イマジネーションに満ちた街、須賀川
須賀川。この響きを聞いて、あなたはどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。
福島県の中央部に位置し、臨空都市を掲げる須賀川市は、私が幼い頃より慣れ親しみ、愛して止まない街でもあります。
私自身はというと、東京生まれにも関わらず、3歳のときにこの街に引っ越してきました。以来、小学校、高校、そして社会人になってからの多くの時間をここで過ごし、今尚、私に多くのモノを与えてくれている場所なのです。
文化活動が盛んな街
福島県全体で比較すると、県都福島市、郡山市、いわき市、会津若松市に次いで、須賀川は第5位の人口規模。街としては、それほど大きな街ではないかもしれません。
ですが、文化施設や活動に目を向ければ、県内トップクラスの街ではないでしょうか。
ぱっと思い浮かべるだけでも、次のような文化施設の名前が、すらすらと出てきます。
tette
tetteは、全国から各種視察団が訪れるほど、各所に工夫が施された公共施設です。
私もよく利用しているのですが、吹き抜けの明るい空間に、開放的な図書館。イベントホール・ルームを始め、キッチンルームや音楽ルーム、変わったところでは「朗読ルーム」も備えられています。
5階には小規模ながら円谷英二ミュージアムも併設されており、週末には家族連れなどが訪れているのを、よく見かけます。
須賀川特撮アーカイブセンター
ここも、私のお気に入りの施設です。ありがたいことに、この施設を取り上げた際には、noteの「公式マガジン」でも紹介していただきました。
特撮にさほど興味がなかった私ですら、特撮の精巧なミニチュアや街の模型に夢中になるほど、充実した展示。そして庵野監督らが受け継いだ「円谷スピリッツ」の集積所・無限の夢の詰まった場所でもあります。
風流のはじめ館
「風流のはじめ館」は、私が俳句に親しむようになってから時折訪れている、須賀川文学の展示施設です。
松尾芭蕉が「奥の細道」の道中で、須賀川に滞在した日数は何と8日間。亭主としてもてなしたのは、須賀川の有力商人であり、俳人仲間でもあった相楽等躬でした。
この一事からも、江戸時代には既に文化人の間でも「風流な街」として知られていた様子が伺えます。
この場所には、かつては白河藩校の第二教場も設けられた時期もありました。そのときより、学びの精神は、現代へも引き継がれているのです。
須賀川市立博物館
小さい頃はさほど興味を持てなかったのですが、「物書き」になってから訪れると、今までとは違う世界を見せてくれた施設です。
とりわけ、過去2回訪れているのは、春季定例の企画展である「雛人形展」。
年毎に少しずつテーマを変えているそうで、2022年は「須賀川地方における雛人形の歴史」、2023年は「婚礼」がテーマでした。
また、この博物館は、江戸時代の銅版画家、亜欧堂田善の銅版画の研究にも熱心です。
江戸時代、西洋技術と見紛うほどの精巧な銅版画を残した、亜欧堂田善。
その緻密な銅版も残されていますから、版画に興味のある方にも、魅力的に映る施設かもしれませんね。
花の美しい街
私が子供の頃は、須賀川市内全域で、「花いっぱい運動」というものが盛んに行われていました。その運動に違わず、四季折々につけ、とりわけ春は各種花々の美しい街という印象があります。
牡丹園
俳句でも何度か登場させていますが、須賀川には、柳沼家によって代々大切に保管されてきた、「牡丹園」があります。
元々は「薬」として育てられてきた牡丹ですが、いつしか柳沼家が守り続けてきた牡丹園は、人々の憩いの場として、多くの人が訪れています。吉川英治や北原白秋などを始め、多くの作家がこの場所から名作をつむぎだしていきました。
大桑原つつじ園
ここも、園主である渡辺家が代々大切に守ってきた園庭です。
時は江戸時代。会津藩のお殿様が江戸からの帰路の途中、休憩するために地元の庄屋に立ち寄りました。
その時の当主は、渡邉宗一郎。心尽くしでもてなされた御礼にと、お殿様は、会津に持ち帰るはずだった江戸土産のツツジの一部を渡邉氏に分け与えました。これが、大桑原つつじ園の始まりと言われています。
そして、この原稿を書くにあたってふと思ったことがあります。
現在連載中の小説で少しだけ登場した「渡辺重軌」は、この大桑原つつじ園の持ち主の、遠祖だったのではないでしょうか?
明白なエビデンスはありませんが、そのような想像も広がる光景です。
各所の桜
桜の名所も、挙げたらきりがありません。
私がかつて取り上げただけでも、
横田陣屋の御殿桜
釈迦堂川の桜
翠ケ丘公園
などなど。
これらの他にも、郊外に車を走らせれば、まだまだ魅力あふれるフォトジェニックな光景に出会えるはずです。
歴史のある街
そして須賀川は、歴史の古い街でもあります。一説によると、時代は大和朝廷の時代。石背国造がこの地に派遣されて、人々をまつろわせたのが、その始まりと言われています。
中でも須賀川の支配者として有名だったのは、二階堂氏。鎌倉時代には、和田合戦に敗れた和田平太胤長がこの地に流され、その名を取って「和田」という地名が残されたとのこと。
さらにその監視役を担ったのが、当時政所の政務を担っていた二階堂行村でした。
時代は下り、二階堂氏の子孫は永享の乱の煽りを受け、関東方面の所領を失います。その挽回を図ったものか、本格的に岩瀬地方に根を下ろし、須賀川の街づくりに力を入れたのが、二階堂為氏です。
こちらは、かつての須賀川城二の丸のあったtetteの屋上から、本丸の方を見下ろした光景。
現在は、二階堂神社が残るのみですが、当時は地方としては有数の賑わいを見せていた城下町でした。
須賀川の秋の風物詩である「松明あかし」のご神火は、この二階堂神社から出発します。
一族である治部大輔との覇権争いに勝利した後、為氏は多くの寺院を須賀川の中心部に移し、街衢を整えて、現在の須賀川の基礎を整えました。
ですが、その須賀川二階堂氏の一族も戦国の荒波には勝てず、天正17(1589)年、南奥州の覇者、伊達政宗によって滅ぼされます。
そのときの戦死者の霊魂を慰めるために、「狢狩り」と称して始まったのが、松明あかしでした。
昨年、3年ぶりに五老山で開催された松明あかし。須賀川に冬の訪れを告げる祭りでもあるのですが、その陰でひっそりと伝えられている悲話があります。
それが、須賀川の街の基礎を作った為氏の妻、三千代姫。結婚当時、彼女はわずか13歳だったと伝えられています。
夫と父の板挟みになった彼女の運命は、どのような末路を辿ったのか。その結末を知りながらもなお、哀れみを感じずにはいられません。
昨年、松明あかしの夜に訪れた三千代姫堂の中には、三千代姫の像が祀られています。
お堂の開帳は基本的に松明あかしの時のみであり、これも、彼女の導きだったのかもしれません。
松明あかしの夜、「三千代を偲ぶ会」の方々から、稀覯本である「三千代姫物語」の冊子をいただきました。
現在連載中の「泪橋」は、この出会いから誕生したとも言えるでしょう。
クリエイターに多くのモノを与えてくれる街
私が須賀川を愛して止まない理由。さまざまな要素がありますが、やはり「多くのイマジネーションを与えてくれる街」だというのが、最大の理由でしょう。
福島の魅力を、より多くの人に伝えたい。そんな思いからしばしば「#この街がすき」のテーマで、時には切り口を変えながら福島の記事を取り上げていますが、やはり地元へ寄せる思いは別格です。
noteで「須賀川」で検索を掛けると、かなりの確率で私の記事にヒットするのではないでしょうか。
最後に、「須賀川」の名の由来についてです。
須賀川の名前は、一説によると、「すがすがしい川の流れる街」という意味から派生したとのこと。
その名に違わず、須賀川の東部は阿武隈川が流れ、さらには釈迦堂川、滑川といった多くの清流が流れる街です。
数々の文化人・風流人たちに愛された街は、きっとこれからも、無限のイマジネーションを私達に与えてくれることでしょう。
これまで数々のサポートをいただきまして、誠にありがとうございます。 いただきましたサポートは、書籍購入及び地元での取材費に充てさせていただいております。 皆様のご厚情に感謝するとともに、さらに精進していく所存でございます。