奇っ怪極まる水戸藩~尊攘思想と派閥争い(前編)
現在連載中の「鬼と天狗」も、鳴海が番頭に就任すると同時に、水戸藩の動きもいよいよきな臭くなっていきます。
作品冒頭で書いたように、文久2年の夏頃には既に尊王攘夷思想が生まれていたのですが、その後の動きについては、非常にわかりにくいと感じる方が多いのではないでしょうか。
書いているワタシですら各人の思想についてはかなり迷うところも多く、今回第三章(常州騒乱)に入る前に、水戸藩の尊攘派の動きと派閥の関係についてまとめてみました。
☆構成を作った段階でかなりのボリュームになることが予想できましたので、投稿を分けます。
尊王攘夷とは
まず、「尊王攘夷思想」とは何なのか。鳴海に対する黄山の講義でも語らせました(江戸震撼)が、尊王と攘夷は、本来別々の思想です。
「尊王」について
尊王とは、元々古代中国の思想の一つで、ここで言う「王」とは、その国・民族の正当な統治者という意味合いを持ちます。この考えが日本に持ち込まれた場合、「天皇を尊ぶ」という意味で、「尊皇」と表記することも。私の場合、こちらの意味で「尊皇」表記で統一していますが、本来は「尊王」というのが正解といったところでしょうか。
さらにこの「尊王」思想の発達したものとして、朱子学の「尊王斥覇」という考え方があります。これは「正当に天下を取った王者を尊び、覇者(武力で天下を奪い取った者)を斥けるべき」という考え方のこと。
徳川幕府の開祖である家康は、儒教の一派である「朱子学」を重視・奨励しました。その意図としては、天皇から武家の頭領である「征夷大将軍」に任じられたことで、幕府の正当性を主張したかったわけです。
さらに水戸藩2代目の藩主である水戸光圀は、この朱子学を熱烈に信奉。1645年に『大日本史』の編纂に着手しますが、この完成は何と1906年(明治39年)と、250年あまりもの歳月をかけて完成させたのでした。
「攘夷」について
一方、「攘夷」もやはり古代中国の思想の一つです。こちらは夷狄、すなわち外国人を追い払うという一種の中華思想です。
文政7年(1824年)、水戸藩では「大津浜事件」がありました。これは、水戸藩領である大津浜(現北茨城市)にイギリス船が漂着。幕府は水と食料を与えてすぐに立ち去らせましたが、このとき以降、水戸藩では下士の間に国防に対する危機意識が芽生えます。
感情論と言ってしまえばそれまでなのですが、水戸の人々にしてみれば、卑しい外国人が神国日本に足を踏み入れるのは、我慢がならなかったというわけです。
以後、水戸藩では幕府に対して「攘夷論」を主張。この「攘夷論」の強力なオピニオンリーダーの1人が、藤田東湖でした。
藤田東湖は水戸藩第9代藩主、徳川斉昭の下で藩政改革に当たった人物の1人です。
斉昭については後述しますが、簡単に言うと「尊王」思想の強い人物でした。そこへ東湖の「攘夷論」が融合し、次第に「尊王攘夷思想」として一大派閥を形成していくのです。
そして、その考えは藩の枠組みを超えて全国へ広まり、特に薩長では、鎖港を貫こうとする人々の精神的支柱となりました。
小攘夷と大攘夷
ここで注意しなければならないのが、「攘夷論」の考え方として、「小攘夷」と「大攘夷」という考え方があるという点です。
小攘夷は、シンプルに「外国勢力を排除すればいい」という考え方です。とりわけ薩長の人々に支持された考え方で、横浜付近で起きた各種外国人襲撃事件は、この考え方を受けてのこと。
一方大攘夷は、ただ外国を拒否するのではなく、西洋諸国との交易を通じて列強に対抗できる国力を整える必要がある、とする考え方です。
水戸藩の改革派はよく「尊攘思想の持ち主」と言われる事が多いのですが、外国との向き合い方には、小攘夷派と大攘夷派で、かなり温度差があります。
そして、水戸藩内における「学閥」も、それぞれの立ち位置が異なるのです。
下図は、「鬼と天狗」で出てくる(かもしれない)人物のそれぞれの思想の濃淡を、マトリックス図に落とし込んだもの。
藤田東湖と同じように「尊王攘夷思想」の先駆けとして扱われる「会沢正志斎」は、むしろ大攘夷派だったと見て、間違いないでしょう。
また、「天狗党の領袖」として扱われることの多い「武田耕雲斎」も、思想の系統としてはむしろ「大攘夷派」です。
ちなみに、ここでは水戸藩の「諸生党」、宍戸藩「松平頼徳」、二本松藩の「鳴海周辺のグループ」は、尊攘派マトリックス図から除外しています。
先の鬼と天狗の「江戸震撼」では、三浦権太夫が会沢正志斎の『時務論』(晩年の著書です)について「耄碌した」と批判していますが、水戸市史では、会沢は最初から「大攘夷論者だった」と見ています。
会沢正志斎の『新論』は全国的なベストセラーとなり、水戸の尊皇攘夷思想を広めるのに一役買いました。ですが、実際には当人の意図が誤訳され、その誤訳が、いわゆる尊攘過激派の志士を生むきっかけになったのではないでしょうか。
勤王派と佐幕派
ですが、文久3年の薩英戦争、そして元治元年8月の「四国艦隊下関砲撃事件」(長州。文久3年の下関事件の報復です)を経て、薩長は次第に藩の方針を「大攘夷」に転換していきます。
当時、多くの武士が朱子学の影響を受けていたことは、容易に想像できるでしょう。したがって、多くの武士は、「幕府そのものは天皇から統治の許可を受けていた政権に過ぎない」という認識があったはずです。
言い換えれば、ほとんどの武士にとって「尊王は常識」であり、大攘夷志向が主流だったのではないでしょうか。
ですが、1863年から始まった各種の尊攘運動を経て幕府の能力・人材不足が露呈すると、便宜上、「勤王派」「佐幕派」という呼び方が、それぞれの志向を現す言葉になっています。
勤王派は幕府に見切りをつけた人々たちで、薩長の人々が中心。後に、戊辰戦争で「錦の御旗」を掲げたグループですね。
一方佐幕派は、幕府を中心に日本を再構築しようとした人々だと言っていいでしょう。幕閣に近い人々は勿論のこと、奥羽越列藩同盟で「旧幕府軍」とされた人らの多くが、こちらに分類されます。
現在でも尚薩長を中心とする「勤王派」と、奥羽諸藩を代表とする「佐幕派」の間で怨恨があったような表現をされがちですが、この対立構造だけが独り歩きしてしまったのが、対立の原因ではないでしょうか。
後に徳川慶喜が大政奉還を行った際もその意図が掴みかねる部分がありますが、彼の真意としては「徳川家と朝廷が協力して大攘夷を実行する」ことを見据えていたのであり、朱子学流に解釈すれば、徳川家が帝から預かっていた政権を返上するのは、自然な流れだったと言えるでしょう。
>中編に続く
以前の「幕末の水戸藩の実情」については、こちらもどうぞ!
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