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僕は兄と違って、父の期待に応えられる男だ【君嶋彼方『一番の恋人』試し読み(2/6)】

『一番の恋人』試し読み(2/6)

 僕の中での暮らしのルールは、週末に千凪と会う以外にももう一つある。それが、月に一度の帰省だ。
 自宅から一時間半かけて、実家に到着する。家の前に立つとチャイムを押した。実家の鍵は持っているし、月に一度はきっちりと帰ってはいるが、余所よその家に来ているという感覚にすっかりなってしまっている。
 まるで玄関で待ち構えていたかのような早さで、ドアががちゃりと開いて母が顔を出した。夕飯を作っている最中だったのだろう、いつもの大きな花柄のエプロンをしている。
「おかえり、暑かったでしょ」
「ただいま」
 家に足を踏み入れると、ふわりと独特な香りがする。良くはないが不快でもない。この家特有の匂いだ。住んでいる頃には気付かなかった。
 リビングでは、父がソファに座ってテレビを見ていた。日曜夕方の他愛もないバラエティ番組。それを笑い声一つ上げず見ている。「ただいま、父さん」と声をかけると、顔をこちらへ向け「おお、おかえり」とわずかに微笑んだ。
「元気にやってるのか?」
「うん。元気だよ」
「そうか」
 それだけ言うと、父はまたテレビへと顔を向ける。そっけない返事だが、決して無愛想な人ではない。むしろ、優しそうな人だと評されるようなようぼうだ。垂れた目や笑うと目尻に寄るしわは人懐っこさを感じるし、声も低く落ち着いている。額の真ん中で分けた髪の毛は白髪は少し目立つものの豊かで、六十間近の年齢にしては若い見た目だ。
 やがて食卓には料理たちが並べ立てられる。大根と三つ葉のサラダ、牛肉とごぼうのしぐれ煮、鮭の和風グラタン。どれも僕の好物ばかりで、母の昔からの得意料理だ。
 テーブルには、三人分の用意しかない。僕はちやわんに白米をよそう母の背中に問いかける。
「兄さんは? まだ帰ってないの?」
「うん、まだ仕事みたい。先食べてていいよ、だって」
 カウンター越しに渡してきた茶碗を、テーブルに置く。兄はシステムエンジニアをしていて、土日に出勤することも多い。兄は僕とは違い、ずっと実家で暮らしている。
 父がテレビを消し、ソファから立ち上がって食卓に着く。それを合図に僕も父の斜め向かいに座る。家族の席順は昔から決まっていた。キッチンを隔てるカウンター側の奥の席が父、その隣に母。父の向かいに兄、そしてその隣に僕。
 その配置もテーブルも、僕が幼い頃から既にあったものだ。角が丸みを帯びた茶色の木製のテーブルで、四脚ある椅子とセットで購入したようだ。椅子には、青く四角いクッションがそれぞれに置かれている。
 黒い革張りのソファも、ガラスのめられたスライド式の戸棚も、観音開きの型で中に小さな鏡のついたクローゼットも。配置された家具たちは全て父が選んだもので、幼い頃からの記憶にあるままだ。その家の中の風景がやっと思い出に変わりそうな頃、僕はここを訪れ、いつまで経っても過去にはならない。
 月に一度、家に帰ってくること。それが父が僕に課した、実家を出るための条件だった。
 僕は六年前、大学の卒業をきっかけに申し出た。一人暮らししたいんだけど。すると、父は穏やかにまくしたてた。
 一人暮らしして何の意味があるんだ。ここからだって通勤できるじゃないか。どうせ不純な理由なんだろう。そんなことで、一人暮らしをさせるわけにはいかない。
 それでも僕はこの家を出たかった。確かに家にお金を入れたとしても出費はかなり抑えられるし、家事だって母がやってくれる。でもだからこそ、社会人になるという契機で、自立をしたかったのだ。
 説得した結果、父は折れた。その代わり、月一度の帰省の条件を提示してきたのだ。
 帰る度に父は、色々なことを僕に尋ねる。今日も食事をしながら、父はいてきた。
「最近はどうなんだ。仕事は忙しくないのか」
「ちょっと前までは結構忙しかったけど、最近は落ち着いたよ」
「あまり無理しすぎるなよ」
「うん、ありがとう。そういえばこの前さ、内示出たんだ。課長代理に昇進だって」
「おお、よかったじゃないか」
「この年齢でなるのは異例らしくてさ。仕事頑張った甲斐かいがあったよ」
「そうか。頑張ってるんだな」
 父が微笑んでゆっくりとうなずく。僕はのどもとにじんわりと温かいものが広がっていく感覚を覚えた。いくつになっても、親に認められるということは嬉しいものだ。
 父が、僕に求めていることはただ一つだ。男らしくあること。当然仕事の出来や出世も、男らしくあるためには必要な条件だ。
 生を受けた瞬間から父の意志は僕に与えられていた。みちざわいちばん。僕の名だ。何事にも一番になれるように。そんな父の願いが込められている。
 転んでひざを擦りき泣いていると、男なんだから泣くんじゃないとしかられた。
 日曜日の朝は叩き起こされ、戦隊番組を見させられた。
 パパ、ママと呼んでいると、軟弱だと呼び方を変えさせられた。
 僕、という一人称も、小学校低学年の頃に矯正された。それからは自分のことを俺と呼ぶようになったけれど、実は未だに違和感が拭えない。
 しかし、父自身はそういった「男らしさ」とは無縁の人間だった。穏やかで他人には物腰柔らかく、声を荒らげたところをほとんど見たことがない。成人男性にしては小柄でせている。河原でバーベキューをするよりも、家で本を読むことに至福を感じる、いかにも文化的なタイプだ。きっと父の理想の形に、父はなっていない。もしかしたら、だからこそそれを息子に求めているのかもしれない。
 口うるさく思ったこともあったけれど、今では父に感謝している。父に習わされていた柔道と水泳は楽しかったし、体力も筋力も身についた。男だったらいい会社に入ってはくを付けろと、就活の相談にもよく乗ってくれた。
 そのお陰で、柔道の県大会で優勝できた。学校の成績も常に上位をキープし、名の知れた私立大学に入学できた。今の職場も、業界では最大手の会社だ。全て父の言葉や尽力があったからこそだ。
 父のことは尊敬しているし、好きだ。だからこそ、父の期待にこたえて、喜んでもらいたいと、この歳になっても強く感じている。
 両親に近況報告をしていると、玄関の方からドアの音がした。母がもぐもぐとしやくをしながら立ち上がる。しばらくして、母と兄のしようが連れ立ってリビングに入ってきた。
「おかえり、兄さん」
 僕が出迎えると、兄がひるんだような顔をする。でもそれは一瞬のことで、すぐに口角の片側を上げるような不格好な笑みを浮かべた。
「イチ。ただいま」
 兄が僕の隣の席に座り、母が兄の食事の準備をする。兄が食卓に加わると、ぴりっと空気が張り詰めたような感覚になる。兄が父に「ただいま」と言うと、父は目を合わせぬまま「ああ」とだけ答える。
 父と兄は折り合いが悪い。最近は会話を交わす姿もほとんど見たことがない。僕としては、兄も早くこの家を出て行けばいいのにと思うのだが、やはり実家住まいの利便性にはかなわないのかもしれない。
 父は、かつて兄にも僕にするように接していた。しかしあることをきっかけに、習い事も見るテレビも学校も就職も、父の意志は一切介在せず、自由に選ばせるようになった。正直僕は、そんな兄がびんだった。父からの愛情を分け与えられていないように感じてしまった。
「兄さん、仕事相変わらず忙しいんだね。お疲れ様」
「うん。ありがとう」
 兄が小さく笑う。少しり上がった大きな目は、僕にも父にも母にも似ていない。三白眼気味の黒い瞳はいつもせわしなく揺れている。昔はよく一緒に遊んでいて、五つ上の兄は僕を可愛がってくれていたけれど、最近は会話らしい会話もしていない。月に一度の僕が来るときは必ず家にいるようにしてくれているが、それでも自ら言葉を発することはほとんどない。僕は、兄のことがよく分からない。
 父の皿が空になると同時に、食事中の母が立ち上がった。父の目の前に置かれた汚れた皿を持つと、シンクへと向かう。父が「ありがとう」と声をかけると、母は黙って微笑む。
 僕は皿に残っていたおかずを口に放り込むと、皿を持って立ち上がった。洗い物をしている母の隣に立つ。
「何か手伝おうか?」
 母が泡だらけの手のまま、僕の持っていた皿を受け取る。
「いいのいいの、大丈夫。ありがとね。食後にケーキ買ってきたんだけど、一番は紅茶でいい?」
「あ、うん。紅茶で」
 分かった、と返すと、母は洗い物を再開する。僕は所在なく立ち尽くしたまま、母の横顔を見つめた。
 帰るたび、老けたな、と思わされる。真っ白な生え際、首筋の深い皺、時折見づらそうにすがめている目。一ヶ月に一度は帰っているのだから、本来はそこまで老け込んでいると感じるはずはない。僕の記憶の中で、僕が子供だった頃の母の姿が鮮烈に焼き付いていて、きっと無意識に比べてしまっているのだろう。そんなことを思いながら、席へと戻る。
 しばらくして、深みのあるかぐわしい香りが漂ってくる。父の好きなアールグレイの香りだ。ティーバッグは好まず、必ず茶葉でれている。
 やがてティーポットと四つのティーカップが運ばれてくる。次に、白い箱がテーブルの中央に置かれる。それを母が開くと、四種類のケーキがひしめき合っていた。駅前にある個人経営の洋菓子屋のものだ。誕生日もクリスマスも、ケーキはいつもそこで買っている。
「お父さん、どれがいい?」
 母が訊くと、「そうだなあ」と父が考えるふりをしてみせる。これかな、と選んだショートケーキは、絶対に父がいつも選ぶものだ。母が用意してあった丸皿にそれを載せると、父の前に置く。
「僕はどれでもいいよ」
 兄が言う。しかし父は、そんな兄を無言でにらみつける。ふう、と小さくためいきをついて、兄はチョコレートケーキに手を伸ばす。僕はミルクレープを選び、母は残ったモンブランを自分の皿に載せる。
 いただきますと唱和して、僕らはケーキを食べ始める。いつもと同じケーキ、いつもと同じ味。きっとそれが安寧だ。
「そういえば、一番」早々とケーキを平らげた父が、紅茶をすすりながら尋ねてくる。「彼女とはどうなんだ」
 ちょっとどきりとしながら、平静を装う。
「うん、順調だよ。仲良くやってる」
「そろそろ、紹介してくれてもいいんじゃないか。一回くらい家に連れてきなさい」
「そうだね。そのうち」
 最近父は毎回、この言葉を口にする。僕としてはできれば千凪を実家に連れて行きたくない。確かに以前までは、恋人を両親に紹介していた。でも、僕ももう二十七だ。この年齢になってからのその行為は、今までとちょっと意味合いが違う。

▶ 試し読み(3/6)へつづく

『一番の恋人』試し読み記事まとめ

書誌情報

書名:一番の恋人
著者:君嶋 彼方
発売日:2024年05月31日
ISBNコード:9784041147900
定価:1,760円(本体1,600円+税)
総ページ数:256ページ
体裁:四六判並製 単行本
装丁:坂詰佳苗
写真:酒井貴弘
発行:KADOKAWA

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