12. 現象学 ~ 再び
はじめに
”3. モデリングとは ~ 現象学からの考察”において、フッサールの現象学を元に、概念モデリングの基礎付けを考察しました。哲学的な観点からは、フッサールの現象学の他に、ウィットゲンシュタインの言語哲学、及び、マルクスガブリエルの新実存主義からも考察を行ってきたわけですが、ちょっと時代をさかのぼった、ヘーゲルの”精神現象学”について調べてみました。
今回は、
長谷川 宏著 講談社選書メチエ
を参考にしました。同じ著者が「精神現象学」そのものを翻訳された本が出版されているようですが、残念ながら入手できなかったのと、原書は非常に難解な本らしいので、読んだところで多分理解できない(苦笑)。
では、早速始めることにします。今回も、自分の言説にとって、都合の良いところだけ切り取って、都合の良い解釈をしないように細心の注意を払っています。
そもそも何故、モデリングに哲学?
”3. モデリングとは ~ 現象学からの考察”でも、概念モデリングの基礎を固めるために、形式は数学(結果として圏論)で、意味的妥当性は哲学で、という趣旨の話を書いたと思いますが、今回参考にした本の第五章に、ピッタリの文章があったので引用しますね。
”モデル”とは、対象の理解を他者と共有するためにの、ものごとの記述であり、その理解から記述までの過程を”モデリング”である、というのが著者の定義です。理解し記述するためには、正に、引用の太字で示した部分が重要であり、すなわち、
”モデリング”の妥当性を本気で考えるということ=”哲学”の領域に足を踏み込むこと
ということになるわけです。
また、著名な哲学者の言説は何年にもわたって沢山の哲学者達が議論を重ねてきていて、その結果、様々な論説が公開されています。私の説明について、誰かが疑問を持って質問してきたとき、その内容は、大抵、これまで誰かがどこかで残した論説で扱われた内容に一致するはずです。なので、そんな時には、それらの疑問・質問について、私の説明の解釈のもとになっている書籍等を紹介して、「まずは読んでくださいね。そちらを理解したうえで尚、質問したいことがあれば質問してくださいね」という事が出来ます。最近、方々で自分のバックグラウンドについて、30年強という枕詞をつけて、いかにも長く豊富な経験があるよ的な、自己紹介を書いていますが、しかし、たかだか本業をこなしたうえでの、片手間の30年の薄っぺらい経験を基にした言説よりも、ものによっては数百年の議論を経た言説をベースにした方が、より良い説明ができるであろうことは間違いないでしょう。
知の旅程
ヘーゲルの「精神現象学」では、知の旅程という事で、人間の感覚や知覚などを通じて、理性に至る過程が詳細に論じられています。その流れは、以下の通りだそうです。
感覚
裸の意識と裸の対象がむきあう
ただあるということ
知覚
「このもの」から物へ
物の外へ
科学的思考
力のたわむれ
現象界と内面世界
生命
運動体としての生命
根本衝動としての欲望
自己と他者
二つの自己意識がむきあう
生死を賭けた闘争
主人と奴隷の弁証法
不幸な意識における内部分裂
理性という境地
幸福な理性
理性は自在に世界と交流する
この旅程を読んでいて、はたと思い至ったのが、”5. 概念モデリングに関する圏論的考察 ‐ 議論のとっかかりとして”で論じた、圏I の世界、つまり、意味の場(ドメイン)における対象世界を、
概念インスタンス
概念インスタンスを性質を記述する特徴値の組
概念インスタンス間の意味的なつながり(リンク)
で写し取るという概念モデリングにおける記述の基礎要素の妥当性が正にここで解説されているということでした。
あ、当たり前の話ですが、”ヘーゲル『精神現象学』入門”の内容を全て、ここに引用することはできません。結果として、必要な部分だけを切り出して、それに私の言説を当てはめる形式になっています。良く判らないという人は、まず、”ヘーゲル『精神現象学』入門”の全文を実際に熟読するようにしてくださいね。
感覚的確信
先ずは、この言説、モデリングのとっかかりのことですよね。漠然とした意味の場において、なにかがあると感じている時点。概念インスタンスや特徴値、リンクを記述する前段階としてこの”感覚的確信”があるわけです。
また、本来ならヘーゲルの原文の確認が必要な気もしますが、この文章では、”もの”という言葉だけでなく”事柄”という言葉も使われていることから、その”あるもの”とは、実際に手に触れられる形のあるものだけのことを指しているのではないと、解釈して良いでしょう。具体的に言えば、商品販売の意味の場において、”もの”というのは、現実に物理的に存在してる商品や顧客のことだけでなく、形のない、購入、注文、契約、金額、なども、”あるもの”にふくまれるよ、ということです。
え?注文書や契約書は目に見えるですと?注文書は、注文という抽象的な概念を文章で記述したものであり、注文自体は目に見えたり触れるものではありませんよね。金額についても、それを具現化したコインや札、数字の文字列が本質ではなく、抽象的な概念であり、目に見えたり触れたりするものではありません。
「このもの」から物へ
この論説において、
概念インスタンス=単位体
特徴値=一つの性質
という対応付けができるのは間違いないでしょう。
つまり、”単位体”を”概念インスタンス”とし、その”概念インスタンス”が”複数の特徴値”でそれぞれの性質を記述するという考え方は、正に思考の自然なやりかたであると、結論付けられることになります。
加えて、ヘーゲルの”物の外へ”という論説に加えられた一文
は、概念モデリングにおける、概念インスタンス間の意味的なつながり(リンク)=関係のことであり、前述の概念モデリングにおける 圏I の3種類の要素を記述することは、人間の知覚においての基本事項であることを意味し、概念モデリングの道具立てが妥当であると言って良い根拠になると筆者は考えています。ちなみに、物と外界との関係を問う=意味の場を問う事でしょうね。
上の引用文に続けて、
とあり、概念モデリングの考え方は科学的思考に通じるものだという事になります。
ただし、ここで言われている”力”とは、重力や電磁気力のような物理的な力のことではなく、物と物との関係を紐づける力という意味で使われている事に注意が必要。ある意味的な関係において、二つの物がつながっている=引き合っていると考えても良いわけで、力が働いていると考えても、論理的な破綻はないでしょう。
ただあるということ
”ヘーゲル『精神現象学』入門”では、”感覚的確信”と”「このもの」から物へ”の間に、”ただあること”、そして、”「このもの」から一般的な経験へ”という節が論じられています。この記事では、私の思考の流れに合わせて順番を変えて、紹介していますが、これらの節の論説は、”もの”=”概念インスタンス”という点だけでなく、”7. 現実世界のダイナミクスと概念振舞モデルに関する考察”で論じた、今のつらなりとしての振舞モデルという考え方と奇しくも合致しているなと感じています。
”たくさんの「ここ」を含む単一体”=概念インスタンス群と概念インスタンス間のリンク群、という解釈になるでしょうかね。
それにしても、「いま」と「ここ」というのは突き詰めれば突き詰めるほど、不思議というか、奥が深い概念です。確か仏教の経典にも似たような話があったような気が…
人間は、複数の「いま」それぞれに対して知覚によって、たくさんの「ここ」を含む単一体を認識しているわけですが、それぞれの単一体の認識が圏I のモデルとすると、それぞれのモデル(=それぞれの今)に存在する概念インスタンス(その特徴値も含む)とリンクが、それぞれ一意?いや連続であるという認識は、どうして可能なのか、未だに謎だったりします。圏論的には、それが、それぞれの対象毎に一つしかない”恒等射(Identity)”なのかもしれませんが。
当たり前すぎて何故?と思うかもしれませんが、素粒子レベルで言えば、素粒子にはフェルミ粒子と、ボゾン粒子の二種類あって、ボゾン粒子は、そもそもが個々の区別がつかず、数というか、総量しかわからず、個々の粒子の区別はつきません。だから時間経過後の同一性なんてはなから論じることはできません。フェルミ粒子にしても、ある場においてスピンや電荷の値が全く同じ状態を複数の粒子が取れないから、かろうじて区別はつくけれど、両方のスピンの値が同時に変れば問題はありません。その場合、時間経過後に粒子ごとの区別が果たして可能なのかはなはだ疑問です。物理的な意味の場においては、物理的な存在物は全て、そんなアイデンティティがあやふやな粒子から構築されているわけで、果たして、時間の流れにおける一意性・同一性の一貫性が保たれるのははなはだ不思議。はて?って感じです。
科学的思考
ちょっと脱線しましたが、ヘーゲルの精神現象学に話を戻します。知覚の次に科学的思考に旅程は進みます。
これは、カントの純粋理性批判にでてくる認識論の否定だそうです。
”超感覚”とかいう言葉が出てくると、ムー好きの皆さんは、そっち系に意識が引っ張られそうですが、要するに、意味の場において、感覚だけでなく知覚が伴って(だから感覚を超えている)認識されているもので満たされているのが、現象界だという事になります。このヘーゲルの原著の翻訳の後に、
というこの本の著者の解説が入っています。ここからは私見になりますが、これまで私のコラムで論述してきた内容と合わせると、
感覚や知覚の段階(現象界)の描像 → 圏I の世界
現象界と呼ばれるにふさわしい構造を獲得した段階(内面世界)の描像 → 圏C の世界
つまり、概念インスタンス(特徴値で性質が記述されている)とリンクの世界である圏I(ここでもすでに意味の場の始点で事柄を知覚している)の描像は、その構造を一般化する事により、概念クラス(特徴値)と Relationship の概念情報モデルで記述される圏C になり、それが内面世界の描像であり、科学的思考の賜物である、といえると言ってよいのではないかと考えています。
…ここまでくると、モデリングの実務レベルではどうでもいい話という気もするのですが(苦笑)…
余談になりますが、P114 のあたりで、”一般化”と”抽象化”という言葉が出てきます。この言葉の明確な定義をこの書籍で説明してほしかったなと思う反面、この二つの言葉の意味は日常生活において、かなり曖昧だとおもっているので、私はこう考えている、という定義をここに書いておきます。あ、あくまでもモデリングにおいて、という前提での定義であることをお忘れなく。
一般化 → 圏I で記述された「いま」と「ここ」の総体を見渡して分類し、同じように見える「いま」と「ここ」を意味の場において整理すること → 圏I から圏C のモデルを作ること
抽象化 → 「いま」と「ここ」から意味の場において事柄を選び出すこと
”抽象”ということば、ソフトウェアやモデリングでよく使われる言葉ですが、これ、英語では”Abstraction”なんですよね。もちろん、Abstraction には抽象という訳語はあるんだけれど、むしろ、”抽出”という日本語訳の方が妥当なんじゃないかと昔からず~っと思ってます。一般の人は、抽象と聞くと、”抽象的”という言葉を頭に思い描いて、なんとなく曖昧なものを想像してしまいませんか?ソフトウェアにおける良い API は、”抽象化”された結果として定義されていますが、定義自体は厳密です。そしてそれは必要な事柄を抽出して不要な事柄を捨て去った結果です。曖昧に感じるとしたら、捨て去った不要な事柄が書かれていないことに起因しているのではないでしょうか。”抽象”の反対は”具象”であり、”曖昧”の反対は”厳密”ですね。
ついでに言っておくと、”抽象化”は、”単純化”とも違います。”抽象化”の対象が複雑(そして、現実は大抵そう)なら、”抽象化”した結果出来上がるモデルも、その複雑さを保持するものです。大抵の場合、その複雑な部分に問題の本質が隠れているものなので、それを切り落として出来上がった単純なモデルは大抵の場合実務では役立たないでしょう。もちろん、複雑なモデルの部分部分を順番に取り出して単純化し検討を加えていく、という作業が役立つのは間違いありませんが。
いずれにしろ、モデリングは抽象化する事が基本であり、それはものごとを曖昧に書くことではない、ついでに、不用意に単純化することでもない、ということを、頭に刻んでおく必要があることをお忘れなく。
加えるに、ニュートン力学をはじめとする方程式や科学万能主義に対する、ヘーゲルの考え方が結構興味深いので、言及しておくことにします。
ヘーゲルの「精神現象学」が出版されたのは1807年。ナポレオンのヨーロッパ戦争が進行し、神聖ローマ帝国が消滅する前夜。ニュートン力学は確立されていたけれど、未だ、相対性理論も量子論も、マックスウェルの電磁方程式も提唱されていない時代。それら物理学の偉大な発見が成された後でも、このヘーゲルの言説がそのまま当てはまるのは、新実存主義の観点からすれば、明らかでしょう。だって、全ての事柄を包含する現象世界なんてものは存在せず、複数の意味の場ごとの現象世界しかないのですから。
しかし、今時そんなことを信じている人は極少数だと思いますが、1970年に大阪で万博が開催されたころは、科学で何でも解決できて未来は明るいという印象を抱いている人が多くいて、科学万能主義心棒者が過去跋扈していたことは間違いありません。マルクスガブリエルやチョムスキー(?言語学者か?)もそうですが、案外、科学万能主義を否定する言説をする哲学者は多いのが事実。そんなことはさておいても、水俣病や四日市喘息をはじめとする公害、あの東日本大震災の時の原発事故を見れば、物理の方程式は間違ってなくても、それを活用する人間たちの不完全さを見れば、科学万能主義がいかに脆いか、証明する事例は沢山存在しています。
まぁね…ビジネスの効率化においては”見える化”はとても重要で数値化する事が基本ではあるけれど、革新的なビジネスモデルを創出する場合は、あまり数値は関係ない気がしますね。沢山の意味の場があるにもかかわらず、つまりは色んな観点から考えなきゃいけないってことですが、数字だけしか頭にない経営者とか中間管理職とかいますよね、偶に。
そういう連中は、単にすべてを数字にしないと理解できない、思考の幅の狭い輩で、そういうところで働く人達には同情を禁じ得ません。
池井戸潤の小説で、最後には主人公たちに失脚させられる登場人物に数字至上主義が多い印象ですが、そういう登場人物、単に数字しかわからない馬鹿なのかと思いきや、印象操作や隠ぺい工作においては頭脳フル回転なんですよね…単なる馬鹿じゃない…現実にそんな輩がいたら、もっと思考の幅を広げて、世界を有意義な方向に導くことに頭脳フル回転すればいいのに…と思う次第。
精神現象学×言語哲学×新実存主義×圏論 ⇒ 概念モデリング
はい、かなり脱線してしまいましたが、”ヘーゲル『精神現象学』入門”の引用はここまでとします。このセクションでは、”8. 概念モデルの言語論理学からの考察 ~ Frege、Russel、Wittgenstein”で解説した、ウィットゲンシュタインの言語哲学を、ヘーゲルの精神現象学に当てはめて、概念モデルを考察していく事にします。
(精神現象学×言語哲学)/ 新実存主義
ヘーゲルの精神現象学における、事柄に関して、感覚→知覚→科学的思考の知の旅程は、つまるところ言語で紡がれることになります。そして、現象界、内面世界は言語で記述、つまりは文で記述されることになります。
言語は、ウィットゲンシュタインの言語哲学に従うことになります。
要するに、記述されるべきは、もの単体だけではなく、ものとものとの関係が重要だということです。更には、文は述語文として書けるという事でした。
概念モデリングにおいては、この原理に基づき、以下に列記する二種類を組み合わせて、
圏I のモデル
概念インスタンスと特徴値
二つ概念インスタンスとその間の意味的なつながり(リンク)
圏C のモデル(概念情報モデル)
圏I の概念インスタンスと概念クラス
圏I のリンクと Relationship
概念クラスと特徴値
二つの概念クラスとその間の Relationship
それぞれ、意味の場において、意味が真の、述語文を作ることができることを、作成するモデルへの要請としています。え?なら、最初から文で書けばいいんじゃない?いえいえ、普通の文には曖昧さがつきまとうので、形式が必要で、文章だけで何らかの形式に従って言葉を紡ぐと凄くくどい文章になって理解を妨げるから、モデル化しましょうって話でしたね。
折角なので、
を例に書いてみましょう。この文章、既に、実際にどこかの場所に存在する塩の話なのか、分類としての塩の話なのか、既に曖昧だったりしますが。
先ずは、圏I のモデルであるとすると
概念インスタンス (CI)
その塩という物体
特徴値 : (Pk)
色が白
味が辛い
形が立方体
一定の重さ
であるといえます。概念インスタンス(CI)と特徴値(Pk)から作られる述語文は、
その CI の Pk は ~ だ
という形式になります。例えば、色や味ならば、
その塩という物体の色は白だ
その塩という物体の味は辛い ※ ”だ”で終わってないですが、日本語なのでご容赦
って感じですね。この塩の例文ではリンクに相当する事柄が出てこないので、追加することにします。
塩という物体は皿の上に載っている。その皿の色は黒で、形が丸く、一定の面積である。
新たに加えた、”皿”について、塩と同じように、圏I のモデルを記述してみると、新たに加わったのは、
概念インスタンス
その皿
特徴値
色が黒い
形が丸い
一定の面積
リンク
その塩という物体が、その皿に載っている
その皿は、その塩という物体を提供する
です。リンクの二番目は、”その皿は、その塩という物体を載せている”でも構わないのですが、敢えて、異なる言葉にしてみました。リストで書き下した、概念インスタンス、特徴値、リンクで使われている言葉は、あくまでも例であり、モデル化対象の意味の場によって変わるという事を忘れないでくださいね。リンクについては、既に述語文になっているので、モデルを図で描いておくことにします。
次に、これらを一般化する事にします。先ずは、その”塩というもの”についてです。圏I の世界においては、実際に現象界(意味の場)に存在する、それぞれのかたまりを区別でき識別可能な塩のどれかでした。実際には塩のかたまりがいくつも存在します。それぞれの塩というものが同じ特徴値を持つとして分類すると、それが”塩”という概念クラスが抽出できます。塩は、工場で精製された製品もあり、伝統的な天日干しで精製された製品、エベレストで採掘された岩塩など様々です。色は、白だけでなく、茶色がかっていたり、赤みがかっていたりするので、色という特徴値は、一般化されて概念クラスの特徴値になり、色という名前で、値域が、{白、茶色がかった白、赤みがかった白、…} というデータ型に一般化されます。他の特徴値も同様に考えて一般化することが可能です。ただし、重さと面積は、圏I の世界では、軽い、丁度いい、重い、とか、小さい、丁度良い、大きいという値でも構わなかったのですが、一般化の過程で、重さなら、グラムという単位を持つスカラー値、面積なら、平方センチメートルという単位を持つスカラー値のデータ型といった一般化が成されます。
この様に一般化され、内面世界の構造としての概念情報モデルは、
概念クラス
塩
色、味、形、重さ
皿
色、形、面積
Relationship
R1 ※ 便宜的な名前付け
塩から見ての皿
意味: 載っている
多重度:1
皿から見ての塩
意味: 提供する
多重度:*
データ型
色:{白、黒、茶色がかった白、赤みがかった白、…}
味:{少し辛い、辛い、とっても辛い、苦みがかった辛み、…}
こんな風になります。
こちらも、あくまでも例であって、モデル化対象の意味の場ごとに、全く変わっていく事に留意をお願いします。特に、Relationship の R1 の意味と多重度は、ちょっと変わるだけで、意味が全く変わるので注意が必要です。読者の皆さんは、単なる”塩という物体の提供形態(これが上の例の意味の場)”の場合と、一般的な料理のレシピ、業務用の食品加工に必要な調味料の調達、スーパーなどでの調味料の販売、をそれぞれ頭に浮かべて、それぞれのモデルがどうなるか、考えてみるとよいでしょう。
圏I のモデル要素と、圏C のモデル要素の関係は、述語文に書き下すと、
その塩という物体(概念インスタンス)は塩(概念クラス)である
塩(概念クラス)は、色という特徴値を持ち、その塩という物体の色は白である
…
その塩という物体(概念インスタンス)は塩(概念クラス)なので、皿(概念クラス)を雛形とするその皿に R1 の意味・多重度にしたがって、意味的につながっている。
これらの述語文は、圏I と圏C の概念を、敢えて混在させて書いています。
圏I のモデルは、圏C のモデルをスキーマとしているので、特に、”その塩という物体”などと対象を特定しなくても、
概念クラスを雛形とする任意の概念インスタンスについて、以下が成り立つ
概念クラスで定義された全ての特徴値で性質が表現される
他の概念クラスと Relationship が定義されている場合、その Relationship の両端の多重度と意味を満たす、
他の概念インスタンスとのリンクが存在する
リンクの数は、Relationship の多重度を満たしている
とだけ、宣言しておけば、”そのもの”、それぞれに対していちいち述語文を書く必要はありません。
う~ん…それにしても、正確に文章で書こうとすると…くどいですねぇ…
いずれにせよ、前述の、
概念インスタンス
その性質を表す特徴値の組
二つの概念インスタンスの間の意味的なつながり
更に厳密に言えば、意味的なつながりがいくつかの性質を持つならば、それらの特徴値の組
特徴値の値を規定する型
という圏Iの道具だては、精神現象学の感覚と知覚、言語哲学の文脈原理から、現象界(新実存主義の助けを借りれば意味の場に一致)の記述に対して、必要十分だろうというのが、私の結論です。
ただし、必要十分、つまり、それだけあれば記述可能であるという事実と、それを実際に実務で実践する場合にかかるコスト(この体系を理解し使いこなせるレベルに達するまでの習得コストと、各場面場面ごとに実践するのにかかるコスト)は別問題であり、実現できるからといって、そのツールセットを使う事の実用性には言及していないことに留意しした上での結論。実際に、複数の「いま」ごとに、圏I のモデルを人力で作ろうなんて、作成するコストを、作成したことによって得られるメリットで補うなんてことは、今時のAIを使わない限り不可能。
感覚と知覚に関する疑問
ウィットゲンシュタインの言語哲学やマルクスガブリエルの新実存主義を既に知っている身としては、既に解決済ではあるものの、ヘーゲルの精神現象学の感覚と知覚にたいして、一つの疑問が浮かびます。
それは、伝説や小説、映画やドラマなどの仮想の世界に対した時の、感覚と知覚はどうなるのかという疑問です。おとぎ話は放っておいても良いのではという意見もあるでしょうが、例えば、ビジネスで一般的な問題解決のフレームワークにおける、”問題”=”現実と理想のギャップ”でそのギャップを埋めるアクティビティが”課題”ってやつ、現実、理想それぞれに対する現象界と内面世界があるはずですが、現実は今だからよいとして、理想の方は、単なる想像にすぎず、おとぎ話と同類の絵空事です。現実には存在しない事柄に対する、感覚→知覚→科学的思考はどう考えたらよいのでしょう。ちなみに、私の乏しい知識の範囲では、フッサールの現象学では言及無し、ウィットゲンシュタインの言語哲学では未解決(曖昧?)、マルクスガブリエルの新実存主義では、複数の意味の場で解決済み。
もしかすると、フッサールの『精神現象学』の原著には、この疑問に対する回答が書かれているのかもしれませんね。原文を読むのは難しいとしても翻訳本は手に入れたいところです。
まぁ、私としては、マルクスガブリエルの新実存主義の多数の意味の場という考え方でこの問題は難なく説明できる(解明済み)ので、論考としてはここまでとしておきます。
現象界(内面世界)= 意味の場 = 圏 = 論理空間
さて、ここでは、”5. 概念モデリングに関する圏論的考察 ‐ 議論のとっかかりとして”で詳しく解説している数学の圏論を、これまで主に哲学的な側面から論考してきた内容に適用してみることにします。
まぁ、フッサールさん的には、「数学ごときがゆたかな現象界(内面世界)を記述尽くせるとか馬鹿言ってんじゃないよ」なんでしょうが、現象界(内面世界)が、それぞれの複数の意味の場の集まり(多分、意味の場の数は、実数と同じ濃度の無限ではないだろうか)であるとすれば、そして、思考は言語なしでは成り立たない、かつ、文脈原理や論理空間という原理を合わせて考えれば、それぞれの意味の場ごとに、圏論でいうところの、圏(対象、射、恒等射、射の交換則)として記述して問題なかろうというのが私の結論です。とすれば、
”意味の場” は ”圏” として数学的に記述可能
※ これも実際にそれをやることのコストは度外視している点にご留意。
と言ってよいでしょう。
そもそも、言語(日本語とかドイツ語とか、プログラミング言語でも構いません)や数学、更には概念モデリングも、新実存主義流に考えれば、当然、それぞれが意味の場と考えて差し支えない。という事は、
ある意味の場を使って、別の意味の場を記述できる
という関係が、ある意味の場同士には成り立っていると言えるでしょう。これを数学の圏論的に表現するならば、
圏L を使って、圏F を記述できる
記述された圏を圏Lf とする
圏L は 圏Lf と自然同型であり、圏L は 圏Lf のスキーマ圏である
圏L は特定の圏F だけでなく、任意の圏を記述できる
と言えるでしょう。最後の項目は、一瞬「?」となるかもしれません。例えば、日本語の説明を日本語で記述したりしますよね、そういう事です。同様に、概念モデルも概念モデル自身を記述できます。一般的には、この様なモデルのことを”メタモデル”と呼ぶことが多いです。
更に、ある一つの意味の場(圏F)を様々な言語やツール(それぞれ、圏L、圏M、…とする)で、記述したならば、それぞれが同じ意味の場を対象にしているのですから、出来上がった記述も内容的には同一のはずなので
圏L、圏M、…で記述された圏Lf、圏Mf、… 同士は自然同値である
と結論づけられます。
はて?圏L、圏M、…は、自然同値だろうか?という疑問が今、私の頭をよぎりましたが、少なくとも、言語の圏と概念モデリングの圏は自然同値だろうなという予感の元、この点は宿題とすることにして先に進みますね。
ここまでで、複数の意味の場の中には、別の意味の場を記述するスキーマとして使えることについてみてきました。
次は、別種の意味の場間の関係について、考えてみます。マルクスガブリエルの新実存主義で使われているサイクリングの例では、
サイクリングで使う自転車
自転車そのものの構造など
は異なる意味の場だとされています。この場合、サイクリングでは自転車は使うけれど、サイクリングの意味の場に現象する事柄との関係と、例えば、自転車製造会社やアフターケアが手厚い自転車販売店の意味の場に現象する自転車と他の事柄との関係や意味は異なるという事です。
それぞれの意味の場は異なってはいますが、サイクリングをする人が使っている自転車と、その自転車製造会社が製造して記録として残している自転車、及び、自転車販売店の顧客管理に載っている販売済みで定期点検を予定している自転車は現実の物理世界に存在している一つの同じ自転車を指している事は間違いありません。
それぞれの自然の場を圏C、圏P、圏Sとし、概念モデリングの圏M(概念インスタンスの世界とします)をスキーマとしてモデルを作成(作成された圏をそれぞれ圏Mc、圏Mp、圏Msとする)した場合を考えると、それぞれの圏Mc、圏Mp、圏Msには、現実の物理世界に存在する一つの自転車に対応する概念インスタンスがそれぞれ存在することになります。
結果として、圏Mc、圏Mp、圏Ms を外側から眺めて、概念インスタンスの対応付けが可能だという事になります。ここでは概念インスタンスを例に挙げましたが、対応付け可能なのは、特徴値も意味的なつながりもデータ型も同様です。また、この対応付けは、1対1の対応付けだけでなく、1対多の場合も場合によってはありえます。
まとめると、二番目の対応付けは、
異なる複数の意味の場に現象する事柄を対応付けることが出来る
という事です。こちらの方も、数学の圏論では、関手というツールがあって、ある圏の対象と射を、別の圏に対応付けることができ、数学的な記述が可能です。
私が提唱する概念モデリングは、Shlaer-Mellor 法(現 Executable & Translatable UML)をベースにしています。この方法論では、提唱当時から、Domain(ドメイン)という概念が用意されていました。これは正に、新実存主義における意味の場と同じコンセプトだというのが、私の見解なのですが、Domain の他に、Domain 間を対応付ける Bridge(ブリッジ)という概念もまた、Shlaer-Mellor 法の提唱当時から用意されています。この Bridge は、前述の複数の意味の場の間の対応関係のことと同様であると考えて構わないでしょう。
以上から、Shlaer-Mellor 法、Executable & Translatable UML では、曖昧だった、Domain や Bridge の定義が哲学的観点、かつ数学的観点からもきちんと定義されたといってよいでしょう。
最後に
今回の記事の、特に後半からは、長年 Shlaer-Mellor 法系に携わってきた人以外、何の話をしているのか珍紛漢紛だったかもしれません。軽くお詫び。
今回の論考を通じて、Domain、Bridge の正体だけでなく、圏I のモデル、圏C(概念情報モデル)についても、その道具立て・構造の妥当性がようやく検証できたと思っています。
2023年4月から始めた、私の知の旅も、15か月かけてようやくゴールに到達できたようです。
ん?本当のゴールは、この一連の考察を踏まえて、”Art of Conceptual Modeling”、”チュートリアル”、”Modeling Workshop”のコンテンツのリニューアルが完了した時点でした。まだまだ、旅は続きまする。
あ、Shlaer-Mellor 法の Domain という用語、私の概念モデリングでどういう用語にしようか迷っていたのですが、ようやく決定。べたですが(苦笑)、
概念ドメイン(Conceptual Domain)
とします。意味の場(Sense of Field)でもいいんだけど、戦友たちに通じなさそうなので…