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手の甲に爪の傷跡

修学旅行から帰って間もなくのことだった。突如先生から席を代わるよう告げられた。後ろの席で授業中に騒いでばかりいる生徒がいて、このままでは授業にならないと業を煮やした先生がその生徒を自分の前の席に移して厳しく監視するという強硬手段に打って出たのだ。その際その生徒と席を交代する者として選ばれたのが前の席にいて大人しくて勉強がよくできる僕だったというわけだ。
小学生の頃は背丈の順に席を決めるので背の低い僕は何時も前の席に座らされた。中学生になってもそのやり方に変化がなかった。僕の後方の席に座りたいとの願いは叶うことがなかった。そんな僕の長年の夢が思わぬことから実現することになったのだ。小躍りしてその席に移ろうとした僕の心臓が早鐘のように打ち始めた。如何なる天の配剤か、何とその席は梅園容子さんの隣の席だった。
胸の高鳴りに必死になって堪え、雲の上を歩くようにして新しい席へと移動した。席に座っても体がふわふわしたままでまるで雲の上にいるようだった。暫し夢見心地に浸っている間に梅園さんに挨拶をするのを忘れてしまった。夢から覚めるやそのことに気が付いた。早速挨拶をしようと梅園さんの様子を覗うと僕が移ってきたことなど素知らぬ顔して平然と座っている。声を掛けようにも掛けるきっかけがつかめなかった。
当時の学校の机は男子生徒と女生徒が並んで座る机と椅子がセットになった二人掛けの机だった。後ろの机には男女が入れ替わって座るので僕の真後ろの席はチッカ(竹輪)と呼ばれている女性の席だった。千賀子と言う立派な名前がありながら誰からもその名前で呼んでもらえず、皆からチッカと呼び捨てにされている女の子だった。頭が悪いわけでもないのに何をするにも動作が鈍く、何時ものろのろとした動作で後始末に追われていた。顔立ちが結構整っていることもあり悪童どもの格好の苛めの対象になっていた。
僕は梅園さんから無視された悔しさをチッカを苛めることで晴らそうとした。次の時間は教科書の指定されたページをノートに書き写す自習時間だった。のろのろと書き写しているチッカの手から鉛筆を奪い取った。チッカは一瞬驚いて僕を見たものの、何事もなかったかの如く筆箱から新しい鉛筆を取り出して書き続けた。僕はその鉛筆も取り上げた。次々と筆箱から取り出す鉛筆を取り上げられチッカは書くものが何もなくなった。
困惑顔のチッカの前で「取れるものなら取ってみろ」と手にした鉛筆を振りかざした。と、その手が誰かに後ろから握り締められた。振り向いた途端僕の全身の血が凍結し顔面が蒼白になった。僕の後ろに梅園さんが立っていた。僕は取り上げた鉛筆を放すまいと両手で力いっぱい握り締めた。取られてはなるまいと必死になって抵抗したが梅沢さんの手を傷つけてはいけないと思い直し、思い直した途端鉛筆は梅園さんの手に移っていた。
これで梅園さんに改めて挨拶し仲良くなるという手立てがなくなった。屈辱感に打ちひしがれて呆然と立つ僕の手からズキズキとした痛みが伝わってくる。見ると薬指の付け根に爪の形をした、えぐられたような傷跡がある。さっきの争いで梅園さん爪が食い込んでできた傷に違いなかった。何のことはない、「S」で男の子に興味がないと決め付けられた梅園さんは皆の言うように深爪でなかったのだ。
天の配剤で梅園さんと隣り合わせで座れるという、千載一遇の幸運に恵まれたのにまたしても自らの浅はかな行動でこの好機を取り逃がしてしまいかねなくなった。ただ、ひょっとしたら梅園さんが男の子に興味がなくもないとの一条の光明を見出しはした。その光明に灯を灯して僕を陥った苦境から救い出してくれたのが僕が我が家の前の貸本屋から毎月借りて購読していた映画雑誌の「映画の友」だった。
(写真:今年も我が家の庭に「ルドベキア・タカオ」が咲き出した)

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