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ウオーター・アンダー・ザ・ブリッジ

中学三年生になって金村多恵とクラスが一緒になった。そのクラスに東京から転校生が入ってきた。植松達夫と言い、手足がすんなりと伸び精悍な顔をした、見るからに都会っ子と言った風貌の持ち主だった。話す言葉が田舎っぺの僕達とは全く違っていた。「『君の名は』の数寄屋橋がさ」とか「『日劇』にアメリカからジャズマンがやってきてさ」とか「さ」「さ」を強調して話す彼の東京弁に先ず女生徒が聞き惚れた。
忽ちクラスの人気者になったが化けの皮が剥がれるのも早かった。授業が始まると何を聞かれても頓珍漢な答えしか答えられず、頭の中が空っぽであることがクラス中に知れ渡ってしまったのだ。それでも彼の鼻はへし折れなかった。腕力に任せて弱い者苛めをするようになった。最初から嫌な奴だと毛嫌っていた男子生徒に仕返しをする彼を「止めなさい」と言って制することができたのは金村多恵だけだった。
二学期が始まって間もなくのことだった。工作の授業が始まる前の休み時間に金村多恵が僕の席に来て机の引き出しから工作に使う長い板切れを抜き取った。彼女がその板切れを振りかざし取れるものなら取ってみな、と僕を挑発する。板切れなしでは工作の授業に出られない。返せと彼女に迫る僕とキャッキャと笑いながら逃げ回る彼女。その中に割り込んできたのが植松達夫だった。
日頃のうっぷんを晴らすのはこの時とばかりに植松君が金村多恵を追い回す。だが教室の片隅に追い詰められた多恵さんは負けてはいなかった。その場にしゃがんだまま植松君をにらみ返し「あんたの欲しいものは私のスカートの中で両足に挟んである。取れるものなら取ってみな」と叫んだ。さすがの破廉恥漢も彼女の気迫に気圧されて引き下がる他なかった。多恵さんは何事もなかったかの如く僕にその板切れを返してくれた。
不気味な笑みを浮かべた植松金の呼び止められたのはそれから何日か経った昼休みのことだった。手に持ったパチンコを振りかざし、この前二人がコケにされた仕返しをするから付いて来いという。教室では多恵さんが数人の女の子と話し合っていた。植松君がパチンコを構え「おい金村」と多恵さんに呼び掛けた。それを見た女の子がキャッと言って散らばった。パチンコから放たれた石が後ろの黒板に当たり多恵さんが逃げ出した。
僕は何とか止めなければと廊下を走る二人を追い掛けた。階段を下りた先で二人の姿を見失った。教員室の前に植松君が立っていた。僕を見ると「あの野郎、教員室に逃げ込みやがった」と吐き捨てるようにつぶやいた。教員室から先生に抱きかかえられるようにして多恵さんが出てきた。先生は僕たち二人に「そこに立っているように」と告げ多恵さんと保健室に向かった。多恵さんの目の周りが泣いた後のように赤かった。
多恵さんは次の日も、その次の日も教室に姿を見せなかった。噂では植松君がバチンコで放った石が後頭部に当たり、その傷を二針だか三針だか縫ったとのことだった。植松君は別人のようにおとなしかった。台風が襲来するとのことで授業は午前中だけだった。猛烈な風で家がぎしぎしと揺れ眠れない一夜を過ごしたが朝になるとその風も収まっていた。家の外で「橋が流された」と話し合っている近所の人の声がする。
橋と言えばこの先の運河にかかっている端に違いなかった。僕は飛び起きるや服を着て家の外に飛び出した。台風一過の秋晴れで大通りの水溜まりに写った青空の中に千切れたコスモスの花が浮かんでいた。橋のたもとは既に大勢の人でごった返していた。何とか人垣の先に出ると木造の橋のこちら側から四分の一ばかりが崩れ落ちている。向こう側の四分の三残った橋の上にも見物人が集まっている。
その橋の先端に白衣を着た女の人が立っていた。その白衣の人に寄り添うようにして金村多恵がいた。入院中の多恵さんが看護婦さんと一緒に病院から抜け出してきたのであろう。白いセーターにギリシャの壺の絵をプリントしたスカートをはいている。風が吹くとスカートが風にはためき戦士の手にした槍が揺れ動く。その度に僕の胸がその槍で刺された如く痛み出す。僕はその痛みに耐えているだけで声を掛けることもできなかった。
そんな僕を見て「あんた中学生じゃなあ。家が向こうだったら今日は学校に行かんでもよかったのになあ。さっきから悔しがっていたあんたの気持ちようわかるで」と傍にいたおばさんが話し掛けてきた。「そりゃそうじゃ。向こうに住んでいる中学生はずっと休みじゃ。もう一度夏休みが来たようなもんじゃ」「橋が渡れなくとも渡し船と言う手があるわい。学生は勉強するのが仕事じゃけんのう」と周りの人もはやし立てる。
思わぬ騒動に巻き込まれ何とか抜け出しそうともがけばもがくほど多恵さんのことが気になってくる。少なくとも手を振ってでもして挨拶をしなければと焦りに焦っているうちに周りの人達も言いたいことを言ったら気が済んだのかそそくさと帰り出した。喜び勇んで何とか多恵さんと連絡を取ろうと今一度人垣の前に出た。向こうの橋の上を眺めたら、何時の間にか多恵さんと看護婦さんの姿がなくなっていた。
まるで思春期の気まぐれな思いなど水に流してしまえと言わんばかりに、多恵さんが立っていた場所の前の橋の崩れた部分に川の水がごうごうと音を立てて流れ込み勢いを増して流れ去ってゆく。聡子さんとの恋はただ恋に恋しただけだったが、多恵さんへの思いも彼女が別の高校に進学したことで、盛り上がったところで突如終わってしまうモーツアルトの曲に似て尻切れトンボのままになってしまった。

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