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短編小説「無農薬」




 「道幅が狭くってわりいね」前を歩く老人が後ろを歩く私を気遣い、声をかけてくれた。しかし、気遣いの言葉と裏腹に老人の歩調は変わることなく、ずんずんと蛇行した山道を登っていく。



 普段、舗装され一定の傾斜しか持たない坂道しか歩かない私にこの山道は大変堪えた。特に山道の乾燥している土が厄介だ。前に出した足が体重をかけるとほんの少し滑るのである。滑った結果、靴の中のポジションがいつもと変わり、足の小指が一歩踏み出す度に悲鳴をあげているのがわかる。だが、その悲鳴には気付かないふりをして耐える必要が私にはある。もう少しだ、もう少しで老人が管理する楽園へ着くことができるのだ。



 山を登り始めて三十分ほどしてようやくお目当ての楽園に着いた。中腹の開かれた場所に広がるビニールハウス。その中に老人と共に入る。細い竹の支柱に絡まり伸びる茎と、針で突けば音を立てて割れてしまいそうなほど熟れたトマトの大群がそこにはあった。マタドールの持つ赤い布よりもはっきりとした見事な赤色。まだらな緑色が入り込む隙もない。大きさは中玉から大玉程度であろう、私が求めているものに相違ない。「噂には聞いていましたが、見た目ですでに私は魅了されています」私は額の汗を拭うのも忘れ、老人に素直な感想を述べた。



 「んだべ、トマトは連作ができねえ。一般的な農家はトマトを植えた翌年はその土壌にナス科は植えねえ。違う野菜を植えて再来年またトマトを植える。でも俺の畑は違う。土壌を育てるために三年間この場所にはんも植えねえ。それ位の気概があっから俺のトマトは見た目もええんだ」老人は恥ずかしいのか早口で私に説明した。「お話していた通り、お一つ頂いてもよろしいですか?それから、私のレストランとの契約農家になっていただくか決めさせてください。このレベルのトマトなら、次回の三年後の出荷でも待たせていただきます」



 老人は私の言葉を受け、ポケットから取り出した収穫ばさみで一つトマトを茎から切り離すと、自身の服でゴシゴシと拭き私に手渡した。「豪快にかぶりついてみっせ」私の持って生まれた性格上、老人の少し汚れた服で拭かれたトマトは少し嫌悪感があったが、その感情を押し殺してでも試食したい欲求の方が圧勝しており、私は老人の指示通りトマトにかぶりついた。



 前歯でかみ切るトマトの表皮は歯ごたえが心地よく、続いて口内に流れ込むトマトの果汁の甘さに驚かされた。そして私が咀嚼するためにトマトから口を放すと、口内へ飛び込むことが叶わなかった果汁が地面へ滴った。咀嚼が終えるのを待たず、私の頭の中はこのトマトを使用し調理したいメニューで飽和していた。



 私は夢中で手に残るトマトにかぶりついた。口いっぱいに頬張る姿を見ながら老人は話し始める。「おめえさんがこの前来たレストランの友達って聞いてたから、俺はまた冷やかしかと思ってたんだよ。あいつもこのトマトを褒めてはくれたんだけども、俺の話を聞くばかりで食べもしなかったんだ。そして、『今度、このトマトを高く評価してくれるやつを紹介します』なんて言って帰っちまった」老人は独り言のようにどこか寂しそうに語り続ける。



 「昔ながらの栽培方法がいいんだ。俺の爺様がやっていた栽培方法で、肥料に人糞を混ぜるんだあ。んでも爺様は途中でGHQに辞めるように言われてやめたらしいんだけども、今は人が多く住んでるところじゃねえとやってもおとがめなしって聞いて、毎日肥溜めから運んで土と混ぜるんだよ。だから時間はかかるけども、ええものができんだ。ほんと、ええ時代になった」



 老人の話を聞き終わり、既にトマトを食べ終わった私の額には大粒の汗が滲んできた。理由は友人に対する怒りだろうか、それとも私個人の性格上からくるものか、はたまた、どうやって契約を断る流れへもっていくかの妙案が思いつかないからだろうか。今の私には判断がつかなかった。


 








 


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