見出し画像

硝子のうさぎ(改訂版)|ショートストーリー

 地上四階、南の空に面した窓際の席。虚ろな意識のなかの遠い場所から、終業を知らせるチャイムが歩み寄ってくる。
 突っ伏した机と顔面の間に、すっと何かが差し込まれたことに気付き瞼を開いた。目の前にあったのは小さなメモ帳で、その持ち主が誰であるか俺にはすぐにわかった。クラスで、いや学年でもトップの成績を競うほどの優秀な女子生徒の物だった。ただ何故その彼女のメモ帳が自分の前に置かれたのか、それを理解するには事足りない。

『私で良かったら、教えようか?』

 ゆっくりと顔をあげ覗いたメモ帳には、小さくも整った文字でそう書かれていた。いったい何のことを言っているのだろうか。机の横に立っている彼女の顔を、俺は舐めあげるように見た。
 心なしか瞳を赤くした彼女は、俺と視線が合うと怯んだように半歩ほど後退る。

「なに?」

 決して威嚇するつもりは無かったのだが、彼女は俺の一言で更に萎縮したように身を縮めた。その姿はまるで、逃げ場を失って怯えている兎のようだ。

『勉強……』

 最初のものより小さく、少し震えたように頼りない文字が追加された。そこでようやく、俺には理解することが出来た。
 一、二学年と遊び呆けていた俺は、三学年になり授業について行けなくなっていた。仮にもここは生徒の大半が大学へ進学する、というそれなりの進学校だった。二年間を共に遊んでいた仲間すらも俺とは違っていたようで、すっかり進学コースの一員に成り変わっていた。
 怠けていたことを悟られたくなくて、また勉強について行けていないという事を見抜かれたくはなくて、俺は一日の殆どを寝て誤魔化してした。

「なんで?」

『香月くん、勉強したいみたいだから。私のことが嫌じゃなければ……』

「まじで言ってんの?」

 彼女は俺の口もとを見つめたあと、すぐに俺の目を見つめてきた。おそらく言葉だけではなく、瞳を通して俺の感情をも読み取ろうとしたのだろう。しばしの間、ふたりは無言で見つめ合うことになる。彼女は、ふと安心したようにその表情を緩め小さく何度も頷いた。
 翌日、一限目の終わりから其れは始まった。チャイムが鳴るやいなや彼女は立ち上がり、俺の前の椅子を後ろに向けて腰をおろす。彼女が最初にしたこと、それは俺が授業中にとったノートの確認だった。
 見るなり眉間に皺をよせた彼女は、首を横に振りながら自分のノートを差し出してきた。黒板に書かれた全ての文字を、必死に追いかけ書き写した俺のノート。それは使い物にはならないと、彼女の筆談の道具になってしまった。
 次の授業の後も、そのまた次の授業の後も、彼女はノートを持参のうえ足繁く通ってくる。
 一日の最後の授業が終わり帰り支度をしていた俺の前に、何をしているのだと言わんばかりの面持ちの彼女が仁王立ちをした。抱えていた鞄は彼女に奪われ、机の上には今日いちにちの教材が広げられる。どれにするかと指をさす彼女に、俺はゆっくりとした口調で訊ねた。

「塾とか、いいの?」

「ない!」

 メモ帳に書く時間すら惜しかったのか、滅多と言葉を発することの無い彼女が慌てたように声をだした。そしてそんな自分の声を悔いるように、顔をしかめて俯いてしまった。「ありがとう」そう言葉にしたが、視線を落としている彼女には届かなかった。
 そう、彼女は耳が不自由なのだ。それが故に自分の発する言葉の発音が掴めず、学校では筆談を主として過ごしているのだ。
 基礎学習が備わっていない俺は、どの教科もつまずく箇所だらけだった。やりかかっては引っ掛かり、基礎から教わり直すという有り様だった。そんな一進一退の俺に対して、彼女は嫌な顔ひとつせず熱心に教えてくれる。
 申し訳ないが先に立ち、もう教えてくれなくていいと何度も彼女に伝えた。そんな弱気を見せる度に、彼女はむきになったようにノートへ書きなぐる。『やりたいくせに!』その言葉に、どれだけ背中を押されたことだろうか。
 彼女の特別授業は、二学期が終わるころまで続けられていた。そんな彼女の協力をえられた俺は、何とか人並みの大学へ進学することにも成功した。
 俺たちは恋仲などにはなることなく、高校の卒業とともに関わりを無くしてしまう。成績が優秀だった彼女は、俺なんかには手の届かない高レベルな大学へと進学をして行った。

 大学の四年間、それは本当に楽しいものだった。効率よく勉強を続ける、そんな手腕も身に付いて其れなりの商社への就職内定を掴むこともできた。無事に単位もとれ予定どおりに卒業式を迎えられ、『人生なんてちょろいもの』そんな有頂天に浸ってもいた。

「ねぇねぇ、手話とかってわかる?」

「え、手話? 耳が聞こえない人がするやつ?」

「そうそう、それ」

「知るわけねぇじゃん、俺に必要ねぇし」

 いつものメンバーで、大学の近くのカフェにたむろしていた。そんなとき仲間のひとりが、そんなことを言いだした。そんな会話を耳にして、俺はふと笑いを取りたくなってしまう。「俺、わかる」などと話に割り込み、大きく手振りをしてふざけてみた。
 沸き起こった笑いが嬉しくて、調子にのって偽の手話を繰り返す。俺がなんて言ってるか当ててみろ、そんな台詞に仲間もはしゃぎ始めた。

「ちょっ、それマジで悪意ありすぎぃ」

 そんな言葉を口にする仲間だが、言葉とは裏腹に悪ふざけはエスカレートしていった。ありもしない手話で返しながら、手を叩き腹を抱えて破顔する。

 バン!!

 俺たちの笑い声を上回る音が、俺の背後で鳴り響いた。それは振り向かずともわかる、テーブルを平手打ちする音だ。どうしたのだろう、と俺はゆっくりと振り返る。そこには怒りを堪えきれないような面持ちの女が、ただ黙って立ち上がっていた。

『……え、俺このひとに何かした?』

 そう思わずには居られなかった。何故なら、その女は俺のことを睨み据えているからだ。煩かったことが気に障ったのだろう、そう考えた俺たちは軽く会釈をしてみた。しかし女の怒りは収まらぬ様子で、その表情からは憎しみのような念すら伝わってくる。ふとその女の横へと視線を移し、俺は一瞬で凍りついた。
 仁王立ちをしている女の傍らに、瞳に涙をため小さく震えている女性の姿を捉えたからだ。目を真っ赤にして怯えるように、自らの身体を抱きしめる彼女。
 俺にとって恩師よりも恩師であった、高校のときのあの彼女だった。改めて立っている女の顔を見上げ、彼女もまた高校の同級生であることを思い出す。
 彼女に世話になった一年間の出来事が、走馬灯のように脳裏に流れていった。

『しまった……』

 そう思うよりもはやく、女は彼女の手を引いて立ち上がらせていた。正気を無くしたような顔面蒼白な彼女は、ふらふらと足元が覚束なくなっている。
 『どうしよう』正直それが、今の俺のなかで精一杯の感情だった。手をひく女は勿論、彼女すらも恨み言のひとつも口にはせず店を後にしてしまった。ただ俺は固まったまま、そんな二人を見送ることしか出来ずにいた。
 それから少しの時が過ぎたが、あのカフェでの出来事はずっと俺のなかに残っていた。「感じわる……」仲間のそんな最後の言葉、それすらもあたかも自分に発せられたかのように、残響のごとく俺のなかに鳴り止まない。
 あれから間もなく俺は内定を貰っていた会社へと正式入社をし、それなりに充実した毎日を過ごしていた。ただ心のなかの霧がかったような感情は消えることがなく、どこか満足しきれていない自分に悶々としていたことも否めない。
 俺はこんなぼんやりとした毎日を過ごすために、あんなに必死になって勉強をしていたのだろうか。そんな事を考えながら歩いていた仕事帰り、会社の最寄り駅のビルの一角にそれはあった。灯りの消えた看板に書かれた、手話教室の文字。
 俺はドキッとした。それと同時にあのカフェでの出来事が鮮明に、そしてその時の感情までもが胸に沸き起こる。あれは仲間を楽しませたかっただけ、彼女に対して隔てた感情などはなかった。そう唱えるように自分に言い訳をしてみるが、そんなものでは消えない蟠りが喉元を押し上げる。
 見れば教室は、俺の勤務時間帯だけにしかやっていないと記されている。ここに通うためには、掴んだ商社という安定を手放すしかないことは明確な事がらだった。

「香月くん、そっちの新刊。悪いけど棚だしできる?」

「あ、はい」

「時間、大丈夫? あるんでしょ、今日も」

「時間……あ、大丈夫っす。余裕っす」

 駅ビルからは少し距離が遠いが、こじんまりとした感じのいい書店。俺はいま、この書店でバイトとして働いている。面接の際、俺はあの日の出来事を全て店主に打ち明けた。必要を迫られたわけではなく、ただ店主の人柄のよさにそうしたくなったのだ。
 手話教室へ通いたい、そんな俺の思いに店主は目を細めて頷いた。そして「そうするべきだと思うよ」、そう一言だけ返してくれた。
 手話教室に通いながら、店主の言葉の意味を考える。そうするべき、とはどうするべき事なのだろうか。こうして手話を覚えることだけが、俺の目的ではないような気がした。ましてや店主の言葉の意味も、そんな事ではないと感じていた。
 教室に通い続けていくうちに、街でみかける景色の見えかたが変わってきたような気がした。俺はあのときの彼女に会わなければならない、そう強く思うようになっていく。
 謝りたい、しっかりと彼女の目をみて謝りたい。そんな事をしたところで、彼女を傷つけた事実は無かったものにはならない。それは百も承知で赦されないとわかっていても、せめて俺の想いだけは伝えたい。それをしない限りは、俺は自分自身を赦すことが出来ないような気がしている。

 吸い込まれていく駅ビルの入口で俺は一度だけ振り返り、傾いた太陽に誓うように頷いてみせた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?