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阿波踊りの完全復活を祝して、そのⅡ(映画「夜の素顔」と慶應義塾連)

僕が大学に入学した年に徳島県の学生寮が竣工した。母が僕の知らぬうちに入寮の手続きを終え僕は40人の寮生の一人となった。その年の10月に徳島県の東京事務所から阿波踊りのエキストラを募集しているとの連絡が入った。
10人ばかりの寮生とバスに乗って行き着いたのは調布の大映撮影所だった。映画は吉村公三郎が監督し京マチ子と若尾文子が主演する「夜の素顔」だった。阿波踊りの群舞シーンに出演する他に女優達に踊り方を教えて欲しいとのこと。グランプリ女優に手解きするのは俺だぞと皆で勝手に言い合って暫し興奮が収まらなかった。
ニュー・フェイスの女優達は自慢の顔を見てもらうチャンスだと誰もが鳥追い笠をアミダに被っていた。踊りを教えるより先ずそれが気になった。「『夜目遠目笠の内』と言って顔を隠すから綺麗に見えるのだ」と説明し直させようとしたのだが彼女たちは嫌がってキャッキャと叫んで逃げ回る。そんな彼女たちを追い掛けては無理やり被り直させた。
踊りを教えることも忘れ若い女優の卵と大騒ぎをしているうちに撮影が始まった。グランプリ女優の姿は遠くから垣間見ただけで、手取り足取り踊りを教える願望を成し遂げた者はいなかった。出来上がった映画を見ると主役二人が並んで大写しになり手を動かしているだけでその後ろで乱舞しているはずの僕達も何処にいるのかも判別が付かなかった。
大学二年の時阿波踊りの時期に合わせて四国連合三田会が催された。主賓は大脳生理学者で推理作家の林髞教授で富田町の料亭「浜伊」での宴会と相成った。宴会が終わると全員がペンのマークが入った浴衣に着替え料亭専属の芸者さんや中居さんからなる大人数のお囃子部隊を従えて街に踊り出た。
二年生の僕は後ろに控えていた。踊り子の殆どが県外からの客だった。各自が独自の身に付いた身振りをするだけで踊りは支離滅裂で見ていられなかった。観客席から「鳴り物は最上だが踊りが最低だ」との声が聞こえてくる。地元の僕達だけでもしっかりしなければと必死になって踊った。気が付いたら先頭に立って踊っていた。
翌日、朝寝坊をして窓の外には朝日が燦燦と輝いていた。窓の外から話し声が聞こえてくる。私淑する西脇順三郎の「何人か戸口にて誰かとささやく」と言う詩句が頭に浮かびその声に聞き入った。「昨夜もよう浮かれとったなあ」「ここの兄ちゃんも先頭に立って踊ってた」「あんなに踊りが上手かったかとびっくりじゃ」等と昨夜の僕の踊りを褒めていた。
見巧者のおばさん連中の褒め言葉だから間違いはないはず。踊りの名手の僕が誕生した「それは神の生誕の日」だった。だが、その日を境に阿波踊りを踊る機会がなくなった。でも、一度体に染み込んだ「よしこの」のリズムは消え去ることがない。あの日から六十数年が経過したが、今以って阿波踊りを踊る機会がないかと模索し続けている。
(写真:僕の子供の頃、阿波踊りは早朝に富田町の芸者衆が町中を流して歩くことから始まった。今もその風習は存続しているのであろうか)

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