「山月記」後日談

これは、我が友袁傪から聞いた話だ。

袁傪は私の幼馴染で良き男である。人品卑しからず情に厚いが流されず人望もある。また、風雅を解し造詣も深い。

酒は飲むが度を越さず公務による旅先の話はどれも物珍しく、この友と盃を交わすのは私の楽しみである。

その日、袁傪は沈みがちで言葉少なく静かに盃を重ねていた。何かあったかと聞こうとした矢先に向こうから話した。

李徴に会ったと。

袁傪、李徴とは共に机を並べて学んだ仲だが、私は尊大で傲慢な李徴とは反りが合わずほとんど交流がなかった。いや、彼は誰とも合わなかったのではないだろうか。舌を巻くほどの秀才ではあったが、俗物な輩と話すのは嫌だというばかりにいつも一人でいた。

李徴が友と呼べたのは袁傪くらいではなかったか。文学に造詣が深い者同士気があったのかもしれない。袁傪は、私達が聞いてもまるでわからぬ難解な話によく耳を傾けていた。この友の辛抱強さと柔和さが針を逆立てた獣のような李徴には心地よかったのかもしれない。

袁傪の話では、李徴は盗賊になり下がり旅人から金品ならず命まで奪い取るようになったと言う。酒に溺れ精神に異常をきたし、もう余命幾ばくもないだろうと。それでも妻子のことは多少なりとも気にかけており援助を頼まれたので訪うたそうだ。

荒屋のような家に痩せ細った妻子が居り、袁傪を見た時は金を取り立てに来たものかと怯えたそうだ。食い物と幾ばくかの金を与え、自分は李徴の古き友であり妻子の行く末を頼まれた、今後毎月生きていくのに困らないだけのことは援助しようと言うと、細君は痩せ細った頬に涙を流し袁傪の足元に平伏し何度も礼を述べた。

相変わらず人の良い男だ、と言うと袁傪は言った。

李徴は昔馴染みの私を手にかけようとはしなかった。また、詩作にかまけて妻子を蔑ろにし、世に出るまで研鑽しなかった自分を恥じていた。李徴が心底人であることを忘れたならもっと卑しく生きていたことだろう。落魄したとしても、李徴は昔のままだ。ただ、残酷にも時が過ぎてしまい引き返すにはもう遅すぎた。何もなかったように口を拭ってやり直すにはもう引き返せぬところまで落ちてしまったと李徴自身わかっているのだ。

今更、己の狂った様を露わにして人の耳目を集め妻子を苦しめるのを李徴が望むとは思えない。自分が捨てた妻子をこれ以上苦しめぬことが彼に残された人間性なのではあるまいか。また、そのような惨めな様を、人目に晒すことなど最も李徴の嫌がることだろう。

どうあがいても落ちても生き延びること、それも人の所以たる証だがそこまで私や李徴は悟りきれないようだ。私は私のできることをするしかない。

何故そこまでにするのかと問うと、李徴はもう一人の私なのだと袁傪は言った。私にはその意味がよくわからなかった。

その後、袁傪は李徴から預かってきたと言う詩歌を冊子に綴り人に命じて幾つもの写本を作らせつてをたどり方々に配らせた。表題を「山月記」とし李徴の名を連ね袁傪の名で賛を書いた。

袁傪が李徴と会った場所の近くでその詩を詠むと近くに虎の唸り声が聞こえた。案内人がこれ以上進むのは危険だと言うので岩の上に本を置くとその日は帰った。翌日、同じ場所に行くとすでにそれは無かった。

李徴の詩歌は技巧に優れた孤高の作として評価されたがそれきりだった。人喰い虎が姿を現さなくなって数年後、巧妙に隠された洞穴から人骨が見つかった。中には兎や鳥などの骨と木の実などが散らばり人が寝起きしていた痕跡があった。「山月記」と題された本が一冊擦り切れるほど読まれた跡があり、何やら書き込まれていたが字の体を成さず誰にも判読できなかった。

これより先に不慮の事故で袁傪は亡くなっており、それを知ることはついに無かった。

                     (終)




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