渦潮子2世

徳島県出身。慶応義塾大学文学部英文科卒業。趣味はテニスとジャズ。ジャズのビッグ・バンドの名門「ブルー・コーツ・オーケストラ」のバンドボーイだった。オーストラリアに10年滞在し「ロータリー・クラブ」や「スコール・クラブ」の会長を歴任。引退して帰国後は執筆とテニスの隠居生活。

渦潮子2世

徳島県出身。慶応義塾大学文学部英文科卒業。趣味はテニスとジャズ。ジャズのビッグ・バンドの名門「ブルー・コーツ・オーケストラ」のバンドボーイだった。オーストラリアに10年滞在し「ロータリー・クラブ」や「スコール・クラブ」の会長を歴任。引退して帰国後は執筆とテニスの隠居生活。

最近の記事

便りがないのは良い便り

18歳で青雲の志を抱いて東京に出た。だが、有名大学に入り出世街道を駆け上ると言うこと志と違ってジャズ音楽と言う暗い森の中に迷い込んでしまった。日本で最古の歴史を誇るビッグ・バンドの名門でバンド・ボーイとして働くことになったのだ。 小島正雄指揮、小原重徳とブルーコーツ・オーケストラ。フランチャイズは日本の中のアメリカとして名高かったワシントン・ハイツのオフィサーズ・クラブだった。クラブへ行く道の家の前には芝生の庭があり、そこで日光浴をする女性が通行人に「ハイ」と言って手を振って

    • "God Save the King"

      我が人生最後の外国旅行は10年間住んで人々から「ウオリー」と親しまれた町「ポート・ダグラス」にしようと決めていた。だがその思いもここ数日テレビで放映されるエリザベス女王の葬儀に目を皿にして見入っている間に変わってきた。やはり最後の旅行は僕の人格形成の原点となった英国にしなければならないと。 就職した英国商社でヒューエットさんと巡り合い、モーガンさんと知り合った。ヒューエットさんからは自己犠牲と克己心を叩き込まれモーガンさんからは中庸を遵守することを教わった。二人は僕が「ノブレ

      • 新国王の新しい英国に繁栄を

        9月8日に歴代国王の在位最長記録を更新中のエリザベス女王が96歳で崩御した。 亡くなる直前にロンドンのバッキンガム宮殿の上空に二重の虹が現れたそうで、雨の中集まった国民から女王は虹の橋を渡って天国に召された、RIP(Rest in peace)your majesty と祝福されたという。 1975年に女王が一度だけ来日した。 歓迎午餐会を日英協会が帝国ホテルで開催し、僕も会員の一人として出席した。 若輩の僕は緊張の連続で式がどのように進行したか、どんなご馳走が出たか何も覚

        • 国分寺書店のオババのもう一つの顔

          「惻隠の情」について書いていて頭に浮かんだ人がいる。椎名誠の「さらば国分寺書店のオババ」のあのオババである。僕達は結婚して国分寺に住んでいた。24歳と22歳の若夫婦で夢のような新婚生活だったが、二万円少々の僕の月給ではやりくりが付かず、蔵書を売っては生活の足しにしていた。その際に本を売りに行くのを嫌がる新妻に救いの手を差し伸べてくれたのがオババその人だったのだ。 駅の南口に古本屋が二軒あり、その一軒がオババの店の国分寺書店だった。椎名誠と同じく僕もオババとの出会いは悲惨なもの

          日本は何時から不寛容な国になったのだろう

          国連による「世界幸福度ランキング」で日本は出生時の平均健康寿命が2位であるにも拘わらず他者への寛大さが92位で先進国では最下位の50位前後に甘んじていると聞いたことがある。断捨離を敢行中の後期高齢者にとって買い取り業者の横柄な態度に触れる度に、日本は何時からここまで不寛容な国になったのかと腹立たしくてならなくなる。 何時の間にか日本人は相手の立場に立って物事を感じ取ることができなくなってしまった。そういえば子供の頃から耳慣れた「惻隠の情」なる言葉も聞くことがなくなった。なぜそ

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          Let There Be Bowen Mangoes

          “Let There Be Love” と言う曲がある。2005年にヒットしたOASIS のものではなく1940年にイアン・グラント(詩)とライオネル・ランド(曲)により作られ、翌年にミッキー・ルーニーとジュディー・ガーランドの初共演となったミュージカル映画「ブロードウエイ」の挿入歌となったジャズのスタンダード曲である。 我が家にはクール・ジャズの元祖のジョージ・シアリング・クインテットの伴奏でナット・キング・コールが歌ったものとジェリー・マリガンのピアノレス・カルテットの伴

          Let There Be Bowen Mangoes

          阿波踊りの完全復活を祝して、そのⅡ(映画「夜の素顔」と慶應義塾連)

          僕が大学に入学した年に徳島県の学生寮が竣工した。母が僕の知らぬうちに入寮の手続きを終え僕は40人の寮生の一人となった。その年の10月に徳島県の東京事務所から阿波踊りのエキストラを募集しているとの連絡が入った。 10人ばかりの寮生とバスに乗って行き着いたのは調布の大映撮影所だった。映画は吉村公三郎が監督し京マチ子と若尾文子が主演する「夜の素顔」だった。阿波踊りの群舞シーンに出演する他に女優達に踊り方を教えて欲しいとのこと。グランプリ女優に手解きするのは俺だぞと皆で勝手に言い合っ

          阿波踊りの完全復活を祝して、そのⅡ(映画「夜の素顔」と慶應義塾連)

          阿波踊りの完全復活を祝して、その一(「阿呆連」と「ネマキ連」)

          この夏、三年振りに本格的な阿波踊りが復活した。徳島市で生まれ育った者としてはこんな喜ばしいことはない。子供の頃お盆が近付くと来る日も来る日も近所の空き地に集まって阿波踊りの練習に勤しんだ遠い昔の日々が懐かしく甦ってくる。 隣町は「えびす連」と言う有名連の本拠地だった。僕が住んでいた安宅町にも「安宅連」があったが、これと言ったスポンサーがなく揃いの浴衣に「安宅連」と入れる費用がなく、観客から「安宅連」でなく「ネマキ連」だと揶揄される貧乏連だった。それでもお盆の一ヶ月くらい前から

          阿波踊りの完全復活を祝して、その一(「阿呆連」と「ネマキ連」)

          恋人と呼ばれて

          我が家の前に一本の大きな柳の木が聳えていた。その横の家が貸本屋だった。元々はミルクホールで近所の若い衆の溜まり場になっていて謹厳実直な我が家とは付き合いがなかった。新刊の雑誌類も置いてあり、本が好きで映画少年だった僕はおかみさんのいない時を狙って店に入り「映画の友」を盗み読みしていた。 或る日僕が立ち読みをしていると知らぬ間におかみさんが僕の傍に立っていた。叱られると身構えた僕に「もうすぐ次の号が出るのにその本売れなんだな。読みたいのなら家でゆっくり読んだらええわ」なんて言う

          恋人と呼ばれて

          手の甲に爪の傷跡

          修学旅行から帰って間もなくのことだった。突如先生から席を代わるよう告げられた。後ろの席で授業中に騒いでばかりいる生徒がいて、このままでは授業にならないと業を煮やした先生がその生徒を自分の前の席に移して厳しく監視するという強硬手段に打って出たのだ。その際その生徒と席を交代する者として選ばれたのが前の席にいて大人しくて勉強がよくできる僕だったというわけだ。 小学生の頃は背丈の順に席を決めるので背の低い僕は何時も前の席に座らされた。中学生になってもそのやり方に変化がなかった。僕の後

          手の甲に爪の傷跡

          眠られぬ夜

          小学校の遠足で田んぼの中の畦道を歩いていて先頭の女の子がキャっと言って立ち止まった。足元に小さな蛇がいた。先生が蛇が立ち去るまで動かないよう注意した。その時後ろから女の子が進み出てその蛇のしっぽを掴んで持ち上げ、ぐるぐると回し田んぼの中へ投げ捨てた。その子が梅園容子だった。 中学生になり梅園さんは突如胸に桜の花の真ん中に「S」と言う字を刻んだバッジを付け始めた。同じバッジを付けている人は五弁の桜の花と同じ5人の女生徒だった。「S」は「シスター」を意味しあの5人は男に興味がない

          眠られぬ夜

          ウオーター・アンダー・ザ・ブリッジ

          中学三年生になって金村多恵とクラスが一緒になった。そのクラスに東京から転校生が入ってきた。植松達夫と言い、手足がすんなりと伸び精悍な顔をした、見るからに都会っ子と言った風貌の持ち主だった。話す言葉が田舎っぺの僕達とは全く違っていた。「『君の名は』の数寄屋橋がさ」とか「『日劇』にアメリカからジャズマンがやってきてさ」とか「さ」「さ」を強調して話す彼の東京弁に先ず女生徒が聞き惚れた。 忽ちクラスの人気者になったが化けの皮が剥がれるのも早かった。授業が始まると何を聞かれても頓珍漢な

          ウオーター・アンダー・ザ・ブリッジ

          真水のような初恋の味

          聡子さんと50年経って初めて向き合った。「本当にあんなこと言ったの」との僕の問い掛けで50年間封じ込まれていた会話が始まった。「私が言ったというより無理やり言わされたのね。金村多恵さんと私はずっと学校で一、二を争っていたの。卒業した年は偶々私が上だったため総代に選ばれたことを金村さんは根に持ってね、いろいろと意地悪を仕掛けてきたの。ある時私取り巻きの前に呼び出されてね、好きな男生徒の名前を告白しなさいと迫られたの、誰かの名前を告げなければ解放してもらえないので、ついあなたの名

          真水のような初恋の味

          同窓会始まる

          秋月聡子との邂逅で僕は心ここにあらず、と言う状態に陥った。でも、僕が誘った以上陽子ちゃんとの会話を打ち切るわけには行かなかった。「そうねえ、あなたの知っている私が一番輝いていた私かもしれないわね。背丈だけじゃないのよ。中学校から高校と成績もだんだんと下がりっぱなしで、今ではどこにでもいるおばさんよ」と話し続ける陽子ちゃんの告白に全神経を集中して耳を傾けた。 「でもねえ、私今が一番幸せなの。子育ても終わり自分の時間が持てるようになったでしょう。去年からボランティアとして働き始め

          同窓会始まる

          「恋い初めし人」との再会

          「さっきから楽しそうにお話ししているところを羨ましく思いながら拝見させて頂いていたの。せっかくの楽しみを邪魔して御免なさいね」と言いながら二人の会話に割り込んできた人がいた。スーツ姿の白髪のご婦人だった。その姿を目にしたとたん僕の心に中学生だった頃の胸のときめきが甦った。 その中学校には僕の学校と隣町の学校の2校の小学生が進級した。その年の入学式の新入生総代は隣町の学校の生徒だった。頭の髪を白いリボンで結び、セーラー服の上に白いガーディガンを着たその女生徒を一目見ただけでその

          「恋い初めし人」との再会

          幼なじみと再会

          4月に生まれるはずだった僕は、母の骨盤が狭く産み月まで待っていたのでは母子双方の生命が危険に晒されるとの判断により、急遽執り行われた帝王切開で2月に誕生した。お陰で幼稚園へ行くのが一年早まった。体力、知力が発達途上の幼児にとって一年の差は絶大である。誕生後も病院に1年間隔離されていた僕が幼稚園でいじめにあわないよう気遣った母が僕の庇護者として白羽の矢を立てたのがその女の子だった。 仮にその子の名を陽子ちゃんとしておこう。陽子ちゃんは足がすらりと伸び、背が周りの子供達より頭一つ

          幼なじみと再会