはずなのに動詞にならないのは、数瞬足りとも心に点在したまま変わらなかったからだ。
彼女は今も誰かの背中を押したいと願っているのだろうか。考えながらぼくはそのまま目を閉じた。
【その十】
ぼくは当面の生活費を工面するために、ヘブモンが解散した後に中古で購った車を手放すことにした。最後の洗車を終えて運転していると、突然の天球に見舞われた。晴れているのに土砂降りに近い。日差しによる暑いという感覚とは裏腹な雨水を受け容れられなかった。どうしても曇り空でないことが、何かに反比例しているような気がするのだ。先刻洗車したばかりということもあるだろう。でもそれだけではない。一足す一が二になっていないような感じさえある。
それはこの病気も同じだった。病気で随分と大切なものを失った。得たものなんておそらく何もない。病気が原因なのか、ただ単に自分の弱さなのか、今もぼく自身わからずにいた。気付いた時にはこの様だった。車が隧道に入るように、電車や新幹線がそこを潜るように、全速力で走っているのに景色が一向に変わらない。出口がないのだ。
ほんの少しつまずいただけだった。ほんの少しのはずだった。でも負ったのは大怪我だった。全部、心の話だ。心に背負ったものは、目に見えない。だから助けてくれる人もいない。目に見えないから、気付かれないから、理由を挙げればいくらかある。家族や周囲に理解されないだろうこの病は、ぼくをどんどん孤立させ、葬られて行くようだった。
ならばいっそ、唯一生を教えてくれた菱形の宝も葬ってしまおう。すべてを想い出にしてしまえば楽だ。閉じ込めてしまえば、そのままの色褪せない記憶でいられるのだから。変化を見なくて済むのだから。ぼくが一番見なくない変化は、自分自身のそれだろう。そして、その堕落は宝物を失ったことと重なる。変わって行く様を受け容れられないのなら、いっそ消すのだ。離れるのだ。
変化を見ないことは弱さなのだろうか。どこからが弱さで、どこからが強さなのだろうか。それこそ表裏一体なのではないだろうか。若いうちの苦労は買ってでもしろというが、どこからが苦労でどこからが安楽なのか。買ってでもした苦労の先に安楽はあるのだろうか。ただの幻想で終わるのだろうか。この苦しみは一体何であるのか。神でさえも答えは持ち合わせていないだろう。
「ねー、ヘブモンって知ってる?」
「知らなーい。何それ。なんかのキャラクター?」
「違うよ。颯斗が昔やってたヴィジュアル系バンドだよ」
「あっ、聞いたことある。颯斗って確か元々はギタリストだったんだよね。何で解散しちゃったんだろうね」
「噂では確かヴォーカルが、じ––––」
その瞬間、ぼくは急いでイヤホンを付けて耳を塞ぎ、足早に席を立った。その続きは聞きたくなかった。頭がおかしくなりそうだ。記憶から消そうとしたはずの出来事をこうして自分ではない誰かの声によって思い出させられる。何気なく入ったファストフード店でもだ。
おちおち息を吐ける場所さえないのか。もういっそ瑠衣のところへ行ってしまいたいと思った。イヤホンから流れる曲を邪魔して閉店を知らせる音が間隙から入り込んで来る。不協和音となって脳内に響き渡り、気分が悪くなりそうだ。塞ぐようにイヤホンの音量を上げながら店を後にした。
何かを振り切るように歩き続けたぼくは、気付くとどこか知らない場所にいた。何なんだ、自分の人生は。一体何なんだ。やり切れない思いを発散しようと白亜の壁を前に拳を握り締めた。血塗れになる拳と血に染まる壁を想像しながら、右拳を渾身の力で叩き付けようとした瞬間だった。
「ヘブモンの曲、練習しとけよ! 約束だぞ」
不意に颯斗の声が聞こえた気がした。
〝あぁ、そうか。右手が使えなくなったら、ベースも弾けなくなるのか〟
思い止まったぼくは壁に左肘を付き、顔を埋めた。握り締めた右拳の向きを変えて、代わりに小指外転筋を数度ぶつけて叩いた。畜生、畜生、畜生––––。
それから気の抜けたようにとぼとぼ歩き、時間をかけてアパートに帰った。やはりヘブモンの記憶は一切消してしまおう。これが唯一施せる救済方法であり、ひとつの結末だった。ヘブモンの音を聴くのはこれで最後にしよう。もう二度と蕾が開花することはない。暗い部屋の中でぼくは再びイヤホンを繋ぎ、流れる轟音に目を閉じた。どこの誰ともわからない女の声も、わかり合えなかった父親の怒声も、聞きたくない不快な雑音も、すべて遮断するように。
〝颯斗との約束を叶えることはないだろう〟
自分の心をそう確かめながらぼくは先刻壁に叩き付けようとして止まった無傷の拳を見つめ、終演の儀式を終えた。この時最後に聞いたREMEMBERはぼくの耳の奥深くへと浸透し、どうやら置き土産を置いて行ったらしい。
爾来、ぼくの左耳は妙な音が鳴るようになった。気付くと左からの耳鳴りが止まらない。FAXの受信音のような高音でキーンとした音が鳴り続いている。ライブハウスの後の耳キンにも近い状態だった。夜の静寂の中では特にひどく、ストレスが増した。一方でバンド活動をしていた頃の記憶を鮮明に思い出させた。忘れようとして行った儀式だったにも関わらず、耳鳴りによって慢性的にその行為を意思とは裏腹に遮られている。
「ただの耳鳴りでしょうか。それとも脳に何か異常があるのでしょうか、ネットでそういう可能性も有り得ると目にしたのですが」
「脳の心配はありません。恐らく音響外傷でしょう」
「音響––––外傷?」
「はい。先程、爆音で音楽を聴いてから、と仰っていましたね」
「えぇ」
「それが原因だと思います」
音響外傷。初めて聞く言葉だった。医者が言うには発症直後ならもっと効果的な薬を出せたが、時間が経っているので、神経を和らげて症状の緩和を目指す薬の処方になるとのことだった。確かに病院に来たのは症状が出てからしばらく経ってからだった。
ただの耳キンだと思っていたので、ここまで長引くとも思っていなかった。ましてや病名が付くだなんて微塵も思わなかった。聴力検査を行った時、初めて難聴の危険性も含意するものだと知ったが、聴力に影響はなかった。
処方された薬はトリノシン顆粒一〇%、メバミコラチン錠五〇〇μg「SW」〇.五mgのふたつだった。血液の循環を良くするもので、耳の神経の緩和を目的とするらしい。能書きにも目を通したが、薬がどこでどう効くかなど素人にはわからないし、この際治れば何でも良かった。医者が言うには副作用は特にないらしい。
この時、ぼくは薬に対してなぜか強迫性障害の時とは違う捉え方ができていることに初めて気付いた。月日の流れなのか、薬に対する抵抗がそこまでなかった。
ふと窓外に雨が降っていた。雨の音は厄介なはずだった。然りとて、今だけはこの音が嫌ではない。むしろ都合が良い。雨音が耳鳴りを消してくれ、余計な音を聞かずに済んだからだ。音響外傷を患ってから初めて雨音に救われた気がした。
「ヘブンズモンスターって、何だそれ。どういう意味?」
「直訳すると天国の怪獣、だよな?」
「うん。天に召されたロックスターたちって、きっと天国でも怪獣の如くロックし続けていると思うんだ。雲のずっと上から、その時の機嫌によって晴れだったり、雨を降らせたり、雷だったり雪だったり、曇らせたりしながらさ」
「なるほど、そんなロックスターたちに現世の俺たちの音を届けようってわけだな」
バンド名を決める時にした会話を思い出して微笑った。やっぱり、忘れることなんて出来るはずがない。
薬の効果は特に見られないが、昼間は大して気にならない。翻って夜になり、就中就寝しようとすると露骨に鳴っている。ぼくはふと思った。すべての音が遮断されたら、ロックをどう表現するのだろうか。記憶の中の擬音だけが頼りなのだろうか。もうロックを表現する必要もないのに、そんなことを考えてしまう。仮にそうなっても、頭の中で瑠衣の歌声も、自分たちの演奏も鳴り響いてしまうのだろう。でも、この耳鳴りが止む頃にはきっと––––。
【その十一】
ぼくにとってのロックスターは瑠衣と颯斗、忍だった。ロックに目覚めた憧れのロックスターは憧れのままだ。しかし、憧れと現実の両方を兼ね備えていたのが、同じヘブモンの仲間だった。自分と同じものを持ち、あるいは自分に持っていないものを持っている彼らだ。颯斗は今もメイクをしながらギターを持って歌っている。
「当たりめぇだろ。死ぬ時だって化粧するよ」
きっと畢生の貫通を宣言するだろう。
ぼくは颯斗が載った音楽雑誌の記事を開いた。
「今回のアルバムはどうしても曲が書けずにとても苦しんだ。でもそれを逆手に取って、むしろその憧憬をありのまま音や詩にすることでようやく書けた。やっぱりこれが天職だと信じています」
天職。一体どれほどの人間がそれに辿り着けるのだろう。しかし、颯斗の言葉の裏には、化粧の奥に深い悲しみと苦しみを背負った天職なのだということが含意されていた。新しくリリースされる曲を聴く度、歌声も、ギターの物の音も、泣き喚いているようにしか聴こえなかった。颯斗が自らの音楽で誰かを救えば救うほど、彼自身が追い込まれているように見えた。
人一人の生涯と人物像を追って行けば、人間の持っているすべての要素が出てくる。優しさ、気遣い、好奇心、繊細さ、反面の怒りや狂気。それらの喜怒哀楽が出せる人だから、出せる情況だから、愛されるのではないか。そしてメディアの取り上げ方次第で、如何様にも映る。
しかし、メディアから発せられる情報は第三者の視点でしかない。例えばめちゃくちゃやってきたロックスターが何か社会貢献するとメディアは挙ってそこにフォーカスを当てるが、報道している側は当事者ではない。助ける側でも助けられる側でも、ない。
きっと颯斗も、そして今助けて欲しいと願うぼく自身が求めているものも、社会貢献して立派にやっているロックスターの「表」の姿ではないはずだ。誰よりもロックンロールで、自由奔放で、無法な、どうしようもないクソガキのまま大人になった姿のはずだ。それこそが本来ロックスターが持つ最大の魅力なのだから。
颯斗が苦しみの中から発する「生きろ」というまっすぐな言寄せは、きっと多くのファンに響くだろう。でも、ぼくも颯斗自身も実は生と死の狭間でもがく当本人でしかない気がしていた。ヘブモンの生と死。そのふたつを経由した上での「今」だということだ。
肝心なぼくのその「今」は金もつとに底を突いた。着ている服ももう何年も経つので所々解れている。中古車を手放して得た金も泡沫のように消えた。家賃や携帯代を含む最低限の生活費すら、もう来月分を払えるあてがない。財布の中身は三十五円。いい大人が情けない。が、情けないという感覚すら生まれない。麻痺しているならそれでいい。当然ながら、今さら家族にも頼れない。就職活動をするにも金が要る。電車に乗る交通費すらない。職安は未だに慣れず、いつもどんよりした気持ちになる。いっそこのまま窮迫した生活に飲み込まれて、借金まみれになるか。いや、そんな度胸も持ち合わせていない。
ただ、残された手段がひとつだけある。これまでの人生で一度だけ、それなりの金を手にしたことがあった。何もかもが順調だった頃。そう、売れば良いいのだ。もう、捨ててしまえば良いのだ。どうせなら何もかも。本当はこれを捨てなければ、記憶を捨てたことにはならないのかもしれない。そう思ったぼくは静かにベースのネックに手をかけた。その瞬間だった––––。
ジリィリィリィリィー。
何かが鳴り響いた。携帯電話じゃない。脳か。身体か。それとも、そうじゃない自分の知らないところの何か、なのか。
時折聞こえてくる鈴虫の声も、突然音響外傷による耳鳴りが悪化したのかと思わせた。しかし、それともまた違う。激発する音と振動が確かに全身を駆け巡ったのだ。ぼくはそのままベースを持ち上げた。
ジリィリィリィリィー。
また鳴った。今度は走馬灯のように想い出が一気に脳から爪先まで電流の如く流れるようだった。もし弦を弾いたりしたら、また鳴るのだろうか。そう思いながらぼくはピックを手に取る。そしてそっと弾き慣れたフレットを押さえる。上から下へとストロークした瞬間だった。
ジリィリィリィリィー。
やはり鳴った。が、今度は紛れもなく携帯電話の音だった。いきなり場を遮って、催促してくる携帯の着信が嫌いだからいつもならマナーモードにしているはずなのに、なぜか解除されていた。無論、誰かからかかってくること自体、珍しいことだった。
ジリィリィリィリィー。ジリィリィリィリィー。ジリィリィリィリィー。当然、出るまで鳴り続けている。
「も、もしもし––––」
「もしもし、日和か。久しぶりだな」
バンドが解散したあの日、もう駄目かもしれないと思った。電車を降りたぼくは駅構内の人混みに紛れ、彷徨していた。その時、行き交う人波の向こうからまるで閃光の如く、規範となり続けていた大好きなロックスターが現れた。いや、そのコスプレをした人なのだが、その完成度の高さに思わず本人かと錯覚するほどだった。
でも、今になって振り返れば、コスプレをした人という感覚こそが錯覚だったのかもしれない。本当に天に召されたロックスターがぼくを励ますために地上に降りて来たのではないか。なぜならその時ぼくのイヤホンから流れていたのはその人のバンドの曲だったからだ。そう信じても良いじゃないか。
その時のことをぼんやり思い出しながら、ぼくは武道館にいた。昔ヘブモンで観に行ったヴィジュアル系バンドのライブ。一人、当日券を買ってスタンド席に坐った。二〇〇〇年代にデビューしたこのバンドもいつの間にかベテランと呼ばれるキャリアを積んでいた。それだけ月日が経った証左だが、どれだけ時が流れてもこのバンドの化粧は変わらない。
ヴィジュアル系を貫くことの美しさや力強さ、あるいは儚さを感じながら、自分が立つことの出来なかったステージで輝く憧れを観ていた。その時だった。
爆音の会場の中で不意に、
〝きっと瑠衣もこの会場のどこかにいるんじゃないか〟
そう思ったら、聞こえるはずもないのに急に誰かに呼ばれた気がして、後ろを振り返った。声は聞こえなくても、確かに呼ばれた。
【その十二】
ぼくは何年か振りに海の見える街へ向かった。瑠衣と颯斗の故郷。海沿いを歩きながら、少し歩き疲れた身体を休めようと立ち止まり、何気なく目に入った小さな路面店の列の後ろに列んだ。海のそばで店を開くなんてきっと楽しいだろうなと想像しながら順番を待った。
「いらっしゃいませー」
「あっ、タピオカミルクティーをひとつ」
言いながらぼくはカウンターのメニュー表から俯いていた顔を上げた。
「かしこまりましたぁー」
「はい、どうぞ」
買ったものを受け取りながら、ぼくはサングラスの奥で大きく目を見開き固化した。動揺を隠せないままなけなしの小銭を手渡し、すぐに背を向けて足早にその場を立ち去った。
「ありがとうございましたぁー」
後背から懐かしい声が響く。長かった髪をばっさりと切り、メイクも薄くなっている。然りとて面影はあの頃のままだ。一瞬サングラスを上げてしっかり、はっきり、確かめようとしたが、ぼくは自分の顔をさらけ出すことが出来なかった。
もし目の前の相手が過去を忘れて、前を向いているのならば、掘り上げるようなことはしたくない。ぼく自身、髪を短くしている。それに大きなサングラスをしている客が「日和だ」なんて気付かれるはずもない。それでいい。しかし、束の間判断に迷ったのは、見逃さなかったからだ。左手の小指の爪にRの文字が入っていたことを––––。何を意味しているのかは、確かめなくてもわかる。
急にタイムスリップしたような出来事に面食らいながら、早い足取りとは裏腹にぼくは必死に自分の気持ちを落ち着かせようと試みた。そして深く息をして、堤防に坐り込んだ。目の前に拡がる砂浜と海を眺めながら、良いんだ、良いんだ、これで良かったんだと自分に言い聞かせた。何より、あれからどうしているかわからなかったその姿を見られて良かった。
茫洋たる海を眺めながら、現実を受け止めることにした。まるでバンドが解散してからここまでの月日が昨日と今日のことのように思えた。失った時間は戻らない。
海の見えるこの場所で––––は眠っている。微かな臨界を描いて海と空は繋がっている。ともすれば海と空は表裏一体であり、一心同体。ならば、死者は海か空のどちらか、いや、どちらにもいることになる。
押し寄せては引き返す漣を生命の行き交う流星に見立てて、ぼくはただじっと視線を動かさずにいた。全ての生命や物事、ましてや始まりの存する宇宙ですら終わりがあるという。ある意味、そうでなければならない。だからこそ、永遠を信じたいのだと思うし、信じることが出来る。だからこそ、今目の前にあるかけがえのないものを大切にする必要がある。
何かをやめた時、また新しい何かが始まる。その繰り返し。人は生まれ、終焉に向かって歩き出し、生きる。そう繰り返される。限られた時間の中で、もがきながら。空虚な時間の中で、せめぎ合いながら。そんな心境で震い付くこの曲をぼくは何百回聴いたかわからない。
ようやく明鏡止水の心境になりかけた時、濤声に紛れて聞こえて来たのは、
「顔のホクロと指!」
という叫声だった。
ぼくは振り向き、サングラスを少し上にずらすと、砂浜の上を歩いて来る美紅の姿が見えた。ぼくはそのままサングラスを外し、目を眇めた。再会を懐かしむ感情に心身が呼応していた。
「知らん顔しちゃって。私の目を欺けると思ったら大間違いよ」
「いや、別に欺いたわけじゃ––––」
「いくら短髪にしたって、化粧を取ったって、ホクロの位置と声は変えられないもんね。それにその指、まだベース弾いてるんでしょ」
参ったな。美紅の観察眼には舌を巻くしかない。
「ここは瑠衣の地元でもあるけど、うちの地元でもあるんだからね」
美紅は蒼穹を見上げた。つられるように見上げると、カラッとした晴空に抱かれているような感覚になった。
「田舎でしょ。最近はどんよりした天気が多くて、一層田舎っぽさを演出していたわよ」
ともすれば今日の天気は幸運なのだろう。天国の怪獣の機嫌が良いのだろうか。いずれにせよ、雨が降っていたら今日ここまでの道程は難儀だっただろう。雨が降らなかったことにぼくは初めて感謝した。明日には薄れてしまうだろう、そんな謝意を抱いた。
「久しぶりだね。本当に」
美紅は改めて再会を懐かしむように言った。その表情はあの頃よりもどこか大人びて見えた。
「本当に。でも驚いたよ。美紅が店員だったなんて。店は大丈夫なの?」
「うん、店長に休憩もらって来た。店長っていっても今の彼なんだけどね」
「そっか」
俯いたぼくは美紅から視線を外し、
「瑠衣のことはもう––––」
「忘れるわけないじゃん。忘れられるわけないじゃん。瑠衣のことも、みんなのことも」
美紅の声が波風を突き抜けて響いた。
「あぁ、ごめん。だよね。じゃなきゃ爪に瑠衣の頭文字なんて入れないよね」
ぼくは軽率だった自分の言葉を詫びた。
「女はね、寂しい生き物なのよ」
美紅の表情が一瞬翳った。
「それにしても相変わらずの洞察力だね。さすがベーシスト」
まるで既視感のようにどこかで聞いた台詞にぼくはフッと笑ってしまった。
「二人して同じこと言うんだな」
「ん、何の話?」
「いや、ベーシストは関係あるかって話。それに観察眼に関しては美紅も人のこと言えないだろう」
「鼻の横のホクロはメイクでも隠せていなかったもんね」
「そう––––だな」
「––––瑠衣はさ、ずるいのよ。私のこと置いて行ったのは瑠衣の方じゃない」
ぼくは何も言わなかった。言わないのか、言えずにいるのかはわからない。でも多分、後者の方だ。
「颯斗は凄いよね。瑠衣の分だけじゃない。きっと日和や忍の分も背負ってるのよ。ヘブモンのみんながいるから、過ごした時間があるから、颯斗だって走って行けるんだよ」
ぼくは遠く海を見つめた。例えそれが真実だったとしても、あえて言葉にされると少し真実味が薄れるような気がした。あぁ、そうか。真実はいつも心の中にあるのだ。でも、その心はこんなふうに捻くれて、ちょっと我儘だから困ったものだ。
ぼくは瑠衣と颯斗との出逢いから過ぎ去った今日までの日々をなぞるように振り返った。美紅は何かを話している。その声が段々と遠くなる。
「––––瑠衣はね、そんな風に言ってくれた」
美紅の声と交差するようにぼくの脳内で回想の速度が早まる。スタジオでの出逢い、キャンパスでのゲリラライブ、Rock Tripでのコピバンライブ、作曲活動にライブハウス。美紅の声が流れている。束の間、懐旧に浸っていたぼくは話を聞き取れなかった。そんなぼくを置き去りにするように美紅の言葉は続く。
「プレゼントってさ、自己満足だよね。相手の喜ぶ姿が見たくて、考えて考えて、本当は選んでいる時の自分がワクワクしてそれに浸っているだけよ」
肝心の冒頭を聞き逃したせいで、話の脈略が掴めない。段々と頭の中で過去と現在がぐるぐる回り始めた。美紅は何が言いたいのだろう。何を伝えたいのだろう。季節は変わったというのに––––。
そうだ、あの時もそうだったじゃないか。あの時、何が言いたかったのだろう。何を伝えなかったのだろう。
〝瑠衣は何を想い––––歌っている?〟
そう想起した時、いつもなら頭を抱えていたが今は違う。目の前の海に瑠衣はいる。本当は何となく美紅が言っていることの主旨は理解出来た。いや、理解出来たつもりでいるだけなのだ。
「弾き語りでさ––––ってねぇ、聞いてるの?」
パズルの欠片を合わせると、どうやら昔瑠衣が書いた小夜曲の話をしているようだ。
「あっ、悪い。一瞬のうちに物凄い考え事してた」
「もぉー、せっかく人が話してるのに」
美紅は口を窄めた。
「ところで、日和はあれから何か見付けられた?」
ぼくがありのままを話せば美紅を暗然とさせてしまうだろう。嘘を吐くことも出来る。自分を擁護するために。美紅を落胆させないために。誰かを傷付けないための嘘や何かを守るための嘘なら、それは嘘ではなくてむしろ優しさなのではないか。
何か大事なものを賭けて真剣につく嘘なら、上辺だけの軽薄なおべっかよりマシだろう。それでもあの頃の仲間に嘘は吐きたくない。そんな自問自答に、ぼくはこれまでずっと狼狽し続けて来たのだと初めて気が付いた。だからこれまでの日々を断ち切るために遊泳出来なかった日々をありのままに話した。あれから何も見付けられずに来てしまったことを––––。
美紅は黙って聞いた後、海を見ながら口を開いた。
「今立っているここはね、瑠衣と颯斗がロックスターになろうって約束し合った場所なんだ。不思議でしょ。っていうより、びっくりしちゃった。日和がここで足を止めていたことに」
少し強い海風が大きくぼくらを包み込んだ。美紅は乱れた髪を押さえながら、遠く海の向こうを見つめ瑠衣を待っているようだった。
「日和、何か意味があるはずだよ。今話した偶然が運命とも取れるように、その病気にも、瑠衣のことも––––」
今ここに、出逢う前の瑠衣と颯斗の足跡があった。この場に二人とも立っていた。その時二人はどんな顔をしていたのだろう。きっと勇ましく笑っていたに違いない。大学の食堂に乗り込んで来た時の二人の姿がぼくの脳裏一杯に甦った。下を向いて足元を確認することが出来なかった。涙が迫って来ていることを美紅に知られたくなかったからだ。
「日和、生きなきゃ駄目よ。生きて、生きて、生き抜いて。あなたたちヘブモンは私にとっての英雄なんだから」
美紅はそう告げると踵を返し、静かに歩き出した。彼女の短くなった髪は毛先が綺麗に揃えられていたが、色はかつての瑠衣と同じだった。その後ろ姿を見届けていると、美紅の頭上に艶やかな蝶が鼓吹するように舞っていた。
その時、ぼくの目にかつての長い髪の美紅が重なり、その隣に番い鳥のように寄り添う金髪で巻き髪の見慣れたもうひとりの姿が見えた気がした。海風も蝶もまるで瑠衣が今でも美紅の、そしてぼくらのそばにいることを報せているようだった。
すると美紅は突然振り返って、歌った。瑠衣の詩を、ヘブモンのメロディーを。その声が一瞬、瑠衣の声が重なって聴こえた。
「負けんなよ! 日和!」
美紅はあの日ステージのぼくらに向かって突き上げるように拳を向けた。彼女なりの激励だ。ぼくは大きく頷いて、右手で天高くメロイックサインを作った。ぼくもステージに向かって見せるかのように応えた。柔らかな海の芳香が優しくぼくらを包んでいた。
「死んだら天国のロックスターに挨拶に行くんだ」
最期にそう言って微笑った瑠衣はロックスターに逢えたのだろうか。生き急いでいた瑠衣は今だったらどんな言葉をかけてくれるのだろう。
何のために生まれ、何のために生きて行くのか。きっとその答えを探すために生まれて、見付けるために生きて行くのだろう。ぼくにはまだその答えは見付からないが、ここに来てようやく抱いていた希死念慮から解放された気がした。そしてその答えはきっと瑠衣と過ごしたガラクタの日々の中にあるのだろう。
ぼくは自分自身の変化を確かに感じることが出来ていた。直接言葉は聞こえなくても、瑠衣はきっと今もぼくに何かを教えてくれている。ぼくは凪いだ海に向かって問いかけた。
ぼくたち、生まれ変わったらもう一度出逢って、また一緒にヴィジュア
ル系をやろう。
その時は今度こそ、ロックスターになろう。
最悪だったあのライブも、あの観客も蹴散らしてやろう。
だから天国で練習がてらそのまま歌っていてよ。
空模様で機嫌を判断するからさ。
ぼくは最後まで、この世界を生きることにするよ。
どんなにボロボロになっても、どんなに惨めだったとしても、きっと明日がある。今はそう思える。生きることの意味を見付けられたのは一緒に奏でたロックの中だけだから、死ぬことよりも生きることに決めたのだ。
〝きっとそれを教えてくれるために瑠衣は爆音の会場の中でぼくを呼んでここまで連れて来てくれたんだろう〟
涙で滲んだ煙がやけに綺麗に映じた。
〝どうかや安らかに眠って欲しい。あの頃のすべてを抱いて。いつかこの花が海を渡って瑠衣に届くように〟
再び花びらが舞った。ぼくは何の枠もない空を見上げた。この景色が観たかった。探していた。今この瞬間、颯斗も忍も一斉にそれぞれの空を見上げているような気がした。
「ガラクタの日々の宝石」
瑠衣がよく口ずさんでいたその歌詞は遺書ではない。彼がぼくらだけに置いていった遺産だ。
颯斗のギターソロが聴こえる。二分三十二秒から始まる五十五秒間にすべてが詰まっている。その歪んだ音で何度立ち上がって来られたか。その物の音は今もぼくに生きろと叫んでいる。
「一秒前の時間は戻らない過去だ。今この瞬間から出発だ、生きろ」と。
【その十三】
あの日、颯斗からの突然の電話にぼくは逡巡した。しかし、どうしても来いという強い言葉に促された。ふと、藍と名乗る彼女の言葉を思い出した。あなた次第––––です。
意を決したぼくは呼ばれた場所へ向かった。颯斗の所属するレコード会社の会議室。いつかの喫茶店と同じように忍も来ていた。顔を合わせるのも随分と久しい。
ぼくは何が何だかわからないまま忍とともに颯斗の隣に列んで会議室の椅子に坐った。颯斗はぼくらに何も言わないままじっとどこか一点を見つめていた。
やがて会議室の扉が開くと、レコード会社のスタッフや関係者らしき数人が入って来て、ぼくと忍を訝りながら向かい側に坐った。
「何だ、話って」
関係者の一人が傲岸不遜に訊いた。その言葉を待っていたかのように、
「次のツアーはソロとしての分岐点にしたい。メンバーはこの三人で、曲の方向性も変える。そうだ、いずれバンドにするのも良い」
颯斗は告げた。
ぼくはその言葉の意味をすぐには理解出来なかった。
颯斗がレコード会社を移籍するのではないか、表舞台から引退するのではないかという憶測はファンの間でも噂になっていた。それは当節颯斗が自らの言葉で発信しているブログにそういった内容を示唆する表現が度々あったからだ。だが、当然憶測の範囲に過ぎず、ぼくも彼はこのままどこまでも突っ走って行くものだと思っていたし、そう願ってもいた。しかし颯斗がたった今発した言葉が本心ならば、ブログでの示唆を裏付けることになる。
レコード会社の関係者たちはぽかんとしたまま冗談としか受け止めていない様子で、互いに顔を見合わせて笑っていた。
ぼくは頭の中を整理する作業で精一杯だった。颯斗を問い詰めたいが、口を出せるような雰囲気ではない。何かテレビ局とグルになって、ドッキリでも仕掛けられているのかと疑いたくもなったが、何よりもロックを、ヘブモンを大事にしている颯斗がそんな安易なことをするはずがないこともよくわかっていた。だから尚更、判断に迷った。
一度告げたきり、颯斗は口を開かない。その沈黙が本気だということを切々と訴えているようだった。
業を煮やした関係者が、
「どういうことだ」
問い質すと、
「そのままの意味です」
颯斗は狷介な態度を貫いた。
「馬鹿言うな! これまで通り、曲はプロデューサーと会社の意向を汲み取って作ってもらう。そして、一流の演奏家をバックに歌ってもらう」
「それならもう、ソロとしての活動は辞めます。表舞台からは引退します」
颯斗は冷静に返した。ぼくも忍も戸惑うばかりだった。
「な、なんだと! お前のソロでどれだけの人間が動いているのかわかっているのか! 何人もの生活だってかかってんだよ!」
「もう充分会社には貢献して来たはずだ。何人の生活がかかっていようと、俺は俺の人生を賭けてこの提案をしているんだ! 文句を言われるくらいなら、インディーズでもアマチュアでも良いから戻って本当にやりたい音楽をやりたいやつと一緒にやる! 例え、あんたたちが潰しにかかって来てもだ! これが俺の人生だ。もう充分闘って来たんだ」
心の奥底から鬱憤を晴らすかのような直情の勢いに、相手方は顔を見合わせ、頭を抱えていた。静まり返った室内の空気は重く、刺々しい雰囲気が漂っていた。
「君らは知ってて来たのか」
関係者の一人が訪ねてきた。
ぼくも忍も勢いよく首を横に振った。
「そんなわがままが通用するわけないだろう。とにかく、もう一度考え直せ。こっちだって今すぐには対応できない。だいたい事務所は何て言っている? これじゃ契約違反にもなりかねない」
眉をひそめながら、会社側の関係者たちは部屋を出て行こうと、ぞろぞろと立ち上がった。
颯斗は追い討ちをかけるように、
「たったひとつのバンドのたったひとつの名曲が俺の人生を動かしたように、たった一枚の写真が誰かに何かを伝えるように、誰かの言葉が誰かの魂を救済するように、そんな一節をこれからも追いかけて行きます」
決然たる口調で告げた。
レコード会社に対する別れの言葉は、常に会社側と闘ってきた颯斗なりの最後の敬意にも感じられた。関係者たちは悲痛とも取れるような苦々しい表情でその姿を確認すると、扉を開けていなくなった。一緒に仕事をしてきた間柄だ。本来ならこんな別れ方などしなくないはずだ。
部屋に残されたぼくらに再会を喜んでいる暇はなかった。ぼくも忍も頭が混乱している。
「ギターの音以外にこんなに自分の気持ちを素直にぶつけなのは、本当に久しぶりだな」
憑き物が取れたような清々しい顔で颯斗は微笑った。
「本当にスタッフたちの生活がかかっているなら、俺は辞めない。でも俺に付いてくれてたスタッフは優秀な人たちばかりだから、きっと大丈夫。それに会社員だから、俺一人引退したところで、首が切られるわけじゃない」
心なしか颯斗が少しだけ涙を滲ませているようにも見えた。彼が泣いたところなぞ、今まで見たことがない。瑠衣がいなくなった時でさえも。
「勿論、会社にもスタッフのみんなにも感謝してる。俺が自分で選んだ道だしな。でも、こうするしか別れ方が見付からなかった」
「いや、そうじゃなくて、さっきから、な、何言ってんのさ」
ぼくはやっとの思いで言葉を振り絞った。たった今起きた喜悲劇を飲み込めず、颯斗にどこからどう突っ込み、問い詰めたらいいのかわからずにいた。
「実は事務所にも確認したんだ。このタイミングなら契約違反にはならないってことを。だから事務所にも迷惑はかからないし、俺がいなくなっても他に所属するアーティストがいるからなんとかなるだろう。俺も独立して個人事務所を立ち上げる話は相談していたし……」
「い、いや、そういうことじゃなくて……」
「俺さ、やっぱ駄目だったんだよ。売れてファンがたくさん付いて、それでもずっと拭い切れなかったもんがある」
「拭い切れなかったもの?」
「孤独、だよ。ステージの上も、音の中でさえも、いつも独りだったよ。横にいたお前らがいねぇんだもん」
哀愁を帯びた颯斗の表情は、それでもどこかさっぱりしていた。
「レコーディングしてる時、ギターだけが自分の音だった。自分の歌声は脳内で再生される瑠衣の声なんだ。スタジオミュージシャンの高等技術と癖のない安定した演奏は、頭の中で精一杯お前らの音に置き換えて考えてた。だって作る曲はいつもヘブモンを想定してしまうからな。どうしても––––。そんで、アレンジされた曲を聴いて、これはヘブモンの曲じゃないっていつも落胆してたよ。それでもここまで結果を残せたんだから、すべての環境に感謝してるし、ファンにも申し訳なさと感謝の気持ちでいっぱいだよ」
自分が何者かわからなくなっていたぼくと同様に、颯斗も颯斗で自身のギターの音だけを頼りに必死で失ったものを手繰り寄せていたのだった。
「実はさ、インディーズから一人でデビューすることになった時、お前らも連れて行けたらと思って先方にお願いしたんだ。レコード会社にバンドじゃ駄目か、自分がやって来たメンバーじゃ駄目かって。叶うなら、もう一度みんなであいつの分まで走って行きたいと思ってさ。そしたら友情ごっこじゃねぇんだよって一蹴されてよ。まぁ当たり前の話か。それに当時はヴィジュアル系のソロアーティストってのも珍しかったから、そういう売り出し方をしたいって言われてさ。でもバンドこそ、自分の生きる場所だから自問自答したよ。そこで思ったんだ。有無を言わせないほど売れたら、何もかもぶっ壊そうってな。そしたらもう一度、お前らと一緒にやりたかった」
颯斗は矢継ぎ早に言葉を列べた。彼は策動し、計算高くやって来たわけではない。それで結果を残せるような甘い世界ではない。ただ遮二無二突っ走って来たのだ。
「でも、もう颯斗は走り出してる! 世界デビューだってもう手が届きそうじゃないか! わざわざぼくたちと組んで転けたりしたら、せっかく積み上げたものが台無しじゃないか!」
颯斗に対してこんなに声を荒らげたのは初めてかもしれない。ぼくはそれほど必死だった。颯斗の言葉にどこまでも続いていた絆を感じながら、だからこそ引き止めなければならなかった。颯斗は明らかに間違った方向に進もうとしている。それを止めるのが仲間としてのぼくの役割に他ならない。
もし世界をひとつに出来るものがあるとしたら、それは良い音楽だろう。時として家庭すらひとつに出来ず対立する狂信的な信仰よりも、現実として遠く海を超え、時空すら超越して届くのは熱狂的な音楽という文化だ。国境も人種も、信仰の違いも超えて行く。
颯斗の音楽にもそうした役割があるに違いなかった。日本のロックスターである颯斗の音楽を待っている人たちが大勢いる。作者の魂を乗せた曲は誰かの人生すら救済することだろう。人生で何回、天才と言われることがあるだろうか。颯斗にはそう思わせるのに十分な才能とカリスマ性があった。だからぼくらを選んで更なる高みを捨てようとしている彼を何としても止めなければならない。
「日和の言う通りだよ、颯斗! せっかくここまで来たんじゃないか! 今更ぼくらに気を遣う必要ないよ!」
切々とした眼差しで、珍しく忍も声を張り上げた。
「違う! ここまで来られたのはお前らがいたからだ。いつもどっかで俺の音を聴いてくれているはずだって、そう思えたことがどんなに心強かったか。俺は瑠衣を守れなかった。守り切れなかったものほど、あとから自分を締め付けるものはない。でも、お前らはいる。瑠衣との日々を共有出来るのはお前らだけじゃねぇか。だからお前らと音出せなきゃ意味ねぇんだよ! お前らがずっと俺の精神的支柱だったんだよ」
精神的支柱––––ずっとそう思って頼ってきたのはぼくの方だったはずだ。当人がそう思っているとか、いないとか、考えたことがなかった。おそらく颯斗の中でも、重ねた年月の分、その思いが深まる一方だったのだろう。
「昔の自分に胸を張るとまでは言えないかもしれねぇけど、少なくとも恥じないようにして来れたのはそれがあったからだ。それに、転けたっていい。売れなくなって、表舞台から去って、世間から落ちぶれたと言われてもいい。お前らとならそれもまたロックだろ。そん時はアマチュアでもインディーズでもコピバンでも、また一緒にやろうぜ」
颯斗は笑った。その破顔はテレビで観ていたものとは違い、ヘブモンをやっていた時の表情そのままだった。
ロックに正解、不正解はない。それが颯斗のロックだと言うのなら、それが正解だ。もうぼくらに止める権利はない。
ふと壁にかかっている丸時計を見上げた。時計の針はちょうど六時一分を指している。どうしてかぼくはそこに釘付けになった。六と一。る、い。るい。まるで瑠衣がそうしろと言っているかのように思えた。
【その十四】
Rock Trip。すべて捨てたはずなのに、変わらないものが変わらずにそこにあるということにぼくは初めて謝意を抱いた。扉を開けると鳴る鐘の音も変わらない。そこには開店前の店長が一人、グラスを拭う姿があった。
「ごめんなさーい。うちまだ開店ま、え––––」
店長の瞠目した表情が確かにぼくを捉えた。それをしっかりと見て取ってからぼくは軽く会釈した。
「日和、か」
「ご、ご無沙汰してます」
「よく来たな。どうしてるのか気になってたぞ」
店長の優しげな声が心に沁みた。ぼくはすぐに店内の壁に飾ってある数枚の写真に釘付けになった。往時のぼくら四人が破顔している。そこには記されたままの瑠衣のサインがあった。有名になったら使おうとしていたものだ。古くなり色褪せつつある写真の中で、油性の白いインクだけは鮮明に刻まれたままだった。実際に瑠衣の手によって書かれた文字に、まるで彼の魂が宿っているような気がした。
そういえば、サインに使ったその白いマーカーは、瑠衣と颯斗が張り出していたメン募の「ベース」の部分に二重線を引くために買ったものだった。
懐旧と、もうそこには戻れないもどかしさが激しく混在し、胸を詰まらせた。やがて、込み上げてくる激情を抑えられず落涙しそうになるのをぼくは必死に拒んだ。ロックスターになった颯斗単体の写真はどこにもない。
「懐かしいよな。お前らがここでライブやってたのも、もう昔話になりそうだ」
店長が変わらないのは風貌だけじゃない。その声音、いつもぼくらを見守ってくれていた眼差し。気になっていた、とは言うものの突っ込んだ話をして来ない。それが店長なりの忖度であることがぼくにはわかっていた。
「ほら、こっち坐って飲めよ」
店長はグラスにコーラを注ぎ、差し出した。少し緊張気味に腰かけると、そこからの風景も妙に懐かしく思えた。
「元気にしてたのか」
「はい」
答えたぼくは店長の手元へ目を移した。
「あれ、店長、それ」
「ん、あぁ、これか。まぁ俺もいい歳だ。女をいつまでも待たせるわけにもいかねぇからな。バーなんかやってると心配だから、必ずしとけってうるさくてさ」
店長の左手薬指には銀色の指輪が、ぼんやりと昔日のバーベーキューを思い出させた。
「おめでとうございます」
「おう、ありがとう」
「店長にはあんなにお世話になったのに、お祝いのひとつも出来ずすみません」
「バカ言うな、こうやって逢いに来てくれたことが何より嬉しいよ。またお前の顔見られたことが、一番のお祝いだよ」
店長は昔と変わらない破顔で言った。その言葉を聞いて、どうしてもっと早くこの場所へ来なかったのか、ぼくは少しだけ臍を噛むような思いだった。しかし、この機会でなければ来られなかったのもまた事実だ。
「懐かしいですね。本当に––––」
時の流れを感じながら、呟くようにひと言絞り出すと、自分でも驚くほど、堰き止めていた思いが溢れ出すようにあれからのこと、つい最近の颯斗との出来事がすらすらと言葉になって流れ出した。店長は頷きながら聞いてくれた。
「ヘブモンをやってた頃は本当に濃い時間を過ごせました。でもその反動で、解散して何もなくなってから、ふと人生ってまだ続くんだって思ったんです。あれからは希望も持てずに、ただ惰性で生きて来たようなもんなんです」
ヘブモンとして駆け抜けたあの頃が正に青春の絶頂だった。だからこそ、あんなに熱い時間はもう過ごせないと諦めていた。その後はニュートラルにギアを入れた車のようにただ坂道を下るだけだった。もちろん、上り坂は走れない。どこか厭世的になっていた。
「お前、あれが本当の颯斗に見えるか?」
ぼくの話を黙って聞いていた店長が静かに口を開いた。
「どういう意味ですか」
颯斗の見た目は多少の変化はあるものの昔と然程変わっていない。まだ長髪にメイクを施してステージでギターを弾いていることを鑑みれば、むしろ彼だけが変わらない。ともすれば店長の言いたいことは精神的な部分を基準にした話になってくる。ぼくだって本当はどこかでわかっていたことだ。
「実は颯斗な、あいつ義理堅いやつでよ。今も時々お忍びで呑みに来るんだよ。って言っても、あれからしばらくはお前らと一緒であいつも全く顔出さなくなってたんだけどな。ここのバイトも辞めてな」
店長は棚からもうひとつグラスを取り出し、自らコーラを注いでひと口飲んだ。
「でもある時、確かインディーズでデビューして少し経った頃かな。また顔出すようになってさ。決まって誰もいない閉店後にこっそりとな。酔っ払っては言ってたよ。『ここだけは変わらない場所であって欲しい。だから俺のポスターは貼らないで欲しい。お店の宣伝になれずに申し訳ないです』って。きっとあいつもあいつなりに苦労したんだろう。手の平返しとか、業界の嫌な部分も見ただろうし。だからあいつが今もここへ来るのは、きっとハングリーだったあの頃とか、お前らと走っていた頃とか、大切なことを忘れないためなんだろうな。だってよ、酒が入ると『本当はもう一度ヘブモンで音を出したい』っていつも決まって口にするんだよ。メジャー行ってからもずっと、な」
ぼくは脳天を撃たれたような感覚に俯いて思わず自分の後頭部の髪をギュッと掴んだ。
「この曲を世の中に出すために俺はロックやってんだよ!」
瑠衣の言葉は今でもぼくの脳内に響いている。ヘブモンで作った曲を大切にしていたからこその言葉だ。そして、それが実現出来るのは残された者だけだった。継承したのは颯斗、ただ一人。先頃レコード会社の会議室で決意を披瀝した颯斗の姿が脳内で蘇った。
「少なくともあいつは、お前と忍を影のままにしておこうなんて気持ちは毛頭ないよ」
ぼくは顔を上げ、店長に視線を戻した。
「日和、悔しかっただろう。何もかも失って、大変なもんまで背負って、辛かっただろう。ならもう一回、ロックンロールすりゃ良いよ。全部ロックにぶつけちまえよ。ロックは全部受け止めてくれる。それにお前はまだまだ若い」
悔しかった? 悔しかった––––。悔しかった。そうだよ、悔しかったよ。何で瑠衣はいなくなったんだ。何でバンドは解散したんだ。何で自分だけこんな病気を背負ったんだ。何でこんなに金の心配をしなきゃならないんだ。何が将来だ、何が社会だ。未来なんてどこにもないじゃないか––––。
刹那、ぼくの心は叫んでいた。あの時と同じだ。キャンパスの時と。何かが吹っ切れた。またバンドをやりたい。まだバンドがやりたい。そんな止め処ない熱情が沸々と込み上げている。人生を賭けて成し遂げるのはこれだというものにすでに出逢っている。そのことに改めて気付いている。あの頃と変わらず、これまでの人生のすべてを賭けるに値するものだということに、そしてずっとその気持ちに変動などないことに––––。
ただ何となく生きて、何となく死んで行く人生を否定し、今再び大事なものを取り戻すべく、あの頃漠然と考えていたものがぼくを奮い立たせ、もう一度生きろと脈打っている。大切な想い出の中の自分自身とメンバーたちがそう教えてくれている。
本当は全部わかっていた。これまで千々に乱れていた心を収められるたったひとつの方法。まだやりたいこと、なりたいものがあったということに明確に気付いている。もう一度、必ずやり遂げる。その想いが沸々と生(せい)への意欲を掻き立て、抑えきれない胸中の鳴り響きとともに、心は今また少年に戻っていた。まるでその決意は頭上に蒼穹が拡がったような感覚だった。颯斗、忍、店長、美紅––––。それぞれの声も表情も、あの曲の序奏と同じ、一瞬であの時代に引き戻してくれる。
「日和、何かにつまずいた時や何かを失った時こそ、大切な何かに気が付く時だ。そこで気が付けなかった人間は弱さや傲慢に駆られたままだ。逆にそこで自分なりの答えを見付けられた人間が、強さとか、優しさとか、謙虚さを知って、人望を集める人間に成長していく。起き上がる時にこそ、本当の強さを得られるんだ。だから諦めんなよ。人生一回切りだ。お前は男に生まれたんだ。最高じゃねぇか、ヴィジュアル系!」
そうだ。あの日レコード会社の会議室で見た丸時計だって、長針の方が少しばかり長いから上手く回っているのだ。人もきっと同じだろう。長所と短所があって、何かひとつでも長けたものがあれば人生は動かせるだろう。ぼくにはベースがあるじゃないか。しばらく間を置いて、ぼくは息を整えてから真っ直ぐに店長を見直した。
「店長、もう一度輝いて見せます。見ていてください」
微笑んだ店長がまるで油絵のように滲んで見えた。
Rock Tripを後にしたぼくはビルの一階にある呉服店を見つめた。まだ灯りの点いている店内には藍染された着物をまとったトルソーが佇んでいた。以前と同じ着物なのかどうかはわからなかったが、ぼくは納得して歩き出した。新たな一歩を踏み出す前にどうしても乗り越えなければならないことがある。もう一度過去を想い出として受け容れるために必要なこと––––。
小路は華やかな装飾に照らされ、化粧をした街はすっかり夜の姿に変装していた。ヴィジュアル系が化粧を施し衣装をまとうことで本来の姿になれるように、この街にとっては、この夜の表情こそが正装なのかもしれない。
客を見送るドレス姿が散見される中で、沸々と想起させられる何かをぼくは感じていた。颯斗からの電話から始まったあの頃を彩った戦友たちとの再会。店長の言葉。そして瑠衣のいる海。それはヘブモンの再開を意味している。そんな一連の流れを締め括ろうとしているのは、あの時の幻影だった。
ぼくはビルの向かいの路地まで歩を進めた。雑多な繁華街のど真ん中にも関わらず、ここだけは妙に空気が澄んでいるように感じた。しばらく待っていると、ハンドバッグを片手に向こう側を歩く人影があった。すぐにあの時の彼女だということに気が付いた。彼女は立ち止まり、こちらを一瞥した。確かに目が合った。
〝やっぱり君だったんだろう? ライブハウスで見た奇跡の女の子は––––。そうだったんだろう。背中を押してくれたんだろう〟
ぼくは声なき声を心の中から呼びかけた。彼女は何かを察してか軽く会釈すると、あの時と同じ真っ直ぐな視線を向けてからエレベーターへ乗り、中からもう一度こちらを振り返った。ぼくが一歩前に踏み出しかけた時、扉が閉まった。
その時、頭の中で考えさせられている「何か」が今やっとわかった。もう一度、病院に行こう。失ったものが多過ぎて何から取り戻せばいいのかわからないが、これだけは明々白々だった。
選んだのは精神科と心療内科を併設する町の病院。電話予約し、受付を済ませた。妙にしんとした待合室で、ぼくは坐ったまま両肘を太腿の上に乗せ、俯き両手を結んだ。
治るのだろうか。自分に合う効果的な治療法があるのだろうか。また無駄足になってしまうのだろうか。様々な不安が過ぎった。しかし一生この厄介事に付きまとわれることだけは拒絶していた。このままではまともな社会生活どころか、まともな日常生活すら送れない。普通の人ならすぐに終わらせられるだろう作業に反復行為で大幅な時間がかかってしまう。必然的に行動を起こすことに対して億劫になり、行動範囲も狭まり、日常生活の些細なことにもいちいち大きな心労を伴う。さらに言えば酷い時は何もしていなくても、常に頭の中に張り付いた画を払拭出来ずに神経が擦り減った。おそらくまたヘブモンでの活動を再開すれば治るのかもしれないと思ったが、出来ることをやっておきたい。せめてもう少し楽になれれば––––。
これまでなぜぼくは治療という選択をしなかったのか。なぜだろう。自分でもよくわからなかった。薬は毒を以て毒を制すように思えて抵抗があったのは事実だ。行動療法以外に具体的な治療方法がないのもあった。なぜ、病院に来ようと思ったのがこんなに遅くなったのだろうか。どこかで信じれば治ると思っていたからなのか。
いや、それも違う。決して向き合わなかったわけではない。むしろ向き合い続けて来たことだけは、誰が何と言おうと確かだ。その向き合い方が少しずれていたのかもしれないが、いずれにせよ苦痛に耐え続けて来た。天国の怪獣たちに少しばかり嫉妬されていたのかもしれない。いや、それも違うだろう。総じて、運命というものを受け容れよう。去来する心の中でぼくはそう何かを覚った。
今は服薬でも行動療法でも何でも良いから治したい。おそらく薬への抵抗がなくなったのは音響外傷による耳鳴りの件があったからだろう。REMEMBERという一曲を通して瑠衣がぼくをそんな風に導いてくれたのではないだろうか。
ふと周囲の人たちが気になった。どんなものを抱えているのだろう。
やがてスタッフに呼ばれ、奥の部屋へと案内された。まずはカウンセリングが行われるようだ。目の前には白衣を着た医師が坐っていた。恐る恐る今までの経緯を話したぼくは最後に希望を言葉にした。
「この病気を克服したいです。せめて、まともな日常生活が送られるようになりたい」
言いながらこの病院選びはまた失敗に終わるのではないかという不安が付きまとった。
頷きながら聞いていた医師は、
「強迫性障害を病気ではなく、習慣と捉えてみてください」
「は、はぁ」
柔らかな口調で落ち着いた声で言う医師に、ぼくは曖昧な相槌を打った。
「確認行為、反復行為、これを止める方法はズバリ、確認行為や反復行為をしないことです」
「でもやらないと不安に駆られたり、気持ち悪さがあるのですが」
「その不安や気持ち悪さに慣れてください。一回きりで止めること、それ以上は繰り返さないことです。先程申し上げたように、病気ではなく習慣、謂わば癖なので、習慣や癖は止めようと思えば必ず止められますし、改善出来ます」
気持ち悪さに慣れる––––。一度きりで止める––––。
心の中で反復したその瞬間、確かに目の前に一条の閃光が音速で走り過ぎた。そうか。当たり前のことじゃないか。それなら必ず止められる。ぼくは強く確信めいたものを感じた。奇しくもこのカウンセリングによって、ようやく自分自身を取り戻せそうな気がした。
「日記を付けるのもひとつの方法です。一日のうちに何回、何が原因で強迫行為をしてしまったのかを記録していくのです。そうして昨日より今日、今日より明日と、段々数を減らすように心がけてみてください」
なるほど、確かに回数を記録すればいくらか気分が楽になるかもしれない。とにかく上手く付き合って行くしかない。その積み重ねで克服出来る気がした。
この病院を選び、この先生に受信出来たことは幸運だった。天の差配なのかもしれない。病院を出るともう薄暮が迫っていた。
「そうなんだろう? 助けてくれたんだろう?」
返事がないとはわかってはいても、思わずその雲間に向かって問いかけずにはいられなかった。
【その十五】
リハーサルスタジオ。ギターを弾きながら歌う颯斗の背中に瑠衣の姿が重なって見えた。本番のことを考えると吐きそうなほどの重圧がぼくにのしかかっていた。
長くまともな生活をせずに、まるで外界との交流を遮断していたのに、いきなりの大舞台で果たして演奏なんて出来るのだろうか。考えることすら遮断して眠りに就きたくなるほど、ぼくは現実から逃避したかった。それでも逃げればもう二度と自分を変えることは出来ないと自らに言い聞かせた。何とかここで踏ん張るしかない。だが、どうしても背を向けて俯いてしまう。
「なぁ、日和。初めてRock Tripでライブやった時、失敗こいたよなぁ。構わねぇ。思いっきり再現しちゃおうぜ!」
顔を上げると颯斗がにやっと破顔していた。
「それもぼくらの音だよね」
忍も同じように破顔した。顔を上げれば颯斗も忍もいる。そしてはっきりと聞こえたもう一人の声。
「がんばれ」
いつも聞いていた声。忘れようにも忘れられなかった声。聞き覚えのある声に少し懐かしさすら感じた。そうだ、人との交流は遮断していたが、いつだって音とは会話をしてきたじゃないか。時に救われながら、時に苦しめられながら、交流してきたじゃないか。
〝がんばってみるから。もう少し、がんばってみるから〟
安心感を与えてくれたその声に、ぼくはベースの音で返事をした。
あの日颯斗からもらった電話を振り返る。行けば何か変わるかもしれないし、わかるかもしれない。行こう。最後はそんな感じだった。行ってみるものだ。居心地の良さで行き先や居場所を決めずに、何にこの身を捧げるのかという明確な答えに向かって動いたのは随分と久しい。
「ガキのままいるからロックなんだろう」
そう言い放った颯斗が眩しかった。出逢った時からどこまでも変わらない、むしろ荊棘を乗り越えてさらに強くなった彼が誰よりも誇り高くぼくの目に映じた。
モニター越しに会場を眺めるとすでに超満員だった。店長も今日はRock Tripを閉めて奥さんと観に来てくれている。本番前は緊張するだろうからという気遣いで、終わった後に楽屋に来てくれることになっている。
カメラが会場を流れるように移動してお客さんたちを移している。ぼくはその映像を見ながら思わず目を見開いた。移動するカメラワークの中で、何千人いる観客の中からはっきり映し出された人物がいた。招待席に坐る美紅が瑠衣の写真を抱えながら待っていた。こんな奇跡があるのだろうか。驚いたまま颯斗と忍の顔を見ると二人もしっかりとそれを確認したようで、互いに相槌を打った。
きっと個々に起こる奇跡は神や誰かに与えられるものではなく、自らが起こすものだから奇跡と言うのだろう。しかし、今ある奇跡がもし何かによって導かれたものだとしたら、それは紛いなく来世で待つ瑠衣と現世にいる颯斗、二人のロックスターによってもたらされたものだろう。
瑠衣はその歌声を颯斗に託したに違いない。そしてぼくらを再び舞台へ上がらせるように導いてくれたのだ。瑠衣も颯斗も歌詞はどこまでも日本語にこだわった。ぼくはそんな彼らの姿勢が今も好きだ。そして大きく美しくそびえる日章旗の下でぼくもようやく演奏が出来る。
あの階段を上がれば、ステージだ。ぼくは初めてライブハウスに出た時の数段しかないあの階段を思い出し、ここまで来られたことの実感をしみじみと噛み締めた。
不意に今のぼくを見て父はどう思うだろうと考えた。そういえば父とわかり合えた瞬間が一度だけあった。大学に入り免許を取り立ての頃、父親を駅まで迎えに行ったことがあった。車内で流れていたのは、ぼくの人生を変えたあのバンドの曲で、後々瑠衣と颯斗に出逢った時に合わせることになる曲だった。
不意に父が、
「この曲良いな。特に八ビートが」
そう声をかけてきた。父にリズムのことなんてわかるのだろうか? と思ったが、ぼくの人生を変えたバンドの曲を良いと言った父と初めて共通の認識を得られた気がした。
あなた次第––––か。心の中で呟いた。このライブが終わったら久しぶりに実家に行くのも悪くないだろう。すべては自分次第なのだから。そう思うと、きっとあの奇跡の女の子もこの会場のどこかにいる気がした。
「日和、そろそろだ。行くぞ」
我に返ったぼくは颯斗の声に頷き、先頭を行く彼の背中を見た。その背中にどれだけの重荷を背負って来たのだろう。バンドでなく、一人で勝負するのは相当な勇気が必要だっただろう。きっと自分だけデビューする時、颯斗は後ろめたさに打ちひしがれそうになったに違いない。だから喫茶店にぼくらを呼び出したのだ。テレビの生放送に出る時も、緊張を装ってわざわざ連絡して来たに違いない。
ガキのまま、つまり自分に正直に生きて、貫いて、再びぼくらを表に引っ張り出してヘブモンを復活させてしまった。こんなこと、常人に出来るはずがない。ロックスターにしか出来ない。その姿勢は格好良いという形容以外に表現のしようがなかった。そんな男に助けられ、ぼくらは再び一緒に音を出す。
少しの間、目を閉じた。拍手の音が思い出させる。慈雨の中で慌ててキャンパスを走り抜けた日も、もう過ぎ去った。
そういえば、大学に入学して教授と面談した時に聞かれたことがあった。卒論のお題。その時、
「日本の文化と世界進出しているヴィジュアル系について書きます」
と答えた。日本のヴィジュアル系は海外アーティストの派手なメイクから想を得たものと言われているが、その海外アーティストたちは日本の伝統芸能である歌舞伎から影響を受けたと公言している。つまり歌舞伎という日本古来の素晴らしき伝統文化が巡り巡って形を変えてヴィジュアル系を生み出した。そしてぼくの人生をも救ってくれた。
日本のヴィジュアル系が今も欧米で人気を博している。こんな痛快な話はない。結局ぼくは卒論を書くには至らなかったが、今目の前にいる男こそが体感として教えてくれそうだ。それが卒論より面白いぼくの私的な詩的表現の詩的な私的物語。
「瑠衣はさ、天国にいるよ。天国からずっと見守ってくれてるよ。仮にもし生まれ変わりがあるなら、きっとすでにこの世のどこかでぼくらを見て笑ってるよ。そう思う」
忍はそう言ってぼくに笑いかけた。
ぼくらはメイクをして、再びHEAVEN’S MONSTERとして呼吸をする。
気付くと耳鳴りが止んでいた。良い緊張状態に変わっている。心臓がまるで十六ビートのリズムを刻むように全身に脈打っている。久しぶりに感じた生の実感。
ぼくは震える足で瑠衣が待つステージへ駆け上がった。終わってしまえばすべてがあっという間だったと言えるのだろう。ならば、すべての始まりとすべての終わり、どちらを知りたいか。
【完】
【四百字詰め原稿用紙236枚】
※この作品は「小説家になろう」にも掲載しています。
https://ncode.syosetu.com/n0518gr/
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