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恋人と呼ばれて

我が家の前に一本の大きな柳の木が聳えていた。その横の家が貸本屋だった。元々はミルクホールで近所の若い衆の溜まり場になっていて謹厳実直な我が家とは付き合いがなかった。新刊の雑誌類も置いてあり、本が好きで映画少年だった僕はおかみさんのいない時を狙って店に入り「映画の友」を盗み読みしていた。
或る日僕が立ち読みをしていると知らぬ間におかみさんが僕の傍に立っていた。叱られると身構えた僕に「もうすぐ次の号が出るのにその本売れなんだな。読みたいのなら家でゆっくり読んだらええわ」なんて言う。そして未だ心臓の鼓動の収まらない僕に「明日中に返してくれればいいから持って帰り」と優しく手渡してくれたのだった。
欣喜雀躍「映画の友」を手に家に帰ったが一晩で読み切ることは出来なかった。学校に持って行き休み時間の読むことにしてその本を鞄に潜ませた。昼休みは「Sケン」で遊ぶことになっていた。だがその日は僕は一人で教室に残り「映画の友」を読み終わり、これが見納めだとデボラ・パジェットの写真を眺めていた。
「南海の劫火」を見てデボラ・パジェットのファンになった。二番館で上映されていた「折れた矢」も見てインディアン娘に扮した彼女が死ぬ場面では涙が止まらなかった。何時しかその可憐な姿が梅園容子と重なった。以来、梅園さんはデボラ・パジェットに似ていると思い込み、デボラ・パジェットが僕の一番好きな女優となったのだった。
生徒達がドヤドヤと教室に戻ってきた。「映画の友」を見ている僕を見てその一人が僕の手から雑誌を抜き取った。「返せ」と迫る僕から悪ガキ共が仲間同士で雑誌をパスしながら逃げ回る。「おい見ろよ、この写真。こいつこの写真を見ながら毎晩マスかいてるんちゃうか」「夜だけじゃ満足できず、昼も便所でこっそりマスをかくつもりで学校にまで持ってきたんに違いないわ」等々と僕をあざ笑いながら。
帰って来た梅園さんが「私の席の周りで騒がないでよ」と叱咤した。悪ガキの一人が「映画の友」の先ほど僕が見ていたページを開き梅園さんに「こいつがこの写真に見入っていた。お前がこの女優に似てるってよう」と告げた。恐らくは口から出まかせの言葉だろうが見事に僕の心中を言い当てられてギョッとした。マスのことまで言われるんじゃないかと心配したがさすがに悪ガキも梅園さんの前ではそこまでは口にしなかった。
授業のベルが鳴り悪ガキどもが去った後の梅園さんの机の上には「映画の友」が残っていた。その雑誌を見て思わず「読みたかったらその雑誌持って帰っていいよ」と言ってしまった。言い終わる前にその雑誌を今日返さなければならないことを思い出した。取り返しのつかないことを言ってしまった、返せなくなったらどうしようと僕が思案するより早く「有難う。でもその本もう読んでしまったの」との梅園さんの言葉が返ってきた。
それがきっかけで梅園さんと映画のことを話しだした。話してみると「南海の劫火」や「折れた矢」は勿論「巴里のアメリカ人」まで見ていた。映画の中でジーン・ケリーが「ス・ワンダフル」や「アイ・ゴット・リズム」を歌い踊る場面の話で盛り上がった。更に彼女は僕が毎週待ち焦がれている「S盤アワー」も聞いていた。週毎に発表されるヒット・パレードの順位に二人で一喜一憂した。
そして更に彼女は「テネシー・ワルツ」を英語で歌えた。彼女が丸暗記して歌う英語の歌詞を僕が日本語に訳したりした。お陰で会話の話題にはこと欠かず授業そっちのけで話し合っていた。学校に行くのが楽しくてならず、梅園さんと話すことができない体操の時間だけが耐えられない時間だった。家に帰ってもどこかで梅園さんが見てくれていると信じて一人で「ス・ワンダフル」を歌っていた。
そんなある日突如先生から「そこの二人立ちなさい」と声を掛けられた。恐る恐る立ち上がった二人に先生は「何も君達二人が恋人同士のように楽しそうに話し合っているのを邪魔しようというんじゃあないんだよ。ただここは教室で今は授業中なのだから君たちの話し声が勉強している他の生徒の迷惑になるのが分からんかね。話を続けたいのなら外に出て話してくれないか」との皮肉たっぷりの咎めを受けたのだった。
元々は授業中うるさく騒ぐので授業の邪魔になる生徒のいた席だった。その心配はないと先生に見込まれてその席に移った僕が何と先生から同じ叱責を受けることになったのだ。ミイラ取りがミイラになったとしか言いようがなかった。外に出る度胸もなく返答の一つもできなかった。恥ずかしさで蒼白になった顔を下に向けただ項垂れて立っていた。
でも心の中は温かかった。耳の中で先ほど先生の口から出た「恋人同士」と言う言葉が反響を繰り返してしていた。その反響を聞く度に胸がジンと熱くなる。だがこの言葉は僕の中学時代の最後を告げる打ち上げ花火だった。ドンと打ちあがった花火が消えぬ間に高校進学試験が始まり梅園さんと僕はそれぞれ別の道を歩むことになったのだった。
(写真:こぼれた種から芽が出て今年も我が家の庭はトレニアの花盛り)

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