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短編小説「非通知」




 男性が出勤し席に着いたタイミングで社用携帯が鳴った。確認するとディスプレイには〝非通知〟の文字が表示されていた。悪戯であること思い、出ないことも考えたが万が一に同僚、もしくは上司からの呼び出しだった場合を天秤にかけ、男性は電話に出ることにした。



 「仕事中に申し訳ございません。これから何も話さず指示に従うようお願いいたします。私は貴方様のデスクの上から2番目の引き出しに茶封筒を入れておきました。どうぞご確認ください。———そうです、それです。それをお持ちになり、今から会社を早退なさってください。上司には私から話は通してありますので、すぐに対応してくださると思います。貴方様が会社を出た瞬間に再度、ご連絡いたします」



 不審な電話であった。相手の声は加工されており男か女かすらわからなかった。しかし、通話中に話していた茶封筒は嘘ではなかった。そして、話しぶりからして相手は男性の姿を確認しながら話を進めていた。その事実が男性の不安を増長させた。警察に電話しようかとも一瞬考えた。




 しかし、男性はその行動がどのような結果に結びつくのか想像してみた。想像に際限はない。自分の身に降りかかる最悪な状況のみ考えてしまう。何事もなく明日を迎えられる想像など全くできなかった。目の前にある茶封筒が男性が悪い方へと想像力を働かせる助けをしていた。そして、その不安は得体の知れない大きな力のように感じられた。



 男性は茶封筒を手に取り、上司の座るデスクへと向かうことにした。まずは試してみることにしたのだ。上司に早退の相談を持ちかけ、その反応を見る。それだけでも対峙している相手のことが知れるのではないかと思ったのである。



 しかし、結果から話すと男性の目論見は外れることとなった。的外れであったと言っても良い。男性は上司に話すことすらできなかったのである。男性が席を立とうとした瞬間、タイミング悪く同僚が話しかけてきたのである。「お疲れ様。なあ、お前何かしたのか?」「なんだよ急に。俺はこれから上司のところに行って、早退を申し出ようかと思ってた位だ。どちらかと言うと〝これから何かしようとしてる〟ってのが正しいかも知れない」男性の返答を聞いて、同僚は少し顔を引きつらせながら、左手に持っていた正方形の付箋シールを男性に見せた。そこにはこう記されていた。



〝今日悪いがこのまま早退してくれ。挨拶などもいいからなるべく早く〟



 「これ、いま上司からお前に渡してくれって言われて持ってきたんだけど、こんな偶然あるんだな」男性は同僚の見せた付箋から目を離すことができず、口の中が乾いていくのを感じた。そして、得体の知れない存在の大きさがまた一回り男性の中で肥大化した。



 男性は先ほど脱いだアウターを着込んで、急いで職場を後にした。歩くスピードは普段より圧倒的に速い。何者かを待たせている。その感覚が男性を無意識に急かし立てていた。社内のエレベーターに乗っている時には男性の焦りはピークに達していた。エレベーター特有の下降時にある浮遊感の中、天井に設置されているカメラをチラリと見た。(まさか、このカメラの映像も相手は見てるのだろうか?いや、ありえない。先ほどの電話のやりとりは普通に考えてビルの窓からでも私の挙動を見てたに違いない)



 男性は焦りながらも自分を落ち着かせようと、考えをさらに巡らせていた。しかし、思考による分析が破綻していることに本人は気づいていない。彼はやはり平常ではないのだろう。彼の今いたオフィスは就業前であり、まだ遮光カーテンは開けられてなかったのである。窓から様子を伺うなど不可能である。



 男性がビルから出て数歩進んだタイミングでまた、社用携帯が鳴った。もちろんディスプレイには〝非通知〟の文字が嫌らしいほどしっかりと表示されていた。男性は意を決して電話に出た。



 「物分かりの良いいい上司をお持ちですね。さて、それではこれから直接会って話したいのですが、静かでひと目のつかない場所がよろしいかと。そこで一つ提案があるのですが、いかがでしょう?これから貴方様のご自宅で会うというのどうでしょうか?勿論、〝あの地下室でです〟自慢のコレクションを見ながらの方が貴方様も落ち着くと思いまして。そこからですと、あと1時間もかからないでしょうが、私のことはお気になさらず。もう到着しておりますので勝手にくつろがせてもらっております」



 電話が切れた後も、男性はしばらく動くことができなかった。今男性がいる場所がひと目のない山中や、知り合いの全くいない異国の地であったなら彼は力の限り叫んでいたことだろう。それほどまでに電話の相手から聞かされた内容は驚愕のものであった。



 (私の誰にも話していない地下室の存在を知っている?それどころか、既にそこにいるだと?ありえない。しかし、もし本当だとしたら、私は生活の全てが終わる)まだ動くことができない。呼吸は浅くなり、身体中から汗が噴き出てるのがわかる。男性は目を閉じ、幼少の の頃から経験してきた数々のトラウマを思い出した。他人と比べられ、人の目を気にし、他人が求める答えを先回りして答える味のない日々。全ての思い出に色がなく冷たいものであった。



 (あの頃の自分とは決別したんだ。落ち着け、まだ全てが終わったわけじゃない。私は大丈夫だ。まずは、早急に自宅に向かわなければ)男性は考えをまとめ、目をゆっくりと開けた。息を深く一度吸い込み歩き出した。そして、車道に停まっているタクシーに飛び乗り、自宅までの道順を運転手に告げた。節約など、この生活を失うことに比べたら必要のない行為である。




 タクシーが男性の自宅へ着くのに時間はそれほどかからなかった。しかし、車内で男性はこれから起こりうる事柄を周到に頭の中でシミュレーションしていた。そして、どう自分が抗ったところで結果は大して変わらないことを察した。自分は仕事をやめるだろう。そして、テレビなどの媒体でも連日報道されることは間違いない。自分のやってしまったことに後悔はない。しかし、この平和な日常が消えることがどうしても悔しい。

 


 そんなことを考えながら男性はタクシー運転手に料金を払い、タクシーから降りた。目の前にある男性の家は、新築の二階建てであった。いや、地下室も入れると実質3階建てである。男性が子供の頃、アニメで見た家に似せて建てたものである。白塗りの壁、赤い屋根の家は男性の夢そのものであった。ここに暮らした数年間の出来事に思考を巡らせながら家の扉を開けた。鍵はかかってなかった。




 男性は既に覚悟ができていた。逃げるようなことはしない。玄関からまっすぐ進み、右手側の扉を開けた。そこには地下室へ続く階段があった。男性は地下室への階段をゆっくりと降りる。すぐに人感センサーの照明が点き足元を照らしてくれた。




 「ようやく見つけました」地下室の扉を開けると中央に立っていた品の良い老人が出迎えてくれた。老人は銀縁メガネをかけていたが、そのメガネの奥は微かに涙で湿っていた。「よくここがわかった」男性は老人に対して、高圧的な口調で話しかけた。




 「はい、大変苦心致しました。しかし、我が国の王子のためです。随分と乱暴なお金の使い方を致しました。しかし、これで貴方様と再会ができました。さあ、家出など辞めて、我が国へ戻りましょう。この部屋の惨状を見て私は確信いたしました。やはり貴方様にこの国は毒でございます。その封筒の中には貴方様のパスポートを使い、国へ戻るのです。貴方様のご帰還を国中の人々が待っております」男性は考えていた反論の弁を披露することなく、老人———執事の指示に大人しく従った。




 執事の足元には男性がこの国で集めた書物が無惨にも破り捨てられていたのだ。男性は反論することにより、執事をこれ以上刺激するのを恐れたのだ。部屋にある書物に関係す芸術品とも言える人形たちを壊されることがあってはならない。日本という国で集めたコレクションをどうにか無事に自国へ持ち帰ることに心を砕いたのである。


 

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