泪橋~破綻(3)
館の外に出ると、夏の照り返しがきつい。峯ヶ城から自宅までの道すがら、例の大仏の前に差し掛かかると、その仏前で手を合わさずにはいられなかった。
あの後為氏は、家臣一同の前で三千代姫への離縁状を書かされたのだろう。その場面は、まざまざと脳裏に浮かんだ。
せめて、あの夫婦に子供がいたのならば……。大仏の胸が抉れているのは、乳の出に悩む母親がその功徳を信じて煎じて飲むのだというのだが、主夫婦には大仏の加護も及ばなかったということだろうか。大仏の胸元を見上げながら、図書亮はぼんやりとそんなことを考えた。
図書亮も、永享の乱の折に十七で父を失い、それなりに苦労を積んだ気ではいた。だが、ここまで家中が割れるような争いに巻き込まれた経験はなかった。
「酷いと思うか」
大仏の前で佇んでいると、不意に背後から声がした。反射的に刀の柄に手をかけるが、振り返ると、そこには須田佐渡守が立っていた。美濃守のすぐ下の弟である。図書亮は安堵して、柄から手を離した。
謹厳剛直な兄と異なり、彼は至極穏やかな印象があった。
「佐渡守さま」
須田の者に対しては、図書亮も一抹の遠慮がある。黙って頭を下げた。佐渡守秀泰も大仏のところで手を合わせると、やがて、ぽつりと呟いた。
「お主には理解できなかったかも知れぬがな。あれでも兄者は相当悩まれた」
秀泰の言葉は、図書亮には意外なものだった。
「兄者は御屋形が幼少の頃から見守り、亡くなられた行春様に代わって御屋形の養育をされてきたのだ。御屋形がようやく伴侶を得て姫に御心を許しているのをご覧になられて、誰よりも安堵されていたのは兄者だった」
そう述べる秀泰の眼差しは、年の離れた弟を見守るかのように優しい。
「お主が御屋形と同じ頃にりく殿と夫婦になったのも、祝ってくださっただろう」
そう言えば、結婚の翌朝に出仕した際に、あの謹厳な美濃守がどこか優しげな表情だったのを、図書亮はふと思い出した。
「兄者の本質は、非常にお優しい方だ。ただ、それを気取られると二階堂家の家政に差し支えるからな。あのように、厳しい顔しかお見せにならなくなってしまった」
何と答えるのが正解なのだろうか。
「今のままでは、間違いなく御屋形ご自身の身をも滅ぼすことにつながりかねん。それは分かるな」
秀泰の言葉に、図書亮は是とも非とも答えられなかった。優柔不断な態度を取り続ければ、今度は為氏自身が家中の信頼を失う。そのような事態を防ぐために、美濃守や四天王は敢えて汚れ役を引き受けているのだと、秀泰は言っているのだった。
「御屋形は、離縁の理由をどのように書かれたのです?」
図書亮の問いに対して、再び沈鬱な表情で秀泰が答えた。
「近頃気分が優れないようであるから、父君の元で養生せよ、とだけ。離縁するとは、遂にお書きにならなかった」
「御屋形らしいですな」
辛うじてそれだけを口にするのが、図書亮の精一杯だった。
秀泰との会話の後、そのまま家に戻ると、りくが気怠そうに「お帰りなさいませ」と出迎えてくれた。近頃、御台と同じようにりくの体の調子も思わしくない。あまり食が進まず、体が重そうだった。こちらはこちらで気がかりであるのだが、「もう少しだけ様子を見てから」と言い張る妻の言葉に、図書亮はどうしてやることも出来なかった。
いつになく沈んだ夫の様子に異変を察知したのか、りくは黙って小魚の団子汁を用意してくれた。それが図書亮の好物であるのを知っているからなのだが、せっかくの団子汁も、今は汁を啜るだけに留まった。やはり、主夫婦の離縁を思い出すと気が重い。
「図書亮さま。いかがなされたのです?」
図書亮が為氏夫婦の離縁が決まったと告げると、りくの顔色も変わった。
「嘘でしょう?」
そう言いながら、りくもどこかで破綻を予期していたのかもしれない。はらはらと涙をこぼし始めた。
「あんなに御仲が宜しいのに……」
そう言うと、そのまま口に袂を当ててえづき始めた。その様子が、どうもおかしい。本当に病気なのではないか。慌てて、彼女の背を擦ってやる。りくは図書亮の手を払い除けると、外へ出て今度は何かを吐いた。せっかくの団子汁が勿体ないと、埒もないことを思う。
「薬師を呼ぶか」
夫の言葉に、りくは首を振った。
「病気ではないですから」
だが、そう告げた彼女の顔は青ざめたままだ。詰め寄る図書亮に対し、とうとうりくは、何かを決意したようだった。
「図書亮さま。このような時に申し上げにくいのですが……」
普段はあっけらかんとしたりくが、珍しくもごもごと口の中で言葉を転がした。相当に、言いにくいことを言おうとしているらしい。
「何か」
あの出水の時以来、図書亮の心は概ね「須賀川勢の討伐」へ心が傾きつつあった。確かに治部の所業は許し難いものだった。それでも姫は、自分が和田の者たちに好かれていないのも知っていながら、笑顔を貫き通していた。それを知りながら、自分にはどうしてやることもできない。できることならば、御台がこのまま和田にとどまり、為氏と添い遂げながら和田衆の治部討伐へと流れが向かうことを願っていた。だが、それも四天王らにしてみれば、甘い考えだったに違いない。
りくは、それら一連のことが許せないのかもしれない。
だが、おずおずとりくが告げた言葉は、図書亮の予想を大きく超えていた。
「子が、できました」
束の間、図書亮はりくをまじまじと見つめた。
「誰の?」
思わず間抜けな問いが、口から滑り出る。
「図書亮さまの御子が」
そう答えるりくも、どことなくぼんやりとした様子で答えていた。
気がつけばりくと結婚して、三年が過ぎていた。気にしないつもりでいたが、為氏夫妻の和子が取り沙汰されるように、りくは子が出来ないことを気にしていたのだろうか。
同時期に結ばれた主夫妻は、離縁と決まった。そのような状況の中で子が出来たのものだから、密かに母となる喜びを噛み締めつつも、言い出しにくかったのだろう。
「そうか……」
じわじわと、図書亮の口元に笑みが浮かんでくる。自分が父になる。結婚三年目にして、ようやく授かった我が子だった。
かつて花の宴で、りくが主夫妻の和子の乳母になる可能性も示唆されていたことを思い出す。図書亮の知らないところで、りくは子が出来ないことを随分と責められていたのかもしれない。
「いつ生まれる?」
「春を迎える頃には」
図書亮はそっと、りくの腹に手のひらを当ててみた。まだ目立つほどではないが、確かに生命の弾力を感じた。
「腹の子に滋養のある物を食べさせなければな」
そう呟いてみると、先ほどまで憂鬱だった気分はどこへやら、次第に気分が浮き立ってきた。
「兎でも狩ってくるか」
野兎はそこら中にいる厄介者だ。罠を仕掛ければ簡単に捕まえられるし、畑を荒らされる予防にもなる。捕まえてりくに食べさせれば、一石二鳥だ。だが、りくは困ったように微笑んだ。
「それが、子を身籠っているときに兎を食べてはならないと言われているのです。三ツ口の子が生まれるとかで」
「ううむ」
それは、困る。生まれてくる子が娘だった場合、三ツ口の子では嫁の貰い手も現れないだろう。
「じゃあ、卵はどうだ。鶏の卵なら、普通に病人にも食べさせるだろう」
再び、りくが首を横に振った。
「いえ、卵も禁忌なのです。こちらは、口のない子が生まれると」
「面倒だな……」
後で、義父に妊婦に対する禁忌を一つ一つ確認しなければならないと、図書亮は頭を掻いた。だが、それも主夫婦の危機に比べれば微々たる悩みだ。むしろ、そのような些事で悩めることに、喜びすら感じる。
だが、いつ戦の端緒が開かれるかわからない。そのような中でりくをここに置いて良いものやら、さすがに迷いが生じた。
「りく。御台が須賀川に返されるということは……」
先ほどまで嬉しそうな様子を見せていたりくも、現実に引き戻されたのか、顔を引き締めた。
「間違いなく、戦になりますね」
図書亮も、肯いた。
「生まれてすぐには子の顔を見れないかもしれないが、今はお前たちの安全の方が大切だ」
「図書亮さま。どうか、この子を父なし子にしないで下さいませ」
そう言うと、りくは図書亮の胸に顔を埋めた。図書亮の胸元が濡れる。
「武士にあるまじきことかもしれないが」
りくの頭を撫でてやりながら、図書亮は地祇に誓った。
「必ず、生きて戻る」
©k.maru027.2023
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