気まぐれ創作裏話⑦~守山藩の立ち位置
拙作、「鬼と天狗」で当初からは大きく立ち位置を変えたのが、「守山藩」です。
以前にこちらでもちらっと紹介しましたが、昨年末に入手した「文久4年年中日記」(通称樫村日記)に掲載されていた情報が、お宝級だったのです。
最新話「嶽の出湯」において、天狗党の「筑波挙兵」の直前に守山藩士が二本松藩領である「嶽温泉」に遊びに来ていたことは書きましたが、もう一つ、興味深い記述があります。
それが、こちら。
書き写すのはなかなか骨が折れましたが(基本的に、文語は旧字・変換がしにくいので現代文の写経より大変💦)、それでも、この頃水戸藩が分裂状態にあったことを憂慮する思いが、ひしひしと伝わってくるのではないでしょうか。
この「触れ書き」が出されたのは五月十四日ですので、既に「筑波義挙」が決行された後に出された計算ですね。
この高橋岩太郎というのは、実は鳴海のライバル役として登場している「三浦平八郎」の同僚です。役職も三浦平八郎と同じ「御目付役」で、元治元年4/24日付けで御目付役を拝命したことがわかっています。
もっとも、彼の息子である「東三郎」は、八月下旬に水戸城下で起きた「神勢館の戦い」で水戸城に向かって発砲した科で、処刑されるのですが……。
この後、三浦は6月(多分)12日付けで自ら願い出て松川陣屋に転任になるのですが、この高橋岩太郎の「御達書」を見ても、守山藩の三浦らが「天狗党激派」だった……とは考えづらいような気がします。
ちなみに、私が「樫村日記」に出会う前に「守山藩」について調べたのは、主に以下の文献です。
ただし、この中で直接一次資料である「文久4年年中日記」に当たった……と確証できるのは、大河峯夫氏(何気に私の先輩に当たる方)の卒論だけなんですよね。
そして諸先輩方の調査の中で、「天狗党」という呼ばれ方が、後世の人により「鎮派」も「激派」も一括りにされてしまい、その印象に引きずられたかなあ……という感想を持ちました。
いや、時代によって研究度合いは様々でしょうし変化していくものですから、一概に責められるべきものではないのですけれど。
ともあれ、守山藩の傾向として三浦らが「尊王」派だったのは間違いないのでしょうが、守山藩全体行動を見ていると、必ずしも「天狗党」と同一視されるものではない……というのが、私の印象です。
後世の人間によって、随分と「勤王論」「尊攘派」が神格化されてきた部分もあるのではないでしょうか。
私自身は、平八郎の手記にあったように「宍戸藩主の松平頼徳に加勢しようとしたが思いがけず頼徳が罪人として捕らえられてしまい、悲嘆に暮れていたところへ出頭を命じられ、命令に従ったところ逮捕された」というのが、一番真実に近い気がします。
そう捉えると、二本松藩側の記録(郡山宿で仙台藩に守山の人間が越訴しようとして逮捕された)で、割と守山藩に同情的な記述を残しているのも、納得できますしね。
つらつら思うに、「正しい史実」とは何なのか。
特に幕末は東西で「勤王思想」「尊皇攘夷」を巡って激しい戦いがあったからか、どちらの側に立ったとしても、過激な論調に巻き込まれることは珍しくありません。
ですができるだけ当時の人々の記録に忠実に、その心情を解き明かしていきたいなあ……と思うのです。
なお、水戸藩における「尊皇攘夷運動」についての記述は、こちらからどうぞ!
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