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大谷家と丹羽家

先日、久しぶりに二本松へ行ってきました。詳細は後日アップするとして、二本松の「城報館」の常設展示の一角にある「藩祖光重公」の人柄を伝えるコーナーの一角において、現在連載中の「鬼と天狗」の主人公、大谷鳴海の先祖にまつわるエピソードに思わずほっこりした次第です。
ちなみに丹羽家自体の中興の祖は、丹羽長秀公とされることが多いようです。今年の大河ドラマである「どうする家康」でも出てきましたが、長秀公は織田家の老臣の1人。光重はその長秀の孫に当たる人物で、丹羽家は光重のときに二本松に入植した次第です。
(典拠:『長秀年譜一』)

ところで「鬼と天狗」では、主人公である鳴海の家系(彦十郎家)を名門として描いていますが、実は「丹羽家」同様に、大谷おおや家もいくつか分家があります。今回は、その点も含めて「本家(=与兵衛や志摩)」と「彦十郎家(=鳴海、二階堂衛守)」の関係などについて、総合的に解説してみたいと思います。


固い忠義心で結ばれた大谷家と丹羽家

このビジョンは、「大谷亀松亭主光重公遊宴之図」という絵を、プロジェクターで映し出したもの。館内の案内板の説明によると、大谷家の長男である「亀松」を光重公は大層気に入っていたとのこと。このとき、亀松はわずか九歳。ですが、周りの大人らは主君に配慮して、「亀松」を亭主とした宴(要するにお茶会)を開いて光重公をもてなしたのだそうです。


この会話の詳細が、見てみたい(笑)。
幔幕や提灯に、直違紋が見えます。多分、一番奥にいらっしゃるのが光重公。

個人的にはもうそれだけでほっこりするのですが、大谷家と丹羽家の関係はかなり古く、その歴史は戦国時代まで遡ります。

大谷家とは

そもそも大谷家は、祖先を辿ると鎌倉時代の「二階堂行政」に行き着きます。実は「須賀川二階堂氏」(拙作『泪橋』で扱いました)と遠いながらも、同族ということです。ただし、「泪橋」の主役である「二階堂為氏」は行政の長男である「行光」の系統として扱われることが多いですが、大谷家の祖先は、どうも行光の弟である「行村」の系統の二階堂氏のような気がします。もっとも二階堂一族も系譜が多いため、どちらの血筋なのか、特定するのが困難なわけですが……。

一説によると、二階堂氏の開祖である「行政」から8代後、「四郎左衛門行道」という人物が南北朝の騒乱の折り、北朝側に立って武功を立てたとのこと。その軍功として、美濃国池田の城を賜り、従五位下に叙されたそうです。さらにその子である志摩守しまのかみ行信は、別命により尾張国丹羽郡のうち、須屋・鹿間・織村・田野美・大谷の村々を賜って、そのうち「大谷」に移り住んだと伝えられています。

この頃、尾張の守護は「斯波しば氏」。斯波氏は足利一門の一つで、尾張の守護を任されたのは、足利尾張守高経。以後、代々尾張の守護は「斯波武衛ぶえい」を名乗ったそうです。

ですが、時代が下るとともに斯波氏の勢力は衰え、行信から10代後、左近信吉のときに斯波氏の勢いが衰え、変わって「織田氏」が尾張国で勃興。それを憂慮した信吉の息子である弥兵衛(与兵衛)吉秀は、国主の斯波氏に隠遁を願い出て、自領に戻って入道。
ここで、父である信吉は息子を諭して隣国駿河に赴き、今川氏に仕えて世の中を見てくるように伝えたとのこと。父の言葉に従って吉秀は駿河へ転身し、駿河の国主「今川氏親うじちか」にその武勇などを愛されました。そればかりでなく、吉秀は氏親の娘との結婚が認められたのです。つまりは、「今川義元」と義理の兄弟ということになります。

丹羽家の始まり

一方、丹羽家についてです。
丹羽家は元々「児玉こだま党」として、尾張国丹羽郡児玉村を拠点としていたと伝えられています。信長に仕えたことで知られる丹羽長秀の父、長政は、器量や武勇に優れており父祖をも凌ぐと言われていました。何せ戦乱の時代ですからしばしば戦があったわけで、そこで武功を立て、守護である斯波武衛から馬や采邑を褒美として賜っていました。ですが、国主である斯波武衛の勢力が次第に衰えてくると、丹羽長政は他領へ勢力を広げつつ姓を「藤原」に改めて児玉郷に居城を築き、功名は広く知られることとなりました。

近郷の武将らはその武勇に敬服し、評判を聞きつけた能呂氏が、長政に娘を嫁がせました。二人は三男二女に恵まれましたが、長政は天文18(1549)年10月(日付は不明)、丹羽郡児玉村で亡くなりました。以後、丹羽家では長政を始祖として扱っているようです。

現代の地図だと、概ね愛知県丹羽郡と岐阜県の県境の辺りが、大谷・丹羽氏の発祥の地のようですね。


幼馴染との邂逅

ところで『長秀年譜』によると、大谷氏と丹羽氏は元々昔なじみの間柄だったようです。
大谷吉秀は駿河で戦功を立て結婚した後、天文21年8月に父母に会うために尾張に里帰りした際に、そこで長秀が織田家に仕官していると聞きました。
幼馴染ということもあり吉秀の感慨もひとしおで、清須へ長秀を訪ねていったその途中で邂逅を果たし、お互いに再会を喜んだとのこと。そこで長秀は「このまま自分のところに留まらないか」とスカウトしたというのです。
吉秀は大いに喜んでそのまま尾張に留まり、翌年駿河の国元にいた妻子を尾張へ迎え入れ、そのまま永禄3年桶狭間の戦いで、織田側の先陣を務めて活躍したのでした。

さらに、天文23(1554)年には吉秀の嫡男である「元秀」が誕生します。丹羽長秀は、後にこの嫡男を召し抱える際に、「義元の外甥であるから、『元』の一字を取って冠し、さらに我が諱の一字を与えるべし」として、「元秀」の名を与えたと伝えられています。

これが、「大谷本家」に伝わる伝承です。この直系の子孫が「直違の紋~」&「鬼と天狗」で出てくる、6番組の番頭、与兵衛(&その息子の志摩)ということになります。
だからでしょうかね。割りとこの本家の子孫たちは、「諱」は「元」もしくは「秀」の一字を組み入れているパターンが多いようです。

系譜で整理すると、こんな感じでしょうか。

「亀松」とは誰?

さて、大谷本家では、「元秀」が二本松藩における始祖扱いを受けています。そこからその叔父や、自身の子供、更に孫などから各分家が誕生していったわけです。
それらの各分家の一つが、元秀の五男である重門(恐らく読み方は「しげかど」だと思います)を始祖とする、「彦十郎」家。元々、大谷家の嫡子は

• 志摩守(志摩)
• 与兵衛
• 彦十郎

などの通称を名乗る慣習があったのですが、このうち、「彦十郎」の名跡は、重門の系譜が名乗るようになりました。この末裔が、鳴海や衛守たちです。

ところで、先の光重公が可愛がっていたという「亀松」ですが、パネルの説明には「祖母である大谷桃が……」とありました。
この「桃」さんですが、初期の二本松藩において、「氷餅」の品質改良・二本松藩の特産物として売り出すのに、多大な貢献をした人です。
「氷餅」というのは、もち米を粉末にして煮立たせ、それを凍らせて乾燥させたものです。食するときはお湯で溶いて、塩や砂糖などで味付けして食べたとのこと。現代でも、たまに和菓子に「キラキラした、薄甘い剥片」がついていることがありますが、あれが「氷餅」のようです。
幕府にも将軍への献上品として納入されていたそうで、専門の氷餅奉行なる役職もあったとのこと。恐らく、領内全体の「氷餅」の生産・流通の管理者だったのではないでしょうか。

「城報館」のパネルにもありましたが、江戸時代の「観光ガイドブック」的?な、『大日本國東山道陸奥州驛路圖』にも、しっかり「二本松城下の土産品」として紹介されています。

少し脱線しましたが、上の系譜によると、重門の孫は三代目の「信允」ということになりますね。彦十郎家の方は、代々「信」の諱字が使われる傾向が強いようです。例えば、鳴海の諱は「信古」、衛守の諱は「信近」、レアキャラ?の縫殿助の諱は「信成」といった具合です。

本家も丹羽氏と縁が深いですが、本流だけに限らず「彦十郎家」も、丹羽家と非常に密接な関係だった様子が先の絵図からも伺えます。

ちなみにこの宴ですが、延宝六年(1678年)、旧暦の2~3月にかけて3回も開かれたそうです。写真は絵図の一部だけですが、巻末には35名の登場人物の一覧表があるそうで、アットホームな雰囲気が伝わってくるのではないでしょうか。
この時、光重公は56歳で、翌年に家督を譲って、城内の元町谷御殿で、セカンドライフを楽しんだと伝えられています。

幕末の大谷一族

このように、丹羽家臣団の中でも大谷家はかなり古くからの家柄です。「関ケ原」の戦いを巡って、実は丹羽長重公が「重過失」(なのかはわかりませんが)があったために、関ケ原の戦いの直後、丹羽家は一旦「改易」、すなわち武士をクビになりました。当然、大谷一族も困窮したでしょう。
ですが、そんな中でも大谷家は主を見捨てず、3年後、2代将軍徳川秀忠の恩赦によって「常陸国古渡」で1万石の大名としてお家復興が許されると、その後、棚倉、白河の地を経て、大谷家も二本松に根を下ろしていくのです。

江戸時代は、本家も彦十郎家も「執政」、すなわち家老職に就くのも珍しくなく、両家とも1000石以上の大身として丹羽家及び二本松藩政を支えました。

※彦十郎家の継嗣については正確なエビデンスが取れないところがあるので、「鬼と天狗」の場合の系譜に基づいています。

「鬼と天狗」では鳴海を主人公に据えていますが、その弟(とされることが多い)である衛守は、本姓である「二階堂」の姓を名乗り、慶応4年7月29日、武谷剛介ら少年たちで構成された「砲術隊」において、隊長である「木村銃太郎」をサポートし、戦死しました。
また同日、与兵衛の長男である「志摩」は、詰番(番頭の控え)であるにも関わらず、急遽遊撃隊を率いて城下で奮戦し、やはり戦死しています。

まとめ

少し書いたように、丹羽家は「関ケ原の戦い」の戦後処理のために、一度は潰されました。ですが、「古渡城主時代」など苦難の時期を経て、夏冬の大阪の陣で再度武勇を轟かせようと集まってきた人々などが、その後の二本松藩を共に築き上げていったのです。(武谷家も、このパターン)
その中で、織田信長などが存命の頃から強く結ばれていた「大谷家」と「丹羽家」。丹羽家臣団の中でも、稀有な事例であり、その忠義心には感慨を覚えずにはいられません。

<参考文献>
・二本松市史4収録 「世臣伝1」
・二本松市史9 「人物伝」
・「長秀年譜一」
・二本松藩史 他

大谷鳴海が主人公の作品は、こちら。

戊辰戦争の鳴海、与兵衛、志摩については、「直違の紋~」でも描きました。

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