見出し画像

Z世代の“絶望”に抗いたい

東京のある企業が主催する、大学生向けの一次産業体験インターンシップが八幡浜市で開催されました。
柑橘類の生産と加工に従事しながら、地域課題を学んで解決策を考える、という内容だったそうです。
私がいつもお世話になっているコダテルも協力していて、参加学生と開催地住民との交流会にお誘いいただいたので参加してきました。

学生さんの中に、大きなノートを携えている方がいらっしゃいました。
日記でもあり、会話の中で気になった言葉や考えを書き留める備忘録でもあるそうです。
とても素敵な習慣をお持ちだと思いました。

夜も更けた頃、そのノートの習慣に込められた思いが語られました。
曰く「私はアンネ・フランク (*) のようになりたい」と。
(* ナチスによるユダヤ人迫害の中の生活を綴った有名な日記の著者)
大災害や戦争で人類社会から電子記録が失われるようなことがあったとしても、アナログな媒体なら残るだろうからノートに綴っている、と。
この思いの背景にある社会への深い“絶望”に、私は衝撃を受けました。

この絶望感は同年代で共有されるものなのかと他の学生さんに尋ねると、肯定の答えが返ってきました。
破滅的な戦争の危機は相変わらず無くならない。
相対評価の価値観で育てられてきた中で、自分の暮らす国自体の国際的な地位低下を見せられ続けている。
気候変動や差別などの社会問題の解決も遅々として進まない。
こうした中では、社会的視野で考えられる人ほど絶望せざるを得ない、と。
さらには、絶望から目を背けるためにあえて思考を止めて道化を演じている、とも。


彼らの意見に、私も共感できるところがあります。
1991年生まれの私は、日本経済が低迷を続けた「失われた30年」と共に生きてきた「ミレニアル世代」あるいは「ゆとり世代」の人間。
人口増加による内需の拡大を背景とした安定雇用、所得の継続的な増加、といった昭和型モデルが崩壊する様を目の当たりにし、社会への不信や将来不安、絶望の声もよく聞かれる年代です。

私が政治活動を始めたのは、この絶望を乗り越えたいという思いもあってのことでした。
社会に存在するあらゆる課題について、その解決の第一歩は、誰かが課題解決に手を挙げることです。
問題提起がなされ、どれだけ解決策が論じられても、手を挙げて行動を担う人がいなければ課題解決は進みません。
それなのに、日本財団の「18歳意識調査」が示すように、日本ではこれからの社会を担う若者が諸外国と比べて圧倒的に不安に駆られ、絶望してしまっている (2019年調査2022年調査)。
この状況を改善し、課題解決の担い手が少しでも生まれやすくなるようにしたいとの思いで、私は政治活動に取り組みはじめました。
不祥事で多くの方にご迷惑をおかけしましたが、この思いを捨ててはいません。


私たちは、望むと望まざるとに関わらずではありますが、有権者です。
それはつまり、民主制を採る社会の“責任者”なのだと私は考えています。
“消費者”でも“従業員”でもない、“責任者”なのだから、絶望してなどいられない。
たとえ諸外国や先の年代と比べて不利な要素があっても、社会の姿をつくるのは“責任者”である私たち自身の行動なのだ。
このような考えを、学生さんたち相手に語らせてもらいました。

彼らの中には、高校生の頃から社会課題の解決に向けた政治活動に取り組んできた方もいらっしゃいました。
その学生さんは“無力感”を語ります。
毎年何万人もの署名を集めたって、課題解決は遅々として進まないじゃないか、と。
そんな課題を傍観して生きていられる自分たちは、ずるいじゃないか、と。

行動に裏打ちされた手強い“無力感”に対して、ありきたりですが私は時間軸の話を返しました。
社会は劇的には変わらないが、少しずつは変わっていく。
望む成果が挙がるまでは十年、百年単位の時間がかかるかもしれないが、行動しなければその少しの変化も生まれないのだから、私たちの行動には意味があり、微力ではあっても無力ではない、と。

私の言葉は、彼らの“絶望”にどれだけ太刀打ちできたでしょうか。
少なくとも、帰り際には別れを惜しむ様子を見せながら笑顔で見送ってくれました。
彼らは今回のインターンシップに参加するだけあって、同年代の中でも社会的視野で考えることに長けた方々です。
そうした彼らと深く対話できたことをとても嬉しく思うと同時に、その“絶望”を目の当たりにして背筋を正される思いを抱いた夜でした。
私は、この“絶望”に抗いたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?