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3. モデリングとは ~ 現象学からの考察

はじめに

今回は、”Art of Conceptual Modeling”で紹介している概念モデリングに対して現象学からの考察を書いてみようと思います。

背景

最近、方々で言って回っているように、今、私は、Open AI を使った概念モデルの自動生成サービスの開発に着手(8割がた言ってるだけですが:苦笑)しようとしていて、まずはその前に、”Art of Conceptual Modeling” の数学的な基礎を整理しようとして、圏論(Category Theory)の習得に努めて(結構てこずってる:苦笑)います。このトピックは、どこかの時点で、このコラムシリーズで書く予定(いつになることやら…)

IoT・Digital Twins 最初の一歩” でも書いているように、”概念モデリング”は、開発するソフトウェアのモデル化ではなく、開発対象の現実世界をモデル化する技術体系であると、私は考えています。”現実世界をモデル化する”とは、現実世界を理解し記述することです。理解と記述は並行して進みます。
ちょっと話はそれますが、現実世界をモデル化するということは、ソフトウェア開発以外の、身の回りのありとあらゆる事象に対して、理解の促進と記述方法として、”概念モデリング”が活用できるということを意味します。

モデル化にはモデルを記述するための記法と意味論(+記述するためのノウハウ・テクニック)が必要です。
こちらは、多分、数学の圏論で論理的に記述できるんだろうというのが今の感触で、こちらは私の圏論の理解の進展に伴って粛々とやっていくことにしていくわけですが、そもそもの疑問を私はずっと持っていたわけです。

概念モデル”が、いくら正当な記法と意味論を持っていたとして、そもそも、

現実世界の対象を”概念モデリング”で正しくモデル化(記述)できるのか?

という疑問です。一応、”Art of Conceptual Modeling”では、方便的な理屈で”モデル化できる”と説明しているのですが、なんだか怪しい…
この疑問をよくよく突き詰めていくと、以下の二つの問いに行きつきました。

  1. 現実という”客観”の世界と人間の”主観”を通じて認識した世界は一致するか

  2. 一致するとして、その記述方法として”概念モデリング”は適切なのか

これらは技術や数学の問題というより、哲学の問題だよな…ということで、圏論の書籍にもしばしば出てくる、現代哲学の一つ、”現象学”について、そういえば結構前に買って読んで感動した”現象学”の本を引っ張り出してきて、これまでの”知識と体験”、そして、この2つの問いをベースに、もう一回ちゃんと読んで、自分なりの答えを出してみようと思った次第。

以下、現時点での自分なりの答えを紹介していきます。

現象学とは

今回、もう一回読み込んでみた本は、竹田青嗣氏の、

筑摩書房 シリーズ・人間学 3 現象学は〈思考の原理〉である / 竹田 青嗣 著 (chikumashobo.co.jp)

です。いつ買って読んだかもう記憶にない(2004年出版の本なので、それ以降には違いないw)ですが、その時、”現象学いいじゃん”と思ったことは覚えていても、内容は全く忘れているという…
(なぜ、こんな小難しい本読んでるかって?私は基本歴オタでかつ伝奇小説マニアなので、その流れで、宗教や哲学の思想的な話にも詳しくなって、そのついでに正確な情報を知識として習得したくなるという変態だからです。でもね…変な宗教や啓発本に引っかからないためにも、宗教や哲学とか知識として知っておいたほうがいいと思うよ)

で、「現象学(phenomenology)」って何?という方、職業哲学者ではない私が言うのもなんですが、どうやら本職かつ高名な哲学者でも、誤解している人が多いらしいので、上に挙げた「現象学は<思考の原理>である」を読んでみてください。このコラムで書く私の見解は、この書籍の内容を完全に沿っているものであることをご了承ください。

「現象学」を簡単に紹介すると、フッサール(1859‐1938)というオーストリアの哲学者が書いた難解な書籍に書かれている内容を元にした哲学で、「Cogito, ergo sum(われ思うゆえにわれあり)」のデカルト(1596-1650)、純粋理性批判のカント(1724-1804)、弁証法のヘーゲル(1770-1831)、解釈の多様性のニーチェ(1844-1900)を経て、認識論に関する最も深い考察で、フッサール以後は、存在と時間のハイデッガー(1889-1976)等に影響を与えているとのこと。
しかし、戦後のポストモダン(構造主義)が台頭し、ヴィットゲンシュタイン、デリダらの現象学への誤解も相まって、しばらくは日陰者的な扱いを受けていたらしいです。
※ ポストモダン心棒者の方でこのコラムの内容に納得できない人は、私ではなく、この書籍に八つ当たりしてね。

現象学の核心(コア)

前置きが長くなりましたが、この書籍によれば、現象学の肝は、”現象学的還元”にあるそうです。

「現象学的還元」
我々が「身体」を動かすという体験、あるいはまた「身体」で様々な事物を感じるという体験を、「意識」に生じている事柄として適切に記述できれば、それが、「身体」体験の「現象学的還元」となる

筑摩書房 シリーズ・人間学 3 現象学は〈思考の原理〉である / 竹田 青嗣 著 (chikumashobo.co.jp) P50

フッサールが重要だと言っているのは、正に、この、”現象学的還元”だけ、と言っても過言ではないという事らしく、この点をきちんと理解しないと、不毛な永遠のスコラ的問答が始まってしまうとのことでした。

ここで、私は思うわけです。「当たり前のこと言ってないか?」そして、モデリングに関する問いを持っている者として、

「え?ってことは、モデリングで言えば、モデル化する事=「現象学的還元」と言って良いのでは?だって、モデル化する事=記述する事だから」

と。もう少し書籍からの引用を続けると、

身体を動かすというような体験を適切に記述することはそもそも不可能
概念的な事態ではなく、感性的な事態だから。表象様式は無限だから
(若干変えてます)

筑摩書房 シリーズ・人間学 3 現象学は〈思考の原理〉である / 竹田 青嗣 著 (chikumashobo.co.jp) P50

だそうで、まぁ、これも当たり前。「体を動かす」は「体で感じる」に置き換えても意味は通るでしょう。表象様式は無限なので、私が公開している”Art of Conceptual Modeling”の概念モデリングの方法以外にも数多の表現方法があるってことですね。
更に引用を続けます。

① コギタチオ(意識体験)ーコギターツム(意識を向けている対象そのもの)という構造がある ー 現に知覚しているのはつねに一部、だがそれを通して全体対象を志向的に体験しているという事
② 「中心対象」と「背景野」という構造がある ー メルロー=ポンティ的には、「地と図」
③ 注意、配置という主体的な中心点がある

筑摩書房 シリーズ・人間学 3 現象学は〈思考の原理〉である / 竹田 青嗣 著 (chikumashobo.co.jp) 

フッサールが「意識の本質」を把握せよという時、それはつまり、知覚体験において、誰にとっても「共通項」として取り出しうる事柄を記述せよ、という事を意味するそうです。対象を見ているのは、私だけでなく、あなたや他の大勢も見ていて、それぞれの知覚している内容はそれぞれで異なる可能性があるから、”誰にとっても「共通項」として取り出しうる事項を記述せよ”という事になる訳です。この、”抽出する作業”=”還元”と呼んでいると。

「知覚」という体験の共通項を取り出す作業が、知覚の現象学的還元であり、「意識体験の本質」あるいは「意識のア・プリオリ」を把握するとは、すなわちそういうこと

筑摩書房 シリーズ・人間学 3 現象学は〈思考の原理〉である / 竹田 青嗣 著 (chikumashobo.co.jp)

で、何故、フッサールはそんなことをする必要があると考えたかというと、

「確信成立の条件と構造」を解明する為 ⇔ 近代哲学の「認識問題」を解明する

だそうです。

「還元」という方法の内実=”一切の体験・経験を意識体験(経験)として見て、その万人にとっての共通構造(本質構造)を取り出す事それ以外の神秘的意味は全くない

筑摩書房 シリーズ・人間学 3 現象学は〈思考の原理〉である / 竹田 青嗣 著 (chikumashobo.co.jp) P54

どうやら、体験・経験あたりで個々の神秘主義的な解釈という誤解が、後世で生じたらしく、現象学に対する誤解が広まったようですね。
フッサールの時代(今もそうな気もしますが)は、深刻な宗派やイデ⇒オロギー対立の時代で、各人の主観的な思い込みによるバトルがやばい状態になり、それを解決するにはどうしたらよいか、というのも動機の一つのようですね。”確信”は”信念”と同義で、その確信・信念に至る信憑構造がある、つまりは、

人間の認識構造を「信憑構造」として捉えよ⇒「確信成立の条件」の解明

が、現象学の第一の問題だと。

近代の「認識問題」は、一般的にはデカルトの

「主観」と「客観」は一致するのか?

が最大のテーマだそうで、
例えば、目の前にリンゴがあったとして、そのリンゴ(見ている人にとっての主観としてのリンゴ)と「リンゴそれ自体」(客観としてのリンゴ)が一致しているかどうかを問う図式です。しかし、何かを認識する場合に、その中心対象(リンゴ)と、その中心対象が存在する背景野、つまり、世界像においての認識が実は問題なので、この問いは、

そもそも、正しい「世界像」があるのか?

と同義になると。多分これ、ギリシャ時代から連綿と続く、プラトンのイデア論や西洋のキリスト教の教義が絶対だった時代の影響もあるのではないかと思いますが。
複数の観察者が抱いている世界像が異なれば当然信念対決が生まれるわけです。

  1. 宗派的世界観の対立。自分が信じる世界像が正しく他は悪

  2. どれも間違っていて「正しい」考えはどこかほかにある。神のみぞ知る=カント・モデル

  3. 「正しい世界観」など存在しない、「強力な世界観」があるだけ=ニーチェモデル

    • 懐疑主義、相対主義→普遍性の概念が成立しないという大問題

現代においては、「真理」という概念は破棄されても不都合はないレベルだが、「普遍性」の概念はとても重要だという事だそうです。そういわれてみれば、人権の概念や、国際連合憲章、日本国憲法って、普遍性を大事にしてますね…て感じ。
普遍的なもの、の代表格は自然科学の知見になる訳です。私見ですが、数学は最もそのレベルが高いのではないかと。

で、フッサールの考え方は、ニーチェの「客観世界」は存在しないという考え方を一歩進めたもので、そう考えれば、

  • 各自の世界観は、それぞれの「確信」(信念)だという事になる

  • 「確信」であるからには、それぞれが、その世界観を確信するに至る「条件」があるはず

  • なぜはら、人間の「確信」や「信念」というものは、決して恣意的なもの(単なる思い込み)ではなく、必ず、一定の構造条件を持つから

という事になります。なので、

正しい世界像が存在するという想定を一旦破棄する ‐ エポケー(括弧入れ)

が重要でかつ、各人の「確信」や「信念」をすり合わせて、共通する領域(普遍性がある)を合意していく事が重要だと。
その合意の結果積み重ねられてきたものが、数学や論理学、自然科学になると。一方で共通が難しい領域=文化や価値観で、これらは、どれが正しいという判断はそもそも不可能であり、その領域は、相互認証の領域だよと。
きわめて当たり前で平和的な考え方だと思いませんか?

「現象学」で「認識問題」を書き換えると、

  1. 「絶対的な真理」というものは存在しない。

    • 我々が「真理」とか「客観」と呼んでいるものは、万人が同じものとして認識=了解するもののことである。

    • 人間の認識は、共通認識の成立しえない領域を構造的に含んでおり、そのため、「絶対的な真理」「絶対的な客観」は成立しない

  2. しかし逆に、「客観」や「真理」とよぶものは全くの無根拠であるとは言えない。

    • その様な領域、つまり、共通認識、共通了解の成立する領域が必ず存在し、そこでは科学、学問的値知、精密な学といったものが成り立つ可能性が原理的に存在する。

モデリングに対する第一の問いへの回答

ここまでくると、私の、

現実世界の対象を”概念モデリング”で正しくモデル化(記述)できるのか?

の第一の問いである、

  1. 現実という”客観”の世界と人間の”主観”を通じて認識した世界は一致するか

は、無意味な問いであることが判ります。何故なら、そもそも正しい「客観」、「主観」などないからです。元々無意味な問いを強引に突き詰めていくと、多分、他のモデリング技法の流派との血生臭い抗争や、例え同じモデリング技法の流派の間でも、解釈の違いによる血みどろのバトルが発生するのではないかなと。
では、概念モデリングが全く意味が無いかというと、私の見解では、私が公開しているモデリング技法に限らず、

  • モデル化する事=現実世界を記述する事であり、他者の主観的世界観との共通項を括りだすための手段になりうる

    • ⇒むしろ何らかのモデル化技法は必須だろう

  • 出来上がったモデルが正しいかどうかを問う事は無意味であり、そのモデルに関わる人(モデル化対象の世界に参加している人達)が同意するか否かが重要

  • モデルは、モデル作成者がモデル化対象の世界に対して抱いている確信が何故成立するのかを説明する為の、条件と構造の記述である

だという「確信」「信念」に至った次第。この考え方を沢山の人が承認してくれれば、普遍性ある意見になると、いう事ですね。

予断になりますが、”背景野”とか”世界像”という言葉が非常に気になっています。この二つに関する更に深い説明は書籍には無いのですが、これ、”Art of Conceptual Modeling”でいうところの、主題領域(ドメイン)なんじゃないかなと思っている次第。この辺、一般の哲学者が取り上げて議論してくれる話題ではないので、私が、現象学の観点から、

概念モデリングの主題領域(ドメイン)は、認識における”背景野”、あるいは、”世界像”である

と再定義してしまっても構わないのかもしれません。概念モデリング的には、主題領域(ドメイン)が違えば、全く異なる概念モデルが出来上がり、複数のドメインを組合せ、あるいは、掛け合わせて実際のシステムを生成するので、主題領域(ドメイン)は複数同時並行的に存在するのは当たり前で自然な状態なんですね。概念モデリングに限らず、自然現象を記述する時に、数学的手法、物理学的手法、化学的手法で、全くトピックが異なるのと同じように、社会一般のお話・対象に対しても、世界像を共通化するのではなく、”その確信はこの世界像”、”この確信はあの世界像”とむしろ積極的に世界像を明確に定義したほうが、誤解なく、議論がスムーズにいくんじゃないかなと思ったりもします。
うん、それがいいだろう。

認識論の話に戻りますが、例えば、目の前に赤い美味しそうなリンゴがあるとした場合、現象学より前の認識論では、

今目の前にリンゴが存在しているので、赤くて、丸くて、つやつやした様子が私に見える

と考えがちなんですが、これは現象学的には正しくないと。現象学的に正しいのは、

いま私に赤くて、丸くて、つやつやした様子が見えている、だから私は目の前にリンゴが実在しているという確信を持つのだ

ってことです。この二番目の文章の構造をよく見ると、リンゴ単体の話をしているのではなく、リンゴと、それを見ている私の話になっているわけですね。現実の世界は何かが一個だけあるのではなく複数の対象が意味的な相関をもって存在していることもまた事実。
要するに、中心対象は、一個だけ単体でポツンと存在しているのではなく、その他の対象と関係して存在しているという事になり、当然、それらを記述するという事は、その対象と関係を記述することになります。

人間の世界を事実としての世界としてではなく、「関係の世界」、すなわちたえず「意味」と「価値」の連環として編み変えられている「関係の世界」として捉える事、これが「世界」を「本質」として捉える視点の核心

筑摩書房 シリーズ・人間学 3 現象学は〈思考の原理〉である / 竹田 青嗣 著 (chikumashobo.co.jp) P251

更には、記述された対象は、現実世界の対象そのものではなく、分類であることにも留意が必要です。
この辺り、次のセクションでより何を言っているのか明確になると思うので、ちょっと我慢してくださいね。
まぁ、この辺りが数学的に定式化しようとしていくと、圏論がフィットする由縁なのかなという子もしますが。。。

とするとですよ、”Art of Conceptual Modeling”の、概念情報モデルの

  • 背景野としての主題領域(ドメイン)

  • 特徴値を束ねた対象の分類としての、概念クラス

  • 対象間の関係の意味と多重度を定義する、Relationship

という道具立ては、対象世界を記述する為の必要最低限を満たすなぁ…というのが私の見解。

言語とは?

概念モデルを描くのに図を使いますが、概念クラス、特徴値、データ型、Relationship の意味は全て言葉で定義します。概念モデリングに関わらず、今流行りの ChatGPT や Open AI に対する問いと回答は、言語で行うので、現象学的に見たときに言語をどう解釈するのかという点は非常に興味深いところです。多分皆さんご存じの、ポストモダンの言語論でよく出てくる、”「すべてのクレタ人は嘘つきだ」とクレタ人が言う”という矛盾は、現象学でどう解決されるのかについても、書籍では扱われています。

普段何気なく、話したり書いたりする言葉ですが、言葉は、単語や助詞の連なりからなります。
このことについて、書籍の説明を引用していきます。

どれほど単純に見える言語行為でも、必ず「一般意味」を利用して、その都度の各自的な「意」の投げかけあい(関係企投)を行っているといえる。
この様に語の「一般意味」と、言語の「企投的意味」は違った本質を持っている

筑摩書房 シリーズ・人間学 3 現象学は〈思考の原理〉である / 竹田 青嗣 著 (chikumashobo.co.jp) P165

先ほど例に挙げた、”「すべてのクレタ人は嘘つきだ」とクレタ人が言う”は、一般意味からすれば矛盾ですが、例えば、実際にクレタ島に旅行して、地元の人がこの言葉を聞いたら、矛盾だと思うのはよほどの融通の利かない頓珍漢であって、普通の人なら、このクレタ人が言っているのは、「大抵のクレタ人は嘘つきだから注意してね」という意味にとるでしょう。こちらの方が、所謂、「企投的意味」になる訳です。
話は少し逸れてしまいますが、ChatGPT に出会った時の衝撃は、AI が「一般意味」ではなく「企投的意味」の解釈で問いのテキストを解釈し、その結果を「企投的意味」を踏まえて回答している、という点にもあるのではないでしょうか。

この実存的企投に発する他者との世界了解の共有(分有)ということが、発語する事の基本的「動機」であり、またそれが、「現実言語」の「企投的意味」の本質です。更にこの様な関係行為としての言語による「企投的意味」の集合的な痕跡(積み重なり)として、言語の「一般意味」(辞書的意味)が成り立っている

筑摩書房 シリーズ・人間学 3 現象学は〈思考の原理〉である / 竹田 青嗣 著 (chikumashobo.co.jp) P172

「企投的意味」を理解するには、対象の認識の時と同様に、話者間の間で、世界了解の共有が成されている事が重要だという事ですね。

さて、この現象学的な言語の解釈を、概念モデリングに当てはめてみます。概念情報モデルの記述では、このセクションの冒頭で書いたように、言葉を用います。図上に散りばめられた単語は、それら単体だけを見ると、「一般意味」しか持ち得ません。しかし、その単語が配置されている場所、例えば、それが概念クラスの名前であれば、「一般意味」の単語が付与された特徴値の組との組み合わせと、「一般意味」の単語、助詞で構成された Relationship の意味、多重度が、その概念クラスを定義したモデル作成者が想定する「企投的意味」を補強することになります。更には、その概念情報モデルを構成する概念情報クラス群と Relationship 群によって構成される主題領域(ドメイン)を想定することによって、更に、モデルに散りばめられた単語の「企投的意味」がより明確化するのではないかと、いうのが、現時点での私の見解です。
この辺りから、私の概念モデリングに関する第二の問

一致するとして、その記述方法として”概念モデリング”は適切なのか

は、ある程度、Yes と言えるんじゃないかなと思います。これ、あくまでも、”適切”であって、”正しい”ではないことが味噌です。正しいかどうか、特に、絶対的に正しいかどうかを問う事は、現象学的には無意味です。

最後に

SNS が発達しすぎて(まぁ、2023/7/7現在、SNS の雄、Twitter は青色吐息ですが)些細な事で罵り合いが発生したり、嘘情報を意図的に流して世の中を欺こうというような情報操作が横行てしまうような現在ですが、現象学は、そんな状況を解決する為の様々な示唆に富んでいるなと。
印象に残った文面を幾つか最後に挙げて、今回は終わりにすることとします。

ヘーゲルが解きたかったこと

近代が人間に「自由」をもたらすとき必然的に現れてくる、社会的な「普遍性」と個人の「個別性」という両項の対立的な状態をいかに克服するか

筑摩書房 シリーズ・人間学 3 現象学は〈思考の原理〉である / 竹田 青嗣 著 (chikumashobo.co.jp) P185

世界の正しい「意味」ではなく、人間の生を支援する様な新しい「価値」の基準を作り出す事が問題。
(ヨーロッパ近代哲学は総じて哲学の中心問題を、世界の正しい「認識」および道徳的価値の称揚という二つの問題として解釈してきた。しかしこれらは実は一つの世界解釈、キリスト強敵人間解釈に依存するルサンチマン的な世界解釈にすぎなかった。それを意識してしまった以上、真なる「認識」ではなく、「価値」の本質を探究し、人間に生の力を与える新しい「価値」を打ち立てる事)

筑摩書房 シリーズ・人間学 3 現象学は〈思考の原理〉である / 竹田 青嗣 著 (chikumashobo.co.jp) P187

この書籍によれば、ポストモダンの基本的な考え方は、認識とかそういうのを取っ払って構造を中心に据えるのが基本、つまりは、構造主義だと。どこかで聞いた気もするんだけど。
で、ふと思ったのが、2000年前後に OMT や UML が流行った時に、ひし形の包含関係は定義しても、Relationship(Associationと言っても良し)を定義しない人が多かったり、オントロジー的モデルと言っても空間的な構造や親子関係という構造のモデルはかけても意味論的な Relationship 主体のモデルが描けない原因は、ここにあるのかなと思った次第。知らんけどw

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