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奇っ怪極まる水戸藩~尊攘思想と派閥争い(後編)

前編は「尊王攘夷思想の誕生」について、中編は「水戸藩内の派閥争いの系譜」について、解説しました。

そして今回は、横浜鎖港問題に始まり、他藩の尊攘派との交流、そしてなぜあの悲劇につながっていったか、解説してみます。


水戸藩の尊王攘夷思想と幕末の社会情勢

横浜鎖港問題

問題の位置づけが案外難しいのが、この横浜鎖港問題です。政治イデオロギー的に見れば、「神州日本にいる外国人を排斥する」ということになるのでしょう。実際のところ、尊攘派公家(孝明帝を含む)の間ではこの視点から幕府に「横浜鎖港」を迫っていたと考えられます。

ですが開港以来、横浜では既に「貿易」が始まっていました。当然それに従事する商人などの関係者がいるわけで、彼らにしてみれば「鎖港」は死活問題です。
その一方で幕府が開国して貿易が始まって以来、人々が諸々の「物価上昇」に悩まされていたのも、また事実。尊攘過激派は

「交易以来諸品が高値となり、卑賤の者等は暮らしが立ち行かなくなっている。これは諸国一統のこととは言いながら、御領中諸商人共が益々利を貪り、米穀は勿論呉服太物等追々値段引き上げているためである。これには町奉行やその配下までこれに加担しており、言語道断の所業である」

抜粋:水戸市史

とまで書き記していました。
尊攘過激派が各地で大商人を襲い「押し借り」を働いたのは、このような思想に基づくものでした。一例を挙げれば、新選組の芹沢鴨らが「大和屋焼き討ち事件」(文久3年8月)を起こしたのも、この考えに基づくものです。

もっとも尊攘派の考えはやや短絡的なもので、幕末の物価上昇の背景には、幕府の貨幣鋳改や天災・流行り病での人員不足など、他の要素も複雑に絡み合っていたというのが、実態でしょう。
ですが、とりわけ江戸・水戸では物価の上昇が激しく、水戸地方の物価は交易開始前と比較して、二割以上も上昇したとのこと。

幕府としても何もしないわけにはいかず、万延元年(1860年)には、「五品江戸廻送令」を発令しました。これは江戸問屋の保護と流通経済の統制を目的とした政策で、重要輸出五品(雑穀・水油・蠟・呉服・生糸)を横浜に直接持ち込まず、一旦江戸の問屋を経由して輸出するようにという内容です。
幕府としては、国内需要分を確保した上で、その余剰分を貿易に回すつもりでした。

ですが、生糸に関しては既に幕府の統制が効かないほど交易量が増加。その貿易に回す分が優先され、地元では品薄になって価格が高騰したと言います。

外国人を完全に排斥するのが無理だというのは、幕府も承知していたに違いありません。それにも関わらず、幕府が「横浜鎖港」を言い出したのは、「経済統制」のためだったのではないか……というのが、私の考えです。
消極的攘夷とも言うべき施策ですが、恐らく本気で外交を閉ざすつもりではなく、一時的な施策だったのでしょう。後に文久3年(1863年)12月29日には、正式な国策として「横浜鎖港を実現すべく」、リサーチのために池田長発ながおきら遣欧使節団をフランスへ派遣。鎖港交渉に当たらせています。

藩内外の志士たちとの交流

さて、水戸藩で誕生した「尊王攘夷思想」の影響を強く受けた藩の一つに、「長州藩」が挙げられます。意外な組み合わせかもしれませんが、万延元年(1860年)7月、長州の軍艦「丙辰丸へいしんまる」の艦上において、尊攘派の長州藩士と同じく尊攘派の水戸藩士の間で、幕政改革に関する密約が結ばれました。これを、「丙辰丸の盟約」成破せいはの盟約、水長盟約とも)と言います。

盟約内容は、両藩が提携して急速な幕政改革を推進しようというもの。世の中をかき乱し(破)、その混乱に乗じて幕政改革を成し遂げる(成)という、なかなか物騒な協約ではありますが、文久~元治元年の水戸・長州藩の動きがやたら同じタイミングなのは、背後にこの盟約があったからと推測されます。
ちなみに、「破」を担当するのは水戸藩、「成」を担当するのは長州藩という役割分担まで決まっていました。

盟約関係者
このとき、盟約成立に関わったのは以下の人物です。

この盟約が成立した時点では、まだ幕藩体制を崩壊させる「倒幕思想」までは至っていません。ですが、八月十八日の政変で長州藩の京都における勢力基盤が失われると、尊攘派の期待は自ずと水戸藩に集まりました。
そのため天狗党挙兵の直前には、桂小五郎から水戸尊攘派に対し、500両もの資金提供があったと言われています。

尊皇攘夷運動と幕末の動乱の結びつき

また、京都で起きた八月十八日の政変と前後して、水戸藩の尊攘激派が関与していたと思われる事件が、いくつかあります。

まずは文久3年8月17日大和国で起きた「天誅組の変」。これは、帝の大和行幸をきっかけに尊攘派の蜂起を図ろうとしたものですが、この一行への関与が疑われているのが田中愿蔵です。
同年3月に、水戸藩主慶篤よしあつの随行の一人として彼も上洛していましたが、一橋慶喜や慶篤が江戸へ戻った後も、なぜか京都付近にとどまっていたとのこと。そして、彼が在京中に師事していたのが、天誅組の変で処刑された藤本鉄石でした。
愿蔵が京都を離れたのは十一月に入ってからでしたから、彼が天誅組の変に加わっていた可能性は十分にあります。

また、北関東で活発に同志を募っていたのは、藤田小四郎らです。
こちらは同じく文久3年の秋、江戸で武州血洗島村の豪農、渋沢栄一らと2度会談していました。その影響を受けて、渋沢栄一らは、11月に赤城山で挙兵して高崎城を占拠し、武器・軍資金を調達。その勢いで横浜に攻め入り、焼き討ちを掛ける……という、テロを計画していました。(天朝・慷慨組の変
もっともこちらは、リーダーとなるはずだった桃井可堂が自首したために、未遂に終わっています。

以上の2件は水戸尊攘過激派が関わった代表的な事件ですが、他にも大小を合わせると、北関東の尊攘派志士と積極的に交流していたことが分かっています。
宇都宮藩の広田精一などはその代表格ですが、藩の枠組みを超えて、あちこちで「同志」を募っていた様子が伺えます。

水戸藩の分裂とその背景

ここまで見てきたように、水戸藩内部では、元々門閥派(諸生党)と改革派というグループがありました。
その改革派の中でも穏健派である「鎮派」と過激派である「激派」があり、武田耕雲斎に代表される鎮派は、激派の思想に一定の理解を示しつつも、多くの場合は「鎮撫」する側に回っていたのです。さらに敵対していた門閥派は、もっと苦々しい思いで激派の動きを見ていたことでしょう。

文久3年の冬から元治元年(3月に文久から元治に改元します)初春にかけては、水戸領内でも激派による暴行が横行。彼らの意図としては「攘夷の資金」の調達ですが、この動きは幕閣の間でも問題視されていました。既にこの頃には、あちこちから「何か事を起こすとすれば水戸藩だろう」と見られており、改革派のリーダーであった武田耕雲斎の苦悩は計り知れません。

そのためでしょうか。ここで武田耕雲斎は一つ失策を犯してしまいました。それが、「潮来いたこ鎮台ちんだい」の設置です。

潮来鎮台

この頃、水戸藩南部の郷校には全国各地から「浮浪之徒」が集結しており、尊攘派の拠点となっていました。特に有名なのが府中(現石岡市)にあった「小川校」(館長:藤田小四郎、幹事:竹内百太郎)、潮来校(館長:岩谷敬一郎)、湊校(館長:永井芳之助、現那珂湊)でした。これらは「三館」と称され、水戸藩執行部のコントロールが効かない状態になっていたのです。

ですが、元々武田は思想の源流を同じとする「改革派」の一人。激派の藩士を見捨てることなく、できるだけなだめすかして、後日藩の為に役立てさせようと考えていました。その一方で幕府の手前もあり、激派の過激な行動を監視し、彼らが暴発しないように押さえなければなりません。
その目的を一度に達成させるために、ほぼ独断専行で造らせたのが「潮来鎮台」でした。

この建設資金を出したのは、実は幕府でした。武田と交渉したのは老中の板倉勝静かつきよと推測されていますが、幕府としても「資金を出すことで取り締まれるならば、援助は惜しまないつもりだ」という態度だったようです。幕府としても、天狗党の関東各地における暴挙にはかなり手を焼いていたのでしょう。

潮来鎮台の建設は2/15に地鎮祭が行われ、4/21に普請完了。ですが、この建設資金の一部を武田は激派に提供することで、彼らを宥めようとしたのです。
結果的に武田の提供した金銭は「激派の尊攘活動資金源」となり、3/27の「波山義挙」につながってしまったのでした。

その後の武田耕雲斎

以後、江戸から水戸に「激派」の鎮圧に向かったはずの武田は、水戸入城を「諸生党」らに拒まれてしまいます。ここで水戸城に籠もっていた市川らに代表される諸生党は、元々武田ら改革派とは犬猿の仲。諸生党は幕府に援助を求め、それが認められたことにより「官軍」とされました。
一方、武田ら「鎮派」だったはずの人々も結果的には「賊軍」とされて、やむにやまれず「激派」と行動を共にするようになります。この結果を受けて、鎮派も「天狗党」と呼ばれるのは、この合流時点からという人もいます。

その後天狗党らは日立地方で追い詰められ、最終的に西上して「一橋慶喜」を頼ろうとしました。ですが待っていたのは、彼らの期待の星である慶喜からの討伐でした。
慶喜は元々武田に近い立場の人間であり、内心は相当「天狗党の討伐」が嫌だったのではないでしょうか。ですが父の斉昭が生きていた頃と異なり、それぞれの立場にはあまりにも隔たりが出来ていました。武田は「賊軍」の首領として、敦賀つるがで斬首。藤田小四郎らも同罪とされました。

尚、このとき助命された孫の武田金四郎は、戊辰戦争時において、今度は諸生党を弾圧する側に回りました。
その弾圧の激しさは、天狗党の乱のときに「諸生党が行った」以上に徹底していたと伝えられており、天狗党・諸生党相互の憎悪は、昭和の時代まで残されていたとのこと。彼の父(彦九郎)も耕雲斎と共に処刑され、また多くの身内を殺されていますから、金四郎の思いもわからなくはありません。
ですが、一連の天狗党騒動を一括りに「幕末の倒幕の先駆け」「英雄」と扱うのは、いかがなものなのでしょうか。激派のやったことは、間違いなくテロリズムですし、その一方で、鎮派はギリギリまで彼らを宥めて藩の役に立てさせようと苦心していました。

こうして天狗党の動乱の全体像を俯瞰すると、やはり、何とも言えないやりきれなさが残るのです。

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