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確認すれば、親は愛情がないことが分かる

親というのは可哀想な生き物である。愛情がなくても、「私は子供を愛してる」という嘘をつかなければ、村八分にされてしまう。
そして子供も、可哀想な生き物である。「本当は僕を愛してくれているはず」と信じて、親の愛を得るために身を削り、命を枯らす。

機能不全家庭とは、一言で言ってしまえば「嘘つきの饗宴」である。親は、「子供を愛している」という嘘をつき。子供は、「親は僕を愛してくれているはず」という嘘を自分につき。本当は、薄々わかっているくせに。「本当は、親は、わたしを愛していない」と、気づいているくせに。苦し過ぎる現実を直視したくないから、アダルトチルドレンの我々は、死ぬまで自分に嘘をつき続ける。
夢見ていたいからだ。「本当は、親は愛情深い人間なんだ」という幻想の中で生きている方が、今この瞬間は楽だから。だから現実から逃げている。だが現実から逃げ続けていると、心は枯れ、身体中が痛み、壊れていく。年齢通り、あるいはそれ以上のペースでどんどん老けていき、現実を変えるための力は気づいたら無くなっている。「ああ、ちゃんと向き合っておけばよかったな…」とベッドの上で思っても、もう遅い。

私は物心ついてから最近までの約30年間、ずっと幻想の中で生きてきた。まだ私が4歳か5歳ぐらいまでは、母親から手を握られたりなど、最低限のスキンシップがあった。だから勘違いしてしまったのだ。母親は俺を大事だと思っているのではないか、と。やりたくもない習い事を強制されても。「辞めたい」と言っても、「もう少し頑張ろう」と言われて心を踏み躙られても。機嫌が悪い時にぶたれても。目の前で、父親と戦争のような喧嘩を年中見せつけられても。幼稚園児だった頃の記憶が、全身にこびりついてい離れないから。だから「母親は僕を愛してくれているはず」と、存在するかどうかもわからない細い糸に縋って生きてきた。だが8歳の時に母親は、なんの報せもなく目の前からいなくなった。

捨てられた
そう思った。その時の記憶は曖昧だ。正気を保つために曖昧な記憶にさせられていたのだろうか。脳なのか意識なのか、身体なのかはわからないが、それらはうまく立ち回ってくれた。だが、一生刺さった刃から逃れる術はない。
「俺は親に捨てられた」
その感覚は、ついに30歳になっても消えることはなかった。むしろその傷が残ったままのせいで、さらなる大量の傷が上塗りされてきた。気づいた時には人間として崩壊した。

話を子供時代に戻す。
8歳の時に母親はいなくなった。だがいつからからか、確か小学校3年生、9歳頃か。母親は俺の前に現れた。サングラスをかけた、いかつく胡散臭い、でかい男と共に。母親に拾われ、また母親と暮らす生活に戻った。

なんで僕を捨てたの
たった一言。これさえ、その時に聞ければ全てが違っていた。本来したくもない起業もする必要なかったし、鬱病になる必要もなかったし、大嫌いな依存症者に囲まれて奴らに殺意を抱く必要もなかった。
でも聞けなかった。それを聞いてしまえば、正気を保てない気がした。精神が崩壊するのでは、と本能的に恐れた。
「新しい男の方が大事だからよ」
そう、母親に言われる気がしたから。明らかに俺といるよりも、新しい男といる方が、母親は幸せそうだったから。キャッキャと女の子のようにはしゃいで、弛緩しきった柔らかい表情で。実の父親といるときに見たことないような、というか生まれてから一度も見たことないような、幸せそうな母親の顔があったから。女は残酷だなと思った。

新しい男の方が大事だからよ
多分そう言われるだろうなと思い、でもそれを突きつけられるのは死刑宣告されるようなものだったから。だから怖くて聞けなかったのだ。

本当は、薄々わかっているくせに。「本当は、親は、わたしを愛していない」と、気づいているくせに。苦し過ぎる現実を直視したくないから、アダルトチルドレンの我々は、死ぬまで自分に嘘をつき続ける。
夢見ていたいからだ。「本当は、親は愛情深い人間なんだ」という幻想の中で生きている方が、今この瞬間は楽だから。だから現実から逃げている。

この頃から、幻想の中に逃げ込んだ。本当の友達は一人もおらず、常に一人で行動する。土日は家に引きこもり、映画や漫画、小説に没頭する。人間の理想の関わりが具現化された虚像たちだけを望んだ。現実と向き合い、目の前の人間と向き合うことを放棄した。

あんなに幸せそうだった母親の顔は、すぐに崩れて消えた。また実の父親といた時のような、険しい顔つきに戻り。戦争のような喧嘩の日々の戻った。おまけに新しい子供もこさえていたから、赤ん坊の鼓膜を劈く鳴き声も添えられた。人間としての温かみなど欠片もない、生温い地獄。
そんな中でも、家には住まわせてもらえたし。飯も毎日、三回与えてもらえたし。なんなら塾にも通わせてもらえたし。金の出所は、一人目の実の父親だったのかもしれないが。

俺は母親という女から愛情を感じたことがない。だが、世の中のカウンセラーたちはほざく。「愛情がなければ、毎日ご飯を作ってくれませんよ」と。
毎日ご飯を作る、という行為は誰に向いている行為なのだろうか。母親は世間体に犯された人間だった。あらゆる行為の根底に、「私が恥をかく」というのを、俺は毎日肌で感じていた。
「あの子、まともにご飯もらってないらしいわよ…」
そう、世間様から噂されることは、あの女にとっては身を切られるほど辛いことだ。なんて酷い母親なんだ、という札をつけられることになるから。
「じゃあ、そもそも子供なんか作らなければいい、育てなければいい。でもそれをしたってことは、やっぱり愛情があるから、ということよ」と、世の中のカウンセラーたちはほざく。
だが、そういう話ではないのだ。田舎町で、いい年の夫婦は皆「あなたたち、子供はどうなの?」と恐喝をされる。その恐ろしい脅しに逆らえる者など一握り。世間体に犯されていたあの女が、脅しに向かっていけるわけもなかったのだ。「世間体としてどうなのか」という要件を満たすため。子供を産み、育てるというのは、そのための生存戦略なのだ。

そんな認識でいたから、当然、母親から愛情を感じたことなどない。そんな認識を、のちにいい大人になってから確認した時。母親は顔を真っ赤にしてキレた。そして泣いていた。だが、否定されなかった。「愛している」とは言われなかった。ただ、「親に向かって、なんて酷いことを言うの」と言って、泣いていただけだった。

ここで改めて、こちらについて考えたい。

夢見ていたいからだ。「本当は、親は愛情深い人間なんだ」という幻想の中で生きている方が、今この瞬間は楽だから。だから現実から逃げている。だが現実から逃げ続けていると、心は枯れ、身体中が痛み、壊れていく。年齢通り、あるいはそれ以上のペースでどんどん老けていき、現実を変えるための力は気づいたら無くなっている。「ああ、ちゃんと向き合っておけばよかったな…」とベッドの上で思っても、もう遅い。

なぜ心が枯れていくのかというと、それは言うまでもなく「苦しい」から。では何が苦しいのかといえば、「愛されてるのか、愛されてないのかわからない」ことが苦しいのだ。
漫画に出てくるような綺麗なクズ親であってくれたなら、どれだけ楽だっただろう。心置きなく、一切の罪悪感なく、「老後の面倒は一切見てやらん」と決断できるからだ。周りも、世間も、その決断に賛同してくれるからだ。
だが。「もしかしたら愛情がある親なのかもしれない」と、巧妙に騙され、宙吊りにされている状態。これは本当に苦しい。人間の感情の起伏というのは、常に「期待との差」によって生まれる。本当は期待したくないのに、親たちの洗脳によって、永遠に一定の期待値が脳内に設定されてしまう。そして永遠に、期待値を下回る信号が脳内に送られる。24時間、さくさくと刃を刺され続けているようなものだ。

「ごめんなさい。今までずっと、嘘をついていました。本当は私、あなたをちゃんと愛していませんでした。私は、自分を大事にすることすらできない人間だったのに、子供を愛することなんてできるはずもなかった。それに今更ながら気づきました。今まで騙し続けて、本当に申し訳ありませんでした」

こう、素直に白状してほしい。世間体など気にせず。「世の中から、なんて残酷な人間なのだと思われることが怖い」など、そんなしょうもない恐れに負けず。「正直、あなたを育てなければいけない日々は、本当に苦しかったです」と、本音を恐れずに出して欲しいのだ。

でも、母親は結局、最後まで向き合ってくれなかった。どれだけ確認しても、どれだけ問い詰めても、俺と向き合うこと、自分自身の本音と向き合うことから逃げた。最後まで、表面的な借り物の言葉。薄っぺらい言葉しか吐かなかった。
子供を想うこと。それはつまり、自分の、目を背けたい醜さに手を突っ込んで向き合うこと。だがあの女は、それよりも「可哀想な自分を守ること」だけを優先したのだ。

冒頭のテーマに戻る。「確認すれば、親は愛情がないことが分かる」について。
これは正確には、「子供が欲する愛情がないことが分かる」だ。
どういうことか。

残酷な話だが。親に徹底的に確認していくと、意外と「親は親なりの葛藤、親なりの愛情の定義がある」ということに気付かされるケースが多い。血も涙もないクズ親、というのは意外と少ない。漫画のように綺麗にはいかない。だから余計に苦しいのだが。

私は徹底的に確認した。母親に、一緒に過ごした18年間の全てを。
「なぜ俺を捨てたのか」
この問いに対して、母親の回答は「捨ててない」だった。
田舎で裕福な農家の父親方から、「駿は長男だから置いていけ」と言われた。一度、学校帰りの駿を車に乗せて、母親の自宅に連れて帰ったが、警察に電話されて、仕方なく父親側に返した。
母親は、そう答えた。俺は全く覚えていなかった。意図的に捨てようとしたわけではなく、一度は取り返そうとしたらしい。

この事実をどう見るか。多分世のほとんどの人間は、「実際に取り返そうと行動したなんて…素晴らしい母親じゃないか!」と言うだろう。だが俺は、何の感動も、感謝もなかった。
「仕方なく父親側に返した」
これを聞いて、やはりレベルの低い女だなと思った。思考レベルも行動レベルも低い、無能な女だなと再認識した。そんなもの、どうにでもできるだろう。親権なんて、母親が獲得できる確率なんて90%以上なのだから、よほどの事情がなければ勝ち取れるのだ。だが、その努力は見られなかった。
結局俺が母親の元に移送された経緯だって、父親方が、「やはり母親といるのがこの子にとっていいのだろう」と気まぐれで考え方を変えたから、だ。別に母親の努力でも何でもない。俺が取り残されて頭がおかしくなっていたのか、なのか理由はよくわからないが、たまたま父親方の意見が変わった、ただそれだけだ。

「仕方なく父親側に返した」
やはりこういうことだった。それに子供を本当に大事に思っているのであれば、「突然母親がいなくなったらどういう気持ちになるか」なんて、どんなバカでも分かるだろう。
なぜ、俺の元からいなくなるのか
それを、母親は俺に語ることもなく出ていったのだ。本当に相手を想っているのであれば、当然それぐらいのことはするのでは? 俺がそう問うても、母親は俯いたままで、何も答えなかった。核心に迫っていくと、この女は殻に閉じこもり、出てこなくなる。

結局、それ以外も確認したが、全て上記のような収穫しかなかった。
俺のような強欲ではない、まともな人間であればこの女のことを「素晴らしい母親だ」と崇め、健やかに育ったのだろう。その水準の愛情は、確かにこの女にはあったように思う。
だが強欲な俺からすれば、圧倒的に足りない。顕微鏡でしか見えないぐらいの小さなもの。小さすぎて、レベルが低すぎて、もはや存在してないのと変わらない。

そんなんだったら、最初からそんなことしても意味ねえじゃん。親と向き合うとか、そんな面倒臭いこと、しないほうがいいだろう。あなたはそう思うかもしれない。だがそういうことではない。

「もしかしたら愛情がある親なのかもしれない」と、巧妙に騙され、宙吊りにされている状態。これは本当に苦しい。人間の感情の起伏というのは、常に「期待との差」によって生まれる。本当は期待したくないのに、親たちの洗脳によって、永遠に一定の期待値が脳内に設定されてしまう。そして永遠に、期待値を下回る信号が脳内に送られる。24時間、さくさくと刃を刺され続けているようなものだ。

この徹底した確認をやり遂げれば、この呪いから解放されるのだ。親たちの洗脳によって設定された「脳内の期待値」が跡形もなく消え去るのだ。要は、「この親は、本当にしょうもない、レベルの低い人間だったのだ」ということが疑いようのない事実になる。「もしかしたら愛情がある親なのかもしれない」なんて、一切思えなくなる。幻想の中で生きていたくても、その幻想が嫌でも取っ払われてしまうのだ。

そして、素晴らしい絶望を味わえる。
「私は、本当に今まで、愛されてなかったんだ」
身体中が一気に干からびていくような、そんな素敵な絶望を。

我々はこの絶望を、一日も早く味わわないといけない。
「私が欲する愛を与えてくれる人は、この世に誰もいなかったのだ」という、死にたくなる絶望を、早く味わわないといけない。本当の絶望を知らないと、本当に自分が欲する愛情が何なのか、永遠にわからないからだ。永遠にわからないから、永遠に悩み続け、永遠に心を抉られ続け、精神が崩壊して首を括るのだ。

この人生で、自分が本当は何を望んでいるのか。これさえ見えてしまえばもう仕上がったも同然。ただそれを獲得するために、のんびり無理せず生きていけばいいだけなのだから。気づいたら、「死にたい」と思うことがなくなっているだろう。

親は、私の脳内に存在する価値のない人間である

なるべく早く親と向き合い、それを確認しよう。
ベッドから起き上がれなくなる前に。







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第一弾:親殺しは13歳までに

あらすじ:
2006年。1日に1件以上、どこかの家庭で親族間殺人が起きている国、日本。そんな国で駿は物心ついた頃から群馬県の田舎で、両親の怒号が響き渡る、機能不全家庭で生まれ育つ。両親が離婚し、母親が義理の父親と再婚するも、駿は抑圧されて育ち、やがて精神が崩壊。幼馴染のミアから洗脳され、駿は自分を追い込んだ両親への、確かな殺意を醸成していく。
国内の機能不全家庭の割合は80%とも言われる。ありふれた家庭内に潜む狂気と殺意を描く。


第二弾:男という呪い

あらすじ:
年間2万体の自殺者の山が積み上がる国、日本。
想は、男尊女卑が肩で風を切って歩く群馬県の田舎町で生まれ育つ。
共感性のかけらもない親たちから「男らしくあれ」という呪いをかけられ、鬱病とパニック障害を発症。首を括る映像ばかりが脳裡に浮かぶ。
世界中を蝕む「男らしさ」という呪い。男という生物の醜さと生き辛さを描く。


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