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空気を読む力と共に育むべき力

空気を読む力。日本人にはありますよね。

これって、海外の人からしたら超能力でしかないと思うのですが、さすが日本文化はハイコンテクストと言われるだけあって「空気を読む」ということを特別だという意識もないままに日常的にしていています。

私は日本にいると使うエネルギーの量が海外にいる時の3分の1ぐらいだなと思いっています。特に公立の学校現場では勝手がわかると言うのももちろんありますが、ぼーっとしていても事は進んでいきます(慣例主義)。自分の意見を反映させられる機会がないし(まず、議論の場がない)、新しい事に取り組む必要もありません(イノベーションは基本的に無関係)。日本では、アメリカの教室のように自分で質問したり、議論に参加する必要がないのと同様で、ぼーっとしていても授業は進んでいく状態(一斉授業)と似ています。

空気を読む能力は「忖度(そんたく)」と言うようにネガティブな側面もありますが、ある程度の道徳レベルというかマナーという点での空気を読む力は海外に行けば「思いやり」として日本人が結構高く評価される面でもあると思います。
つまり、いい所もあると思うのです。

しかし、同時にその「空気」を言葉で説明する力も不可欠です。

例えば、1から10までのうち、日本人は5までを空気として読んでいるので、1から5は言語化する必要がないとします。
しかし、1から5までを具体的に表現できる能力がないと、問題を可視化できなかったり、意見の相違が起こった時に振り返るすべがありません。
海外の人にはもちろん具体的に説明する事は必須ですし、多様化することが予想される日本社会においても、簡単に同一視することの危険性を考えれば「空気の可視化、言語化」は不可欠な能力になってくるでしょう。

1〜10まで説明することはできるけれど、もちろん言語化しない「空気を読む」ことを選ぶのは個人の自由です。
学校の授業では生徒にもその選択の自由を与えられるような教育活動を目指したいですね。

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