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奇っ怪極まる水戸藩~幕末編

現在連載中の「鬼と天狗」ですが、もともと「二本松の天狗党征伐の話が読みたい」というオーダーから誕生した作品です。
二本松が水戸藩の天狗党征伐に駆り出されたのはれっきとした史実で、藩政史上初めて実戦に駆り出されたのが、この戦いです。

ところで名前だけは有名なこの戦いですが、その実態がつかみにくいのではないでしょうか。
簡単にまとめると、天狗党の乱というのは水戸藩の内乱です。


発端


そもそも、その遠因は徳川斉昭の家督相続を巡った争いにあったと言えます。
文政12年(1829)に水戸藩主に就任したのが、斉昭でした。その際に、誰が家督を継ぐかという争いもあったのですが、前藩主斎脩なりのぶの遺志により、斉昭が9代水戸藩主となりました。このとき、自分の擁立の功臣であった藤田東湖や武田耕雲斎などを中心に、各種藩政改革を行っていきます。水戸藩校である弘道館の整備や、助川海防城の建設も、その一つでした。

ですがその急激な改革は、幕府の反発と警戒を招きます。弘化元年(1844年)、斉昭は幕命で強制隠居させられ、家督を長男の慶篤よしあつに譲りました。それでも、謹慎が解かれると、慶篤の後見人として藩政を握ります(嘉永2年、1849年)。
安政5年(1858年)、幕府大老の井伊直弼が日米修好通商条約を独断で調印し、斉昭はこれを批判。再び幕府から永蟄居を命じられます。
このとき水戸藩の改革は朝廷に働きかけ、「戊午の密勅」が下命されました。これは、簡単に延べると「攘夷を実行せよ」という密勅です。幕府もこの情報を掴んでおり(そもそも幕府の頭ごなしにやること自体がまずい気もしますが)、水戸藩はこれを返納するかしないかで、内部の対立が激化しました。
さらに、幕府は水戸藩の改革派を断罪(安政の大獄)。これに反発した水戸藩過激派は、大老井伊直弼を暗殺(桜田門外の変)、後任の大老であった安藤正信を襲撃(坂下門外の変)。このとき改革派は力を失い、門閥派が勢力を強めていきました。
そんな中、万延元年(1860年)、斉昭は死去します。

勢力図


さて、そんな水戸藩は「御連枝ごれんし」の藩も抱えています。以前にも少し書いたことがありますが、水戸藩で跡継ぎがいなくなったときに備えて、跡継ぎを出す家柄ですね。
これは、宍戸藩ししどはん、府中藩、守山藩、備中高松藩の4つ。実際に、水戸が財政難に陥った際に、「内政が乱れている」として、御連枝の家々に幕府から直命で御連枝の藩に「水戸を何とかせよ」との下命がくだされたこともありますし、斉昭が強制引退させられていた時、幼少だった慶篤の後見を行っていたのは、高松藩、守山藩、そして府中藩の藩主でした。

その水戸藩の内部勢力ですが、二本松や周辺諸藩との関係を含めるとこんな感じです。
大発勢は一応天狗党の括りにしてありますが、実際には「鎮派」と呼ばれる穏健改革派の集団でした。

ちなみに守山の三浦平八郎のプロフは物語の制作上少し盛ってありますが(変える可能性もあり)、ちゃんと実在した人で、色々ときな臭い人物だと言えます。

この中で、二本松が幕命を受けて一緒に戦ったのは諸生党、そして直接対峙したのが、大発勢の山野辺主水正もんどのしょう、田中愿蔵げんぞうといったところでしょうか。田中愿蔵はいわゆる「散切隊」の党首で、天狗党の内部でも一番の過激派と目された派閥です。
→やったことが過激すぎて、後に天狗党を除名されました。

尊皇攘夷とは

それにしても、尊皇攘夷とは何だったのか。これもまた、実体がつかみにくいところではないかと感じます。
そもそも、国学(道徳観などを外国文化である中国ではなく、本来の日本神道などに学ぼう)から発展した考えが、尊皇思想と言えます。この国学の原型を誕生させたのが、水戸藩主であった徳川光圀公(大日本史編纂事業)だったと言えるのではないでしょうか。大日本史編纂は一旦頓挫していたのですが、この事業を再開・完成させたのが末裔である徳川斉昭です。
その思想は一種のナショナリズムとでも言うべきもので、そこから外国排斥、すなわち攘夷に結びついていったと考えられます。
また水戸藩では、幕末になると外国船がしばしば常州沖に姿を見せていたようで、助川海防城はこれらの不安に対するために建築されました。(城主は山野辺氏)

こうした動きは、水戸周辺にとどまりません。唯一の貿易窓口であった長崎に近く、やはり外国船の脅威に晒されていた長州、そして南学(これも国学の一種)が盛んだった薩摩藩の尊皇攘夷思想家たちは、藩策として攘夷を決行しようとしました。その一例が、文久3年に起こった下関事件(長州藩が下関海峡を通過する外国船に砲撃を加えた事件)や、同年に起こった薩英戦争です。
そもそも、尊皇思想に基づけば幕府も「朝臣」の身分であることには変わりないわけで、「攘夷の朝命」を受けていた幕府が、攘夷決行期限である5/10に実行しなかったため、一気に攘夷の動きに向かったとも見て取れます。
(実行したのは長州藩のみ)

ただし、これらは単純に「外国排斥運動」とは言えないのが難しいところで、既に倒幕を目論んでいた長州・薩摩の一部の人間の間では、各種騒動の賠償金を幕府に払わせることで、幕府の力を弱める目的もあった……という人もいます。
尊皇攘夷派のネットワークというのは全国単位に及んでおり、さらっと壬生みぶ藩(栃木県)に長州の桂小五郎が剣術修行に来ていた記録があったり、天狗党の田中愿蔵のブレーンの土田衡平が庄内藩出身だったりします。こうした一味の聖地が、水戸藩でした。
そのように捉えると、将軍まで輩出しているはずの水戸藩が、なぜ「尊皇攘夷」を唱えていたか、という謎の一端が見えてくるのではないでしょうか。

水戸藩の悲劇


さて、水戸藩の優秀な人材はこの内乱で皆殲滅され、明治期に水戸藩の人間が活躍できなかったのは、この影響だと言われています。

元治元年(1864)3/27、水戸藩の過激派たちは筑波山に集結し、尊皇攘夷を掲げて決起しました。いわゆる「波山義挙」です。
天狗党一味はそのまま斉昭公の御神体を奉じて、神君家康公が祀られている日光を目指しました。そこを拠点として、蜂起・攘夷決行を目論んでいたようです。
ですが、日光奉行が宇都宮藩に助けを求め、慌てた宇都宮藩は天狗党らの面々を説得。代表者が少しずつ日光に参詣するということで了承させますが、その後、天狗党の一味は栃木市南部にある大平山に籠もり、北関東各地で決起を呼びかけ(もとい恫喝)、また、愿蔵火事に代表されるように、「義挙資金」として、武器や財産強奪などの暴挙を行うようになります。

これらに対して、乱暴をやめるように説得に当たっていたのが、大発勢の山国兵部(天狗党総帥の田丸の実兄)でした。
ですが交渉は失敗。事態を重く見た幕府は、水戸藩が自力で問題を解決するのは無理と判断して、宍戸藩主松平頼徳よりのりに、水戸藩主慶篤の名代として事態を鎮圧するように命じます。
なぜ松平頼徳&山国が命じられたか。それはこの頃の江戸藩邸などでは、鎮派を中心として水戸藩の政治が行われていたからです。

ところが、この頃水戸城下で既に権力を握っていたのは、諸生党でした。諸生党らの面々は、幕府にヘルプ要請を出します。幕府を味方につけた市川三左衛門らは、頼徳らの水戸城入城を拒み、交戦状態になりました。
そのため、頼徳&山国らは已むを得ず、那珂湊方面にいた天狗党勢らと合流しました。
また、市川らは水戸城下にいた天狗党一味の身内を次々処刑。これもまた、後の報復騒動の一因となります。
そして気の毒だったのが、宍戸藩主松平頼徳です。幕府の征討責任者だったのは田沼意尊でしたが、申し開きをするために田沼の呼び出しに応じたところ、田沼は既に頼徳を「天狗党の一味」とみなしており、10/5に頼徳は切腹させられました。

さらにこの頃、既に天狗党を除名された田中ら散切隊は、水戸藩と棚倉藩(福島県)の境界にあった八溝山やみぞさんを目指します。ですが食糧なども乏しく、下山したところで悉く捉えられ、その多くが処刑されました。棚倉町には「天狗平」という地名が残されていますが、この処刑された天狗党一味が埋められた場所と言われています。

西上

こうして、大発勢はそのまま天狗党勢と合流、幕軍(二本松藩の立ち位置もここ)と対峙します。ですが各地で敗戦を重ね、「こうなった上は、将軍後見職である慶喜公(水戸藩主慶篤の弟)を奉戴しよう」ということで、当時、将軍家茂の上洛にお供していた京都の慶喜公を頼るため、西上することにしました。

ですが、慶喜は加賀藩などに命じて、西上してきた天狗党の一味を処断。水戸にいた天狗党の家族も、悉く処刑されます。多くの「天狗党の悲劇」として語られるのは、この下りかもしれません。

戊辰戦争


ところがそんな天狗党ですが、慶応4年の「戊辰戦争」で、転換点を迎えます。水戸藩出身だったはずの慶喜が大政奉還を行い、水戸藩でも勢力構図が変わりました。
それまで「賊軍」だった天狗党が、今度は薩長を中心とした新政府軍に「恭順」、反対に諸生党一味は「賊軍」扱いに転じます。
ちょこっと名前を出した守山藩の三浦平八郎なども、天狗党の乱の後は揚屋入り(牢屋入)していたのですが、赦免されて、藩政に復帰しました。
反対に、諸生党の頭目だった市川三左衛門らは「旧幕府軍」と共に各地を転戦。会津戦争などにも加わっています。時々見られる旧幕府軍の残党の中に出てくる「水戸藩」は、この市川ら諸生党の残党を指すものでしょう。
明治2年、「正統派」となった旧天狗党の面々から追われる身となった市川は、東京に潜伏していたところを発見され、処刑されてしまいました。
元治動乱の際に諸生党によって身内を惨殺された天狗党による報復は凄まじく、今度は諸生党の残党が厳しく弾圧されるようになったのです。

この天狗党・諸生党の対立構造は、茨城県内では結構近年まで尾を引いていたようです。確かに、ドロドロですよね。しかも、他藩まで巻き込んでいますし。
ですが、私はどちらが善でどちらが悪か、という問題ではないのでは?とも感じるのです。勤皇思想と一口に言ってもその実態は、純粋に「国学精神を大切にしよう」というものから、「倒幕思想」まで含んだ諸派まで、さまざまです。それらのお題目は、薩長の行為正当化のプロパガンダとして利用されたという負の側面もあり、そこから目を背けて「旧幕府軍は愚かだった」と一概に断じるのは、どうかなあ……と感じる次第です。
当時の「勤皇思想派」は、その理論が国を割るほどの危険性を秘めていたことに、気づいていたかどうか。また、「攘夷」理論が地方レベルではどのような危機をもたらしかねなかったのか。その辺りも、今後注目していただければと思います。

※過去の水戸藩の記事については、こちらからどうぞ!

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