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今さら二階堂氏

とっくにNHKの大河ドラマは「どうする家康」に移ろうとしていますが、やっとのことで、「鎌倉殿の13人」の総集編を視聴しました。
いやー、伊豆の純朴な青年がダークサイドに落ちていく様は、なかなか見応えがありました。
ですが、今回取り上げようというのは、「二階堂氏」。鎌倉殿の13人でも評議衆の一員であり、義時の3番目の妻の実家として紹介されていました。

二階堂行政

元の名は、白尾三郎行政ゆきまさ。祖先を辿ると、藤原四家の武智麻呂むちまろにつながるというから、結構古い家柄です。藤原鎌足から18代後の子孫が、行政というわけです。

父祖の代から京都に在住していたと言いますから、平安時代にも間違いなく何らかの形で重宝されていたのでしょうね。
頼朝挙兵で功績を挙げ、奥州の藤原泰衡追討でも活躍。その功績を讃えられて、岩瀬郡西部地方に所領を賜ったと伝えられています。

「二階堂」の名字を名乗るようになったのは、一説によると、頼朝の奥州征伐から凱旋した際に、戦死者を弔うために、平泉にあった二階大堂(大長寿院)を真似て、鎌倉に二階仏堂(永福寺)を建立。世間の人は、これを「二階堂」と呼び、地名となったとのこと。その近くに行政の邸宅があったので、「二階堂氏」を名乗るようになったとのことです。

そんな行政と岩瀬地方の縁が出てくるのは、和田合戦(1213年)。「鎌倉殿の13人」でも取り上げられていましたが、発端は北条義時を排除しようとした「泉親衡いずみちかひらの乱」でした。この時、和田義盛よしもりの甥である胤長たねながは、岩瀬地方に配流となります。このときには、岩瀬地方は既に行政の支配下でしたから、行政がいかに北条氏から信頼されていたかが伺えるのではないでしょうか。

ですが、その後の胤長の屋敷の処分などを巡り、不満を持った義盛は北条氏に反旗を翻します。その煽りで、結局、胤長も殺されてしまいました。その際、胤長の妻である照子が岩瀬地方にはるばるやってきたものの、夫の死を聞いて悲嘆にくれ「生きていても仕方がない」と鏡を胸に抱いて、入水自殺したと伝えられています(鏡沼)。

現在の鏡沼。再現されたものなので、小さな池にとどまっています。

この鏡沼ですが、江戸時代には蜃気楼が見られることで有名だったそう。照子の伝説と合わせて、かなり有名だったのでしょうね。
余談ですが、あの松尾芭蕉も、ここを訪れています。

行光~行実

さて、行政の長男である行光ゆきみつは、父の跡を継いで頼経よりつね頼嗣よりつぐ守尊もりたか三代の将軍に仕えたと言われています。また。、行光の弟である行村は山城守を名乗り、和田合戦の際に判事を務めています。その後、行光の系統は行盛、行泰、行実と代々文官の要として、鎌倉幕府の重鎮を務めました。
とにかく二階堂氏は一族が多く、中でも行光の弟である貞藤は、後醍醐天皇が倒幕を目論んだ際に(1324年正中の変)、時の執権北条高時に説教したり、1331年に高時が天皇の廃位を目論んだ際に高時に異議を唱えたりと、なかなか気骨のある人物だったようです。

南北朝時代

行実ゆきざねの時に、鎌倉幕府が滅亡。行実は、南北朝においては北朝側に立ち、足利尊氏・義詮よしあきらの2代に仕えました。
その一方で、須賀川城主であった行朝ゆきともは、北畠顕家と義良のりよし・のりなが親王に従い、多賀城に赴いています。行朝・顕行は奥州武評定衆として任命され、活躍しました。
また、行政から8代後の式部大輔為綱ためつなは、後醍醐天皇に可愛がられて関東に下り、建武の新政時、関東将軍守邦もりくに親王に仕え、後醍醐天皇から御製(天皇の歌)を贈られたりしています。

東路の遠き隔もなかりけり馴にしかたへ通ふこゝろよ

つまり、南北朝の騒乱のときは、同じ二階堂一族でも南朝と北朝に別れてそれぞれ活躍したのです。
為綱の子孫は、関東に下って武家方となり、鎌倉府に仕えました。この為綱の曾孫に当たるのが、為氏。小説の次回作の主人公(仮)になる予定の人物です。

鎌倉府と二階堂家

南北朝時代もごちゃごちゃしてわかりにくいのですが、さらに分かりにくいのが「室町時代」。私もうっすらとしか把握していないのですが、足利幕府は、2代将軍義詮のときに、関東・東北地方の要として「関東管領」という職を設けました。初代は、義詮の弟である基氏もとうじです。関東管領は、南朝に対する監視役も担っていました。

ところが南北朝の騒乱が一段落すると、関東管領は、中央政権である幕府と対立するようになっていきます。
2代目の関東管領(関東公方・鎌倉府とも)である氏満うじみつは、将軍になる野心も持っていたと言われており、長男である満兼みつかねは関東公方に、その弟である満直には須賀川にある「稲村御所」、さらに別の弟の満貞みつさだには郡山にある「篠川ささかわ御所」を任せました。
この間、三代将軍義満と管領細川頼之の間に不和が生じ、諸国の大名たちも、それぞれに味方するなど混乱をきたします。
また、鎌倉府においても、関東公方である足利家とその家人上杉氏の間に不和が生じ、本家である幕府はこっそりと上杉氏に関東公方討伐の命令を出すなど、カオスな状態に。

関東管領持氏は、6代将軍足利義教よしのりと争い、同じ岩瀬地方でも篠川公方は将軍側に、二階堂氏と稲村公方は管領である持氏側につきました。
その中で、1439年(永享11年)、管領持氏は将軍側と武蔵府中で戦って破れ、稲村公方もそれに殉じます。これが、通称「永享の乱」。二階堂伊勢入道はこのときに稲村公方に殉じたとされています。

さらに1440年、この後鎌倉公方の残党が足利持氏の遺児を擁して蜂起。このとき、南奥州の畠山・石橋・伊東・田村・石川の連合軍は、篠川公方を攻め、稲村御所に続いて篠川公方も滅ぼされ、鎌倉公方の拠点は岩瀬地方から消滅しました。
この時、足利持氏に仕えており、稲村公方と共に亡くなったのが、為氏の父である行春ゆきはる(式部大輔)だったのではないか……というのが、大まかな流れです。

余談ですが、私の俳号(篠川翠ささかわみどり)の名字は、この篠川公方の由来となった地名(現在の表記は笹川)から取りました。

実質都落ちだった為氏

岩瀬地方と二階堂家のつながりは、行政以来縁の深いものでした。とは言え、元々は鎌倉に土着していた一族であり、二階堂氏の本家筋は鎌倉に居住し、一族から須賀川に代官を派遣して、領地の管理に当たっていたのではないかと推測されています。

為氏ためうじは8歳で父行春を失い、1443年(嘉吉3年)12歳の時に家督を相続。その翌年13歳で須賀川に下向しました。
この時、須賀川の管理を任されていたのは、一族である治部大輔じぶだたゆう。この治部大輔がなかなかの曲者で、本家から須賀川の管理を任されていたにも関わらず、鎌倉への年貢を怠る、勝手に須賀川城を築城するなど、やりたい放題。それに業を煮やした本家は為氏の伯父である北沢民部きたさわみんぶを派遣しますが、民部は逆に、治部の妹である千歳御前を嫁にもらい、治部に丸め込まれる始末。
遂に為氏が鎌倉を出発し、須賀川に向かうのですが……。

……と、ここまでが次回作の始まるバックボーンです。
いや、本当にややこしい。

今回のメイン資料で利用しているのが「須賀川市史」(中世編)と「藤葉とうよう栄衰記えいすいき」という、二階堂氏の興亡を記した史料なのですが、結構家系図がごちゃごちゃしている上に、「直違の紋に誓って」よりもさらに時代が遡るため資料が乏しい。
さらにそれぞれの史料で引用されている元の資料でも異名が多いため、バックボーンを把握するのに難航しています。藤葉栄衰記は漢語調の文(恐らくは、明治時代などに活字化された)で返り点付きですし……。

家臣の名前も、名字+役職名だけしか判明していない人も多いですし、おまけに、須賀川市史で扱っているのが「室町時代末期」、つまり伊達政宗に滅ぼされるまでの約200年分をまとめて掲載しているため、いつの時代の話なのか、把握し辛いところもあります。

ですが、二階堂為氏とその妻である三千代みちよ姫の悲話は、絶対に小説の素材向け。今度は恋愛要素も入れられますし、うまく話が組めれば、それなりに楽しんでいただけるのではないでしょうか。
為氏と三千代姫については、松明あかしの記事でも取り上げました。

三千代姫の死を乗り越え、為氏は現在の須賀川の基礎を作り上げました。

そんなわけで、現在はちまちまと「藤葉栄衰記」の書き下し文&登場人物の確定からとりかかっているところです。これを現代語に訳して、やっと物語のプロットを組む段階になるので、まだまだ完成はほど遠そうですけれどね(苦笑)。

©k.maru027.2023

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