倫理上、他人の意識・判断にどこまで介入・干渉することが許されるか
最近考えていること。
結論は出ていないのだけれど、一度ここに纏めておきたい。
考えるきっかけとなった事例
①過誤記憶(「起こっていないことを実際にあったかのように感じる記憶」)
『会社からの「過誤記憶」と「洗脳」について|楓 (note.com)』の記事でも書いたが、「悪について誰もが知るべき10の事実」(著者:ジュリア・ショウ)を読み、『アルコール依存症の治療中に「原因のひとつは子供時代の性的虐待歴だ」とセラピスト等から繰り返し吹き込まれた男性が、実際にその記憶を抱いてしまい、加害者であると思った父親を刺殺してしまった』事例が載っていた。
そして「過誤記憶はごくありふれたものだ」と書かれていた。
②認知的不協和(『実際にあったことをなかったように感じる記憶又は相手に促されたままに歪めてしまった記憶』)
これについては、私自身が体感した。認知的不協和の実験(退屈な作業を延々とさせられた後に、『作業が面白かった』と言うように強要された被験者たちの認知が歪み、本当に面白い作業であったと記憶が修正された)の記事を読んでいた3月上旬、私は『ネガティブな感情に反して、ポジティブな言葉を述べることを強要された経験がある』と感じた。
記憶を辿ったところ、それは、PIPの最終回であった。オンライン会議の画面には「PIP未達成」の評価表があり、役員からもPIP未達成である旨、その理由は上司(役員自身及び私の直属の上司)とのコミュニケーションについて、役員達が満足する対応を私が行えなかったためであると告げられた。
この基準をクリアできる術は思いつかず、茫然とする中、人事部から繰り返しかつ執拗に『今回のPIPがどのような学びに繋がったか』『何を得たか』『どのように成長できたと思うか』等を問われ、私は、求められるままに『PIPのおかげで自分の不足点に気が付くことが出来た』『役員から直接指摘を頂けて感謝している』等の言葉を繰り返した。それは私の心情と相反するものであり、口にするたびに、心と頭(言葉)が乖離していく強いストレスを感じた。そして(ここは推測だが)私は恐らく認知の歪みに耐えきれず、この記憶自体を消した。
その”経験”は思い出すこと自体にストレスが伴った。
③ユダヤ人心理学者V・E・フランクルの『夜と霧』の一文
人は強制収容所に人間をぶちこんで全てを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない
④X(Twitter)上で拝見した、そもそも自己は確立しているのかという問い
『自己実現とか自分探しとか、あたかも確たる自己を確立できる、見つけられるかのような言説がある。しかし少なくとも私には、それはまやかしに思える。自己なんか実現しやしない。自分なんか探しても、玉ねぎのように皮をむいてる間になくなってしまう。空虚。』(@ShinShinohara)
※書かれている趣旨と今回の考察がズレている失礼は承知しつつも、きっかけであったのは確かなため、引用させていただく。
考えたこと
③の『あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない』を読んだ時に、それを奪えてしまうのが①、②であり、『洗脳』ではないかと感じた。
本人は『いかにふるまうか』を自由に選んでいると感じながらも、実際にはその前提の認知が歪められてしまっている。
私は直感的に、倫理的に一線を越えている……と感じた。
一方で、④を拝読して、そもそも『いかにふるまうか』を自由に選んでいるのだろうか(逆に言えば、完全に自由に選ぶ能力が人間にあるのだろうか)という疑問も湧いた。
物心ついてから親や学校で教わった事。本や友人達から学んだ事。それらは相手の何かしらの価値観により取捨選択されたものであり、それらに接することで人間は成長し、”自分の(と感じる)価値観”を持つ。
それは大人になっても変わらず、例えば社会人になってから持つ”仕事や上司に対する価値観”もまた、同僚や先輩、ネットに書き込まれた意見等の影響を受けながら、心の中に生まれて形を成していくものだろう。
つまり、人間が”自意識”を持つにあたっては、他人からの干渉・影響は不可欠だ。
では、どこからが倫理的に一線を越えた”洗脳”であり、どこまでが”相手の自由”を尊重しているといえるのだろうか。
例えば、マーケティングにおいて、消費者の購買意欲を掻き立てるために認知バイアスが広く活用されている。これを”洗脳だ!”というのは違和感がある。
一方で、認知バイアスが霊感商法等に使われているのはどうだろうか。これは一線を越えているというのが、近年の社会の倫理観だと思う。
”他者への指導・助言”についてはどうだろうか。
事例①、②のように記憶そのものを歪めてしまうのは一線を越えている。
体罰を与えた生徒・後輩に”ご指導ありがとうございます!”と何度も言わせるのはどうだろうか。DVをしながら”お前を愛しているからだ”と繰り返し、相手にもその発言を求めるのはどうだろうか。
私はいずれの場合も、止めるべきだと考える。本人の認知・記憶を歪めかねないし、歪んでしまったがゆえに、『自分がされて”良かったこと”』として被害者が今度は別の人にそれを繰り返してしまうことも考えられる。
次に、経済的DVに遭っている被害者に『私もそれくらいの金額でやりくりしている。これが普通』と助言するケースはどうだろうか。本人に『これが普通なんだ』と思いこませてしまい、助けを求めるという選択肢を遠のかせてしまう。だが、これは『社会と助言者の価値観の相違』によるものであり、助言した本人は『自分』の価値観で述べているだけだ。このようなやりとりは日常的にも交わされる。金銭、体調、未婚・結婚、子供の教育、家事、働き方等々……誰かが誰かに相談する度に、応答は生じる。多くの場合、相手からの助言は善意で行われ、相談者も助言又は同意を欲している。誰にも相談せずに孤立し、孤独の中で判断を下すのが正しいとも思えない。
長々と書いてしまったが、上記が今考えていることだ。
人間が他者との関係の中で自己を保っていく以上、認知バイアスはかかり、影響も受ける。それは避けられないし、強引に避けようとすれば孤独という別の苦を伴う。
だが、越えてはならない一線はある。記憶を歪め、選択の自由を奪ってはならない。
その境界線がどこなのか、私は知りたい。