不完全さを受け入れる勇気
自分の不完全さを受け入れることは3番目に難しい。
コンプレックスを長所に変えたり人は努力を積み重ねてる。
他人の不完全さを受け入れることは2番目に難しい。
きっと、理解できなくても、理解しようと仕事をしていたり、
開き直って公私を分けまえ、仮定して許す。
もしくは、許すことが楽になる可能性もあって受け入れることができたり。
でも、自分と他人との関係に不完全さがあることを受け入れることは何より1番難しい。
特に、恋人との関係が多いのかなと思う。
意見のすれ違い、
裏切られたと思えることだとか。
性格の不一致なんてよく人は言うけど、
性格が違うからお互いの良さを知ろうとできる。
むしろ、お互いの未熟な部分を見つめて、
"ともに成長していこう"と約束できること。(もしそれがちゃんと愛し合ってたらの話だけど)が大事だと思ってて、
自分と他人との関係になれば(相互作用)、
"自分自身が傷つく"という現象が起きるからそれがきつくて、
1番これが難しいのだと思う。
やっぱり人は傷つくことが怖いんだと思う。
じゃあ、自分が喧嘩をして裏切られたと思ってそっぽを向いた今日のことは、
それを酷いと思ったんじゃない。
"自分が傷つくことが苦しくてある意味自己中心的な感情"なんだ。
だから、ここで今日は、
人と人の間に生きてる頃から死ぬまでずっと存在し続ける
"不完全な関係"
を受け入れて積み重ねていくことについての祈りのような努力を言葉で綴ろうと思う。
人は人である限り不完全であることはみんな知ってる。
関係とは、そもそも"不完全な仲"で成長していく繋がりだと思う。
不完全を受け入れる勇気を振り絞る考え方を考えた。
①好きになった時点で両思いでも一方通行でしかないと知る。
両思いで付き合ってるから
"のび太のものはジャイアンのもの、ジャイアンのものはジャイアンのもの"
なんてなるわけでもない。
それはそう見える錯覚みたいなもの。
あくまで言葉が成立してるかのように思わせてるだけ。
でも、好きになった時点で傷つけられたくない感情的な情熱が一直線に矢印を向き、(わかりやすく伝えるため言葉を省略するが)
傷つけられたくない。を、
キャッチしてもらうことが、愛し合うことではないと思う。
②相手の不完全を許すには(怒り)共感能力(相手の欠点を悲しめる能力)が大事。
怒りから許すにはそのことについて、
悲しめる能力があれば許せると思う。
その事柄に共感する感じじゃなくて、
それをしたこと自体の人間としての弱さを憐むというような根本的なもの。
どれだけの時を超えて忙殺された日常で頑張りながら初めて佇んだのだろうみたいに
悲しい音楽を聴くときのような慈愛があふれる感覚。
クラシックなブルー(最高峰の憂鬱)と感じて
その人の擦れた痛みを詩的に悲しめれば怒りは消えていく。
実際に私は時間が経過して怒りを少しコントロールできるようになったら悲しい音楽を聴くようにしてる。
③不完全だから成長できる
罪の対義語を私は愛だと思ってる。
でも、罪と愛は裏表で重なって存在すると思ってる。
地球は悲しい罪で溢れているから愛が唯一生まれるような、
例えば今で言う、
コロナで距離が遠くなったから誰かに会いたくなるみたいなこの相対的な比例現象。
じゃあ、この不完全(マイナス)はさよならだけの罪で
終わりじゃなくて成長しよう(プラス)を
ちゃんと含みたい。
そうやって不完全をきっかけに良いものを作りたい。
不完全な出来事が起こったと言うことは、
成長痛に見舞われたとき。
それは成長する合図。
だからここで諦めないで人を愛したい。
友達でも親でも恋人でも家族でも。
『不完全な出来事が起こったとき、
成長痛が訪れたことだ。
それは成長する合図、
その関係において』
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