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女になりたいわけじゃないけど、男でいたくない。そんな感じになるとき、ない?【君嶋彼方『一番の恋人』試し読み(3/6)】

『一番の恋人』試し読み(3/6)

 結婚。その二文字が何度もちらついたことがあるのは事実だ。だけどその奥にある責任という二文字が、僕が直視しようとするのを避けさせてくる。
「せめてどんな彼女かくらい教えてくれない?」
 母がにこにこと笑いながら前のめりになる。
「どんなって言われても……普通だよ、普通。普通の女の子」
「なあにそれ、もっとあるでしょう。可愛い子なの?」
「うーん、俺にとってはすっごく可愛いよ」
「なんだ、ずいぶんのろるじゃないか」
 そんな話をしていると、急に隣の兄が立ち上がった。椅子の脚が床に擦れて、不快な音が響き渡る。会話は中断され、三人が揃って兄の顔を見上げる。
「風呂に行ってくる」
 兄の言う風呂は、家の風呂のことではない。家から五分ほど歩いたところにある銭湯のことだ。兄は大きな風呂が好きで、家で沸いていても一人でふらりと銭湯に行くことが多々あった。
「あ、じゃあ、俺もそろそろ帰ろうかな」
 冷めた紅茶を飲み干し、腰を浮かせる。兄は既にリビングを出ていた。
「じゃあ、またな。一番」
 父が笑っている。不格好に口角を上げるその笑顔は、兄の笑い方とそっくりだ。「うん、またね」と小さく返事をすると、きびすを返す。
 玄関では兄が靴を履いていた。
「待ってよ、兄さん。俺も帰る」
 その背中に向かって言うと、兄がゆっくり振り向いて「うん」とだけ言った。
 おそらくだが、兄は三十二年間、恋人ができたことがない。周到に隠しているとか、一夜限りの関係ばかり続けているとか、そんなたぐいでもないことは、やはりなんとなく分かってしまう。醸し出す独特の雰囲気がある。
 後ろからぱたぱたとスリッパの音をさせながら母がやってきた。
「二人とも、気を付けてよ。一番、家に着いたら連絡ちょうだいね」
「うん、分かってるよ。またね、母さん」
「またね。体には気を付けるのよ」
 微笑むその顔にどこか寂しげな影が落ちているような気がして、僕は目をらしたくなるのをこらえる。一体僕らのいない間、おうようとは決して言えない三人はどんな会話をして、どんな暮らしをしているんだろう。この家に帰るたび浮かんでくる疑問を振り払い、「うん、またね」と答え、ドアを開ける。
 外は夜だというのに蒸し暑く、照り付けてくる太陽は眠っているものの、噎せ返るような湿っぽさだった。まだ夏の始まりなのに、これからもっと暑くなるのだと思うと気が滅入る。
 隙間から何度も手を振る母に、僕も手を振り返すと、ドアを閉める。あちぃな、とつい声が漏れた。
「じゃあね、イチ」
 兄はそれだけ言うと、すたすたと歩いて行ってしまった。駅と銭湯の方向は真逆だ。遠ざかっていく丸まった背に慌てて「じゃあね!」と声をかけるが、振り向く気配すらない。仕方なく僕も駅へと向かおうとして、ふと、自分がかつて住んでいた家を見上げた。
 縦長の小さな家だった。兄が生まれてしばらくして購入した家らしく、僕が生まれたときにはもうこの家に住んでいた。
 一階にはリビングとキッチン、広めの和室とトイレと風呂。二階には父と母の寝室と、父の書斎、もう一つのトイレ、そして僕と兄の部屋。僕ら兄弟は、僕がこの家を出るまで同じ部屋を使っていて、今は兄が一人で使っている。
 れん造りの壁には「道沢」とかいしよ体で書かれた表札が掲げられている。ここに、自分の家族が住んでいるというあかしだ。
 間違いなく、僕が生まれ育った家だ。

「そりゃお前、そろそろ身を固めろってことだよ」
 父親がしつように実家に千凪を呼びたがる話をやなにすると、彼はそう断言した。
「やっぱそうなのかなあ」
「そりゃそうだろ。で、お前は千凪さんとの結婚は考えてるわけ?」
 椅子にもたれながら、柳瀬が尋ねる。僕は濡れた髪をかき上げ答える。
「まだ早いかなって思うんだけど。俺たちまだ付き合って二年くらいしか経ってないし」
「何言ってんだよ。千凪さん、いくつだっけ? 二十八? 九?」
「もうすぐで三十になる」
「それくらいの年齢になったら、結婚って言葉を押し付けられるようになるんだよ、女子は」
「そうか? 今はそんな時代じゃないだろ」
「俺らの世代はそう思うかもしれないけどな。もっと上の世代はそうは思わないんだよ。娘が三十過ぎて結婚できないってなると、親は色々言ってくるんだよ」
「そうなのか。柳瀬はよく知ってるんだな」
「当たり前だろ。俺は女子の研究に余念がないんだよ」
 ははは、と空笑いをすると、丸く突き出た裸の腹をゆっくりとでる。
「まあ、研究ばっかりしてて実にはなってないんだけどな。あぁ俺も彼女欲しい」
 柳瀬は会社の同期だ。辞めたり異動したりして疎遠になっている同期が多い中、柳瀬とだけは入社以来ずっとつるんでいる。
 最近は仕事後にこうやってサウナに行き、その後飲みに行く、というのが恒例になっている。サウナは好きだ。水風呂に入り外気浴に浸ると、頭の中がじんとしびれてクリアになった気がする。
「てか、イッチーさあ」柳瀬が、タオルを腰の辺りに置いただけの僕の体をじろじろと眺める。「なんかまた更にいい体になってない?」
「そう? まあ、ジム頑張ってるからな」
 右腕を九十度に曲げ力を込め、腕の筋肉を見せつける。「そんなもん見せてくんな」と柳瀬が渋い顔をする。
「柳瀬こそ、ジム通った方がいいんじゃないの」
 柳瀬の腹をふざけて叩くと、ぽよぽよと揺れる。入社当時は瘦せていたのに、どんどんと肥え始め、今では立派な小太り体型だ。たまにあごが二重になっているときもある。
「うっせー。一応半年くらい前に入会してんだよ」
「おっ、まじか。偉いじゃん」
「まあ、最近はほとんど行ってないんだけどな」
「なんだよ、もったいない。ちゃんと行けよ」
「あの空間苦手なんだよ。周りのマッチョたちにさ、あいつジム通ってるくせにあんなにデブなのかよ、って思われてそうでやなんだよな」
「最初は体形甘いのは仕方ないだろ。それに、お前が思うほど周りは気にしてないって」
「まあ分かるよ、意外と周りって自分のこと見てないよな。でもな、時々意外と、周りって自分のこと見てたりするんだよ」
 なんだか小難しいことを言うと、はぁと柳瀬が深い溜息をついた。
「こんなこと思うのも、男としての妙なプライドがあるからなんだろうな。馬鹿にされたくないとか、下に見られたくないとか思って、劣等感を抱きたくないから、結局逃げちゃうんだよ。俺、運動とかも全くできなくて、何度もそういう思いしてきたからさ。そういうときは、男に生まれてきたくなかったってなるんだよな」
「どういうこと? 女に生まれたかったのか?」
「違う違う、そういうわけじゃねーよ。女になりたいわけじゃないけど、男でいたくない。そんな感じになるとき、ない?」
 柳瀬は時々難解な言い回しをする。僕は腕を組んで考える。男は嫌だ、でも女がいいわけでもない。そんなこと思ったときがあっただろうか。僕は結構男である自分は好きだ。体を動かすのは楽しいし、女の子だって大好きだ。サウナも、男性専用のところがいっぱいあって、そういうときはむしろ女の人は気の毒だなと思う。
 そんなことをつらつらと考えていると、「もういい、もういい」と柳瀬が手をひらひらと振った。
「お前に聞いた俺が馬鹿でした。イッチーがそんなこと考えるわけがないわな」
「なんだよ、失礼だなー」
 もしかしたら、自分が男であることを苦にしたことがないのは、父のお陰かもしれない。父が男らしくあれと言い続けてきてくれたことで、男であることに自信を持つようになれたのかもしれないとふと思った。
「まあいいや、もう一セット行こうぜ」柳瀬が腰を浮かす。
「ん。行く行く」
 僕たちは立ち上がり座っていた椅子をざっと水で流すと、もう一度サウナ室へと入っていく。
 それから七分ほどサウナで蒸され、水風呂で体を冷やし、外の風に当たりながら椅子に座りリラックスする。しっかりと整った後、頭と体を洗い、浴室を出て更衣室へ向かった。
 裸のままタオルで髪をいていると、清掃のおばちゃんがやってきた。「失礼しまあす」と言いながら、僕の横にある棚の中のタオルを補充する。洗面台周りの綿棒や剃刀かみそりのチェックを済ますと、更衣室を出て行く。
「俺、ああいうのも嫌なんだよな」
 柳瀬が苦い顔をしながらトランクスを穿く。脇腹の肉がむっちりと押し上げられている。
「ああいうのって?」
「男湯におばちゃんが平気で入ってくる文化。あれが男女逆だったら大問題だぞ」
「そりゃあそうだろ。女湯におじさんが入ってきたら痴漢だよ」
「それが逆だったらなんで痴漢じゃないんだよ、って話だよ。男の裸は別に見られてもいいってのか?」
「うーん、でもそれは仕方ないんじゃないか? 男はほら、どうしたって女の人の裸にむらむらしたりするわけだし」
「それは女だって同じかもしれないだろうが。さっきのおばちゃん、お前のかんちらちら見てたぞ」
「そんなわけないだろ、やめろよ」
 柳瀬の冗談に笑いながら、僕もボクサーパンツを穿いた。

▶ 試し読み(4/6)へつづく

『一番の恋人』試し読み記事まとめ

書誌情報

書名:一番の恋人
著者:君嶋 彼方
発売日:2024年05月31日
ISBNコード:9784041147900
定価:1,760円(本体1,600円+税)
総ページ数:256ページ
体裁:四六判並製 単行本
装丁:坂詰佳苗
写真:酒井貴弘
発行:KADOKAWA

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