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異語り 092 濃霧

コトガタリ 092 ノウム

その日は朝から天気が悪く、小雨が降ったりやんだりする落ち着かない日だった。
だからといって仕事が休みになるはずもなく、ボロいワゴン車に仕事道具を詰め込み会社を出発した。
遠方での作業予定のため1人だけ早朝出勤だ。
見送りなどもない。
その代わりに、いつもであれば数件こなさなければならない仕事も、今日は1件だけで済む。
少々長いドライブは必要になるが、車の運転は好きなので自分にとってはラッキーな案件である。


三時間ほどかけて現場に到着し、本日の作業(新築アパートの水回りとベランダ・屋上への防水加工)に取りかかる。
午前中には屋内とベランダが終わり、昼食後屋上に取り掛かることにする。
今のところ降りだすことはなかったが、相変わらずはっきりしない天気だ。

屋上全体には雨対策でブルーシートが被せてあった。
全部ひっぺがしてしまうと降り出した時に悲惨なことになるので、ちょこちょことめくりながら、時にはシートの中に潜り込みながらの作業になった。
空気がこもる中での作業は、匂いやら薬品の成分やらでかなりキツイ。
だが、どうにか2時間ほどで作業を完了させた。

「おう、お疲れさん」大工さん達に声をかけられ現場を後にする。
後は再び3時間運転して帰れば終了だ。

ふうっと息を吐くと、ズキリとこめかみ部分が痛んだ。
「さすがにあの状態での作業はきつかったなぁ」
有機溶剤を使用するため作業中の換気は必須なのだが、どうにもならない場合だってある。
「少し休むか」
道は峠に入っていたが、ちょうど休憩エリアが目に入ったので車を寄せた。

車3台分ぐらいの待避所に小汚いトイレと自動販売機だけのスペース。
小用を済ませ缶コーヒーを購入すると、車のシートを倒して目を閉じた。


ブーンブーンブーンブーン


セットしていたアラームが鳴っているらしい。
はっきりしない視界の中、手探りでスマホを探し出す。

ぼんやりと浮かび上がる時刻。
やはり疲れていたらしく、きっちり1時間眠ってしまったらしい。
未だに霞んだような視界の中、買っておいた缶コーヒーを見つける。
なんだかひどく結露している。
体とシートを起こすと全身にも不快な湿気を感じた。
「うげ、なんだよこれ! 寝汗か?」
汗ばむよりはむしろ肌寒いような気温だ。
手を伸ばした助手席のカバンまでもがどこかしっとりとしている。
「なんでこんなことに……」
やっと意識が外に向いた。

外はただ白かった。
すぐ前にあるはずのトイレの輪郭すら分からない程の濃い霧が立ち込めていた。

そういえば寝る前に換気しようと窓を少しあげていた。
そのせいで車内まで霧に濡らされることになったようだ。

「しょうがないゆっくり帰るか」
缶コーヒーを飲み終え一息つくと車のエンジンをかける。
元々大して車通りのある道ではない。
ましてこの濃霧だ、ノロノロ走っていても文句は言われないだろう

霧はひどい時には数メートル先の道すら見えないほどに濃かった。
徐行運転のようなスピードでのろのろと峠道を登っていく。
山頂付近で『展望台』の看板を見つけたので、もう一度休憩することにした。


天気が良ければ下の街並みが望めるはずの柵の向こう側は、綿でも詰まってるのかと思うほどの白に埋め尽くされている。
車を降り体をのばしながら大きく深呼吸する。
「まぁ、山を降りれば晴れてくるでしょう」
進行方向であるはずの白い壁に目を向けると、黄味がかった点がこちらに向かってきていた。
そういえばここまで対向車と1台もすれ違わなかったことに気がつく。

時折消えるのはカーブのせいか?
徐々に大きく明るくなる点を見ながら何となくゾワリとした感覚湧き上がり、急いで車に乗り込んだ。
こっちもライトをつけておいた方がいいか
なんとなくの思いつきでエンジンをかけ、ライトをつける。
さっきまで聞いていたはずのカーラジオがいつの間にか電波を拾えずにサーサーとノイズを垂れ流していた。

対向車のランプがいよいよ大きくなってきた。
「いや、 ちょっと、 スピード出しすぎじゃないか?」
この濃霧の中、ありえない速度を出してるように見える。
なんて命知らずな……。一瞬、絡まれたらどうしようかと思ったが、ここに入って来るようなら入れ違いで出ればいい。そう考えハンドルを握ったままライトの軌跡に目を凝らしていた。

黄色い光が真っ直ぐにこちらを照らす。
まだ車影は見えないが、恐らく向こうからもこちらのライトが見えているはずだ。
光は更に速度を上げたかのようなスピードでこちらに向かってくる。


もしかして、こっちが道だと勘違いさせちゃったか?
不安がよぎり、ライトを消すために手を動かそうとした時。
光が軽くバウンドしながらこちらに突っ込んできた。

停車した状態ではなすすべはない。
慌てて両腕で頭を庇うようにして目を閉じる。

その刹那、光の残像が線のようになって自分の脇をすり抜けていくのを見た。

いくら待っても衝撃も衝突音も聞こえてこない。


恐る恐る目を開けると、ただ薄暗い霧が立ち込めているだけだった。

車外に出る勇気はなかったので、車を回して後方の柵にも寄せてみた。
が、どこにもぶつかったような跡は見つからない。
早々に立ち去りたい心を抑えつつ、再び徐行運転で峠道を下り始めた。


霧は10分もしないうちに晴れ、無事に帰宅することができた。



峠には走り屋の噂はあったが、ひどい事故や怪談的な話は聞いたことがない。
なんだかキツネかタヌキにでも化かされたような気分だ。

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