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“死ぬ”ことを前提にしない社会でひとは泣くのだろうか?とぼくは考えてしまった。

森博嗣さんの『人間のように泣いたのか?』は哲学書兼恋愛小説だった。

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本作はWシリーズの10作目、完結刊だ。
人気作家・森博嗣さんの人気シリーズの、それも完結刊であることなどまったく知らずに、このタイトルに魅かれて買ってしまった。
森博嗣さんのお名前とSFの世界の作家さんであることは知っていたが、知っているのはそれだけ。本作が森作品お初なのです。
ぼくはそのくらいSFの世界を知らないで本を読んできた。
でも、出会えるものなんですね。
「今のお前が読むにはちょうどいい本だぞ」とだれかに囁かれたのかもしれない。

Wシリーズ、WWシリーズに登場する人間たちは、病気や老衰で死ぬことがほぼ無い。
機械のパーツのように不具合が生じた臓器は取り換えればいいし、全身を総入れ替えして若返ることも出来る。

人が“死なない”とどんなことが起こるのか?
シリーズが設定した世界では、まず人の生殖能力が失われ、次世代は誕生しない。
代わりに、ウォーカロンという“ほぼ人間”が製造されて社会に組み込まれ、馴染み暮らしている。ただ、受け入れてはいるがおぼろげな“ズレ”感のようなものが、クリーニング帰りのシャツから取り忘れたタグのようにまとわりつく。

“赤ちゃんが生まれない”世界。
死にはしないが、自らの赤ちゃんをその手に抱くことのない世界。
終わらない“いのち”と交換に輝ける“生”を手放してしまった世界。


森さんは、そう遠くない未来から密やかな波動を送っているのではないか。
こんな世界はSF小説の中だけの話だと、本当に言い切れるのか、と。


あらためてぼくが暮らす社会、国家、世界を凝視してみる。
世界は、新型コロナウィルスによるパンデミックが発生するずっと以前の時代に、すでに分断され、それが今も継続されている。
物質こそに価値がある。
高度な科学技術が幸福をもたらす。
唯物論。自然主義…

そう遠くない未来に立っているとして、そこから振り返ってじっと見詰めると、ちょっと目を逸らすことの出来ないテーマだ。
森さんWシリーズ、WWシリーズの設定自体が哲学を、思考することを求めている。


ざっとしたストーリーの流れを押さえておく。
*ネタばれに注意かなぁ…森さんのSFはストーリーを知らされると、もっと読みたくなるちょっとめずらしいSFだからサラッとならいいだろう。

主人公のハギリは人工生命と人工知能の研究者。
ウグイは国家の情報機関の凄腕女性エージェント。
ハギリは、キョートで行われる「生殖に関する新しい医療技術」をテーマにした国際会議の実行委員。
そのハギリをガードするのがウグイ。
会議を阻止しようとするテロ。
しかし、テロの目的は会議の阻止ではなかった。

ハギリとウグイは見知らぬ建物に軟禁されている。
ふたりはその建物から逃走する。
それまでとは打って変わって、ハギリ博士の抹殺を目的とした激烈な攻撃が執拗に繰り返されていく。
キョート中を逃げ回るハギリとウグイ。
敵は誰なのか?どんな組織なのか?

読み込んでいくうちに読者は、巧妙、緻密、クールな物語のジャングルに迷い込んでいるという寸法。

ウグイはわが身を挺してハギリを守り通す。
Wシリーズ第一巻から読み返したぼくには、ウグイのハギリ博士への接し方の、何と云うか、距離感かなぁ、お互いの体温が徐々に触れ合い、混じり合い始めているように読めてくる。

そして、あれだけ任務“いのち”のマシンのようなウグイが、今まであまり気にしていなかった自分が所属する社会の構造に疑問を持つようになる。
ウグイは、少しずつ思考を始めたんだと思う。
そして、ウグイが直面した疑問はハギリに向けられていく。

例えば、高度に発達した人工知能が人間を排除しないだろうか、というウグイの問いに、
ハギリは、人間の方が排除にかかるのではないかと。

そして、こう言っている。
「・・・・今でも、人間は個人の感情に支配されている。                           好きか嫌いかで味方か敵かを決めてしまう。そういった未熟さというか愚かさというのは、長く続いてきた宗教による争いにも発端がある。                 文化が違う、生まれた環境が違う、受けた教育が違う、というようなことで相手を区別し、排除しようとしたんだ。今でも、その血が残っていると思う。・・・・・・・・・
人間というのは、基本的に戦うことで活路を見つけてきた。勝こと、生き残ることで、自分たちを確かめてきたんだ」

それを諦めて受け入れてはいけないというハギリに、

「諦めてはいけないんですね」と応えるウグイ。
諦めてはいけない。
泣き、笑い、哀しみ、慈しむ同時代人を認めることで自らを確かめる。

人間のように泣いたのは、人間のウグイだった。
博士のようにきちんと考えているひとがいることが嬉しいと。
そしてそれがハギリだったことが…

どのように一件落着したかは、さすがに書かないでおきますが、
平穏な日常に戻ったハギリ。
あまりよく眠れないと女医さんに相談に行きます。
すると、よくある症状だから、あまり気にしないでいいと言われてしまいます。
そして、さっきも、好きな人のことを考えてしまって夜眠れないという女性が来たと。

森博嗣さん『人間のように泣いたのか?』は、ぼくにとって哲学書であり、淡い初恋の物語でした。


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